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前世とは。
その名の通り、前の世。今より前の人生のこと。
このノア・マヒーザ、十七歳にはその前世の記憶と言うものが、自我が芽生えた頃からゆっくりと夢と言う形で脳に刻みつけられていた。
前世の記憶を夢に見る、と言うだけでも異常な体質と言うのに、特に驚いたのは僕が生まれた世界についてだ。
ここは、魔法が根付いた世界。
しかし、科学が代替として発展し、魔法など空想の物語だと言われていた前世の記憶を解くと、そちらの一般常識である現代社会と言う基盤では比べ物にならない程のお伽噺の話の世界だそうだ。
僕の前世は地球という星の、西暦二千何年の日本国に存在していた、どこにでもいるような背景と同じくらいの存在感のオフィスレディだった。
名前も顔も、享年やらも分からず仕舞い。まあ、そこまで詳細に思い起こせる程他人の記憶を見ることが出来たとて気持ち悪いので、ぼやけた前世を持つ以外は普通の魔法を使う人間として、この先も農家の次男坊として平穏に育つ予定であった、のだが。
――何故だろう、どこかでこの世界を「見た」気がする
そんな不穏さを感じ取ってから、謎を解明するまでの間に。僕は前世が持っていた一部の記憶を、情報と言う形で強引に脳に詰め込められ、完全に取り戻したのだ。
きっかけは、何気無い日常の中にあった。僕は、日本とは全く違うこの世界に新しく産まれた命なのだという自覚はあったのに、この世界にいつも既視感というものを覚えていた。
例えば、土地の名前。例えば、この国の殿下の名前。例えば、都にある魔術学園の名前。初めて来た世界だと言うのに、それら皆、僕はどこかで聞き覚えがある。不気味に思っていたのもほんの少しの間で、数日のうちに頭に雷が打ち付けられたかのような衝撃を浴び。僕は思い出し、そして気付いたのだ。
この世界が、前世の女性が夢中になっていたとある物語の世界観にあまりに酷似していることに。
「待ってて、僕のマトゥエルサート!」
山の終わりの道を飛び下り、興奮のあまり声が出てしまう。
待ってて、僕が!僕が愛しに行きますから!
今の僕の心を突き動かすのは、彼女を守りたいという自分勝手な加護欲であり、ブレーキが壊れた恋心であった。
× × ×
「慈愛のマトゥエルサート」
それは、僕の前世である女性が熱中していた乙女ゲームのスマホアプリの名前だそう。…不思議なことに、言語や聞き慣れない用語の意味も、夢を見る度にすとんと腑に落ち理解が出来る。
それは魔法国を舞台としたファンタジージャンルで恋愛をメインにしたシナリオを配信、戦闘や編成時の細やかな2Dの変化などどれをとってもクオリティが高く評価されていたらしい。
‥らしいと言うのは、これらが全て情報として自分の頭にインプットされたからで、実際に僕自身は経験したことは無いからだ。断片的な記憶もあり、未だに不明なブラックボックスとも言える領域もある。
夢の中でよく前世にあたる女性が液晶画面を触る姿と、その中で再生される一部の映像。そして、夢を重ねる度に勝手にこの頭に雪崩のように落ちてきて記憶の容量を埋める情報群のことを、ある時分までは僕も気味が悪くて不快であったことを連ねておこう。
所謂、前世の世界では相当の人気作品だったらしい。総ダウンロード数が三千万を突破したこともある程で、ファンの創作に対しても寛容だったことから本気で別の次元に恋をする者や、登場人物の関係性に惹かれる者達の層が集い、とても優しい神アプリとさえ称えられていたらしい。
マトゥエルサート(matuersaat)とはグリーンランドと言う国の言葉で「鍵」という意味だ。アプリ制作時の仮タイトルにあとひとつ何かほしいという時期、開発スタッフの知人にそこと関わりがある人間がいて、使えそうな言葉のアドバイスを貰ったところその単語を当て嵌めタイトルに入れたという流れがある。
プレイヤーであるヒロインは平凡ながらも努力をして強い魔法を使えるようになり、始めは身内やギルド周辺のキャラクターのみが攻略可能対象であったがアップデートや新規キャラクターの実装を繰り返し、何十人もの違ったタイプの個性ある魔術師と時に恋愛時にほのぼの、時に戦闘…と。王道を往くかたちを作り上げていた。
マトゥエルサートと言う言葉自体は、現実にこの国に住んでいるのなら誰しもが分かる程、古くから残るまじないの一種を示す。
婚姻の儀の際には女が鍵、男が錠前、それぞれを教会から手渡される。それも、一度差し込み鍵をひねれば二度と離れないという特別な魔法がかかったものを。
