13
「左手は柄の先に、右手は少しあけて握ります」
「それで、こう、か。っと、」
「あ!いやいや!大丈夫です!そこまで上げると余計に身体に負担が来てしまいます!」
太陽が真上に昇る頃。その光を遮るように、大きく振りかぶられた鍬の先が土に吸い込まれていく。と言っても、バランスが崩れた為か本来の力を出し切れずにゆっくり落とされたようなものだ。
ガーデンウェアに着替えていたエリーゼは、今、僕がいつも使っている鍬を手に菜園スペースである広い畑の端で恐らく人生初めての農作業というものを経験している最中であった。やはり、というか可愛らしいと言うか。エリーゼの中でも鍬という農耕具は思い切り高く上げて振り下ろすというイメージが強かったらしい。僕の真横で思い切り土に鍬の先を叩きつけたエリーゼの姿を見ると、世間知らずの点を少しは持っているお嬢様というギャップを感じてしまって微笑みがおさまらない。
「……笑うんじゃない」
「はは、すみません。……可愛いなと、思って、」
そうだ。王都からも離れて、リース家からも捨てられて、貴族階級も関係無いこの瞬間だけは、エリーゼも普通の少女に戻れているじゃないか。それを思うと感動で腹が一杯になりそうだ。鍬はあまり振り上げすぎても身体をすぐに痛めてしまうし、力任せに作業すると腰に来ますよ、と。もう一本持っていた鍬でもって、目の前で見本になれるよう膝を軽く曲げ、振り上げると言うよりも掬って引き寄せる動作で土をほんの少し掘り起こし、除草作業を続けた。
朝食後、話の前に昨日の続きとばかりにエリーゼからはカシタ農園の詳しい案内を頼まれて。山内の植物の成長速度の違い、菜園のどこで何を育てているのか、家畜は何が何匹いるか、果樹や蜜花を育てているスペースはどこで、商品を持ち寄る前の作業はどうだだとか、基本的にどう言った作業をすればいいのか。
それ以外にも朝から晩までのルーチンやタイムスケジュールまで細かく質問されて、逆に僕が驚いた程だ。聞けば、リース家は様々な界隈で顔を利かせる人間が多かった故にそういった一日の流れを使用人にきっちり管理させている者が多かった影響なのだと。
……家族の中での扱いはどうあれ、王都から逃れてもなおこうして理知的に振舞う様子に気品が纏われているのを見ると、リースの名を受け継ぐ者としての教養が備わっているのを感じる。何だか前世での仕事の研修とかトレーニングを彷彿とさせる光景だなあと脳裏に浮かびつつも、こんな素敵な人がいたら絶対仕事になるわけが無いだろと、愛らしすぎて憤慨しそうなくらい意味の分からない強い好意に支配されてしまいそうだ。
「農業に携わる者はあまり見た事が無いですか」
「……大昔だ、まだ何も分からない程相当小さかった頃に。税に関することだったか、その仕事で一番上の兄様に連れられて見たことはある」
「なんだ、僕が初めてだったら更に嬉しかったのですけれどね」
「オマエより筋骨粒々だったからねぇ。アタクシの記憶以上になってみせればいいさ」
ざく、と少し掘り起こしては掬った土を寄せる。エリーゼは、とかくこの農園に手助けをしてくれる気が多くあったようだ。少しは働きで返さないと僕の兄さんにも申し訳ないと言う一方で、体を動かしていれば余計なことも考えなくて済むとも呟いていたのを聞き逃せなかった。
しかし何も力仕事を一番始めから行わせる気も無かったことを僕は弁明しておこう、幾ら一般的な女性より背丈が高く腕や足も少し筋肉質だからと言って、エリーゼが僕と同程度の動きが出来ることは無い。それでも、僕が毎日行っている作業を彼女もやってみたいと、覚えてみたいと言ってくれただけで心を痺れさせた。大事な農具を簡単に彼女に貸し出し、教えながら共に畑に立つことで、いつか手にしたい未来の図の模倣が出来たような気になったのだ。彼女とここに住み続ける未来を、朝起きても夜寝る時でも彼女が必ず視界にいる現象を日常と呼べる、そんな欲望の末端を今すぐ味わいたくなったと言うのが本音だ。
貴族の中での常識と、平民の中での常識とは必ず差異が出る。特に、平民の中でもずっと引きこもり続けていた僕なんて彼女にとっては始めて間近で見る職種の人間だろう。あの王都で身の回りのことは自分でしていたと言うが、正真正銘始めから自給自足の農家生活なんて慣れるにも時間がかかる。リース家の敷地内に畑があって毎日耕していました、なんてことも有り得ない。だから、教えるんだ。ここでの生活を、ここでの一日を、ここでの一週間、一ヶ月……その先も。平穏に彼女が、何も気負うことないくらい、嫌なことを容易く忘れられるくらいに、この家を。この僕を、その心に刻み付けて欲しい。
「しかし、これだけの土地を今まで兄君と二人だけでと言うのは、十分に誇っていいことだとは思うぞ」
「光栄です」
「魔法で成長を促進させることも禁じているなど、消費が激しい王都付近では非生産的だとは思ったが……これはこれで、育つと味わいが違うのだろう?」
「勿論。どうしても、作物は僕らの身体以上に敏感で繊細ですからね。……それに、この山で正規の方法をとらないと、山からの恵みが正しく宿らないんです。先祖代々積み上げた、ここだけの自然への信頼がそうさせるんです」
常人が聞いたらあまりの面倒さに眉をひそめるだろうが、カシタ農園での売りは「魔法を使わずに自然の中で育った味わい深い作物」をリーズナブルな値段で提供している点だ。そう、魔法を使わない……正確には、ほぼ使えない、のであるが。つまり基本的には地球での農家と似たような光景である。
一応、この世界での魔法と言うものは何でもかんでも出来る万能のものでは無いことをここであげておこう。汎用的なファンタジーのイメージ通り、確かに魔法はどの場面でも使うことが多いし、いざと言う時の術にもなる。だが、難易度が高い魔法を使って商売をする場合は開業するのに許可が降りなければならなかったり、そこらあたりの法整備も出来ているからかむやみやたらといきなり町中で魔法を使って色々おっ始める輩もいない。
危険すぎる魔法は特殊な職種以外の人間が使うことは許されていないし、場所によっては完全に魔法が発現しない空間にする為に結界も張られている。魔法は生活の中に混じり混む毎日の道具のようなものであると同時に、使い方を誤れば恐ろしいものへと変容する凶器。考え無しに往来で危ない魔法を使うと言うことは、包丁を振り回しながら歩くことと同義だ。
一部の業種にとって魔法の行使は免許が必要、と言えば簡単に説明出来ているだろうか。無免許で車を運転したり、医師免許が無いのに患者を見ることが出来ないのと同じだ。その魔法を使うに値する実力が無ければ、公共の場や仕事場で使うことは出来ないのだ。
対人商売で信頼を大切にする必要がある僕達の農園も、もし直に魔法を使って育てた物を売るならばまた別の書類が必要になる。許可も無く、作物を促進させる魔法を使ったとして……その魔法が毒だった場合どうなるだろうか?想像は容易い筈だ。
まあ、この農園において「作物を魔法で直接促進させてはならない」と言う禁則事項がある理由も、語ると少し長くなる。今はそのような語りはせず、もう少しだけこの時間を楽しみたい。
「まあ、こうやって水を浮かすことはあります、流石に広すぎるので僕もやってしまいますが」
「力を抜ける部分は横着した方がいいからな、それは仕方