遠い遠い昔に、この国の王族が純粋に愛を誓った際、当時の情勢の事情により婚姻の指輪をつけることすら叶わず。それでも愛し合う二人が繋がる様は永遠だと、ひっそりと、自分達だけに分かるように特製の鍵と錠前を作り繋げ、「この鍵と錠前のように自分達は絶対に離れない」という想いがいつでも目で見えるよう部屋に愛のお守りとして置き始めたことが始まりで。流れ流れて今でもその儀式は愛されている。
アプリでもその概念に似ているものがあったらしく。ヒロインは鍵、攻略対象の男キャラは錠前の画像を当てがわれており、選択肢を選ぶ矢印アイコンは常に可愛い鍵のかたちをしていた。錠前に鍵が差し込まれると効果音が鳴る仕様は、可愛い仕掛けだ。
恋愛モードではまさしく、メンタル的な表現でも攻略対象の閉じた恋の錠前をヒロインが鍵で開けていくのだ。親愛度を深める度に攻略対象のレベル上限が上がったり、個別ストーリーが展開されたり、と乙女にとっては眼福な程重厚なボリューム。くわえてノンプレイアブルキャラクターが劇中で同性同士のカップルが成立したこともあり、それを期にそう言った愛好家もどどんと増えて一時期は界隈の空気も混沌としたそうだ。
……とまあ。このままだと、前世の記憶が勝手にマイクをとって熱く語ってきそうなので。敢えてここは一言で済まそう。
――僕の前世は、そのスマホアプリに累計1000万円以上は課金した廃課金と呼ばれる域の女性だったのである…。
その金銭をもっと真っ当な生活に使えと、実生活で支障が出るほど娯楽に嵌ってはただの博打と変わりは無いんだと、僕が同一の軸で存在していたのなら言ってやりたい。しかし今手元に残るのは、何の因果かそう言うことをしていたと言う前世の別人の記憶だけ。今の慎ましやかな生活と比べるとあまりに金の使い用が荒いことは前世に対する不満点であろう。
あれよあれよと前世の記憶は若干の言い訳も含めたように、久々にはまった乙女ゲームアプリだから、この先二度とこんなにはまらないから、と躊躇無くクレジットカードなる物を使う映像も夢に出されてはたまらない。
ランキング報酬などを追加されては課金せざるを得ない、と言う開き直りも含め、揃えた課金艦隊の中で一番な活躍を見せたのは‥‥僕が名前を出すのも恐れ多い、齢十七歳という年齢でこの国の王になり、既に妃もいるという攻略非対象であるにも関わらず、チートそのものと言ってもいい攻撃力を誇るベニアーロ・クラウリス陛下(ガチャ排出率激渋最高レア)‥‥この世界でも、同じく僕の国を統べる天とも並ぶ後光の元に座す方。
そして、それと別に最推しと言う位置にしていたのは、ヒロインにとっては悪女と言うべき存在のエリーゼ・リース伯爵令嬢であったのだ。
僕の前世は、いわゆる創作活動だのに手を伸ばし、労働の辛さを癒して生きていた。僕は正直好きなことに夢中になるその気持ちは分かる、人間なら良くあることだろう。僕自身も好きな小説家がいて、新作が出る度に本棚ごと読み直したり、愛着は尽きない心に関しては理解が深い。
僕の前世は仕事で忙殺され、世間で人気の新作に追いつく気力も無かった頃SNSで薦められた「慈愛のマトゥエルサート」に見事はまったのだ。そして、湯水の如く金を使う道へまっしぐら。
二次元の趣味嗜好的に、僕の前世はとても……なんというかあれなのだが、悪女や人でなし、ゲスでクズでどうしようもないレベルの存在が凄く好きで。そう言った子が「実は良い子だった」と言うパロディばかりを書くことにはまっていたらしい。
この一点だけで、僕自身とは別人の人格だなとハッキリ分かってホッとした夜もある。前世に乗っ取られていない、大丈夫だ、僕は僕のままだ、と確信するにあたった理由が創作性の方向の違いと言うのも似通っている感じがして嫌ではあるが。
僕は、創作物における悪役に対しては「悪のままでいてほしい」と言うスタンスである。一番好きな作家が「悪役ばかり可哀想な目にあって嫌だ、番外編などで幸せにしてほしい」だの「本当はいい子なんでしょう?あそこの言葉も伏線!」だの、悪役を美化して作家本人にそう言う感情を押し付ける厄介なファンに詰め寄られていたことが不愉快だったと言うのも大きい。そう言う文句を言ってきて悪役に変な感情移入を大きくする者程触れない方がいい人間であるのだ、と界隈では暗黙の了解である。
他にはら界隈に動きがある度にカップリングの妄想本や考察本を作ったりパワーポイントまで使って布教に勤しんだりと、そういった方面のパワーはとてつもなく強くて…。
ああ、思い出すのやめます。
ともかく、そういった僕の前世は、イベントがあれば即課金。ランキング戦では常に上位をキープ、レベルマックスにすることが最低条件であると言われたベニアーロ陛下を先頭固定に、低レアであるにも関わらずいつも愛でアイコンにしていたエリーゼを見られては「またエリーゼアイコンの人だ」言われるくらいには恐ろしいくらいの投げ銭をしていたことになる。
とにもかくにも、自分に前世があると気付いた時は本当に驚きもしたし、興奮もした。同時に今でも急に気が狂い出しやしないかと言うことも不安である。
流石に詳細を表立って話すにはあまりに素っ頓狂な夢であり、しかし反面僕の中には「実感」と言う経験として頭に鎮座している。この矛盾に悩み続けてはいるが、紆余曲折を経てなんとか今の平凡な生活に安定を見出して。
そうして、思ったことは「この世界で、彼女は幸せに過ごせるのだろうか?」と言う、初めて燃え盛る恋を覚えた故に来た疑問であった。
ノア・マヒーザ、と言う男性は、前世の記憶の中ではアプリ内に存在しない。自分の家族もそうだ。ゲーム上の攻略対象でもノンプレイアブルキャラクターでも、モブキャラクターでも無い。ただ、ここはゲームの世界では無く、僕が息をし生きる真実の世界、夢では無い。
自分の記憶に無いのだから、今の僕は本当に、この世界に住まう一般人と言う汎用的存在なのだ。それを確信してからはなおさら、「僕にエリーゼを救える可能性もあるのかも」と希望を見出したのだ。
実は僕の前世も好きだったと言うエリーゼ・リースの略歴は、とても不遇だ。と言ってもほぼ自業自得の経緯からくる結末で。
彼女は主人公であるヒロインに権力を使い色々と邪魔をしてきたり、命に関わる嫌がらせをしてきた挙句に勘当・国外追放されそのままフェードアウトする…という、行動自体はテンプレートに当てはめられた悪女そのもの。
マトゥエルサートは、担当絵師がそれぞれ違うこともあり、僕の前世はまず彼女に惹かれた理由のひとつに「キャラデザ」があった。人外系を得意とする絵師さんが描いた人間キャラであるエリーゼは、絵師さんの手癖でその目と歯が特徴的になり、人外染みたフェイスになったことから心を打ち抜かれたそうな。
彼女のカードガチャは、ストーリーからいなくなるまでのものは全部揃えたし、全員育てあげた。スクショをあげれば狂人かと言われたレベルである。
そんな風にストーリーからも見放され。その後の推しの描写も一切無く、数年かけてメインストーリーを完走してもベニアーロ陛下のスチルは増えどもエリーゼのスチルは当然いなくなった過去のまま止まっていて…。僕の前世は、ベニアーロ陛下がいなければ、あのゲームを続けるモチベーションが続かなかったかもしれない。
そんな彼女が、この世界に本当にいる。
誰にも救えなかった彼女が、この世界にいる!
どれだけ恐れ多いことだとわかった上で、僕は覚悟を決めたんだ!この世界で、彼女に手を差し伸べられる人間になれたら…いいや、なりたい、と!
顔も声も知らぬ、今どのくらいの成長をされているのかもわからず、基本的な情報は夢で見た浅い上辺だけのことしか知らない。それでも自分は、恋に落ちた。いいや、焼き落とされたのだ、生涯山中で過ごしていては絶対に出会うことも無いだろう、高嶺の悪の花に。他人の夢越しに恋をした。
なんと危篤で狂った思考なんだろうか。
流石にここまで俗なことを実兄にも言えるわけは無く、色々と美談に聞こえるように誤魔化しては来た。
そしてついに、今日。ヒロインのみならず、周りに今まで行ってきた悪行が露呈され。魔術学園から彼女が追い出されてしまう日が来たのだ。
この日が来る前に救おうと、何度も彼女との接触を試みたが。それは、この世界の修正力というものが働いたせいなのだろうか。メインストーリーの描写から推察し、この年齢の時なら絶対にこの地域にいる筈…と足を運んだ時期の全てが外れ。しかし、その過程で彼女の一族が存在することは確信した。
だから余計に入念に準備を行なった。
彼女に会うのならば、やはり。彼女がストーリーから切り離されてからしかないのだ、と。
「ああ!今、愛に行くよ!」
会ったこともない、貴女の為に。
まだ何も知らない貴女を知る為に。
僕は今、全てをかなぐり捨てる覚悟で疾走する。
危険だ、と自分でも思いさえするけれど、この想いは絶対に枯れることは無いだろう。
恋とは、消えない炎を動力源にしてこの身に降りさせることなのだ。空を飛ぶような高揚した感覚で、靴の裏が土を蹴っていった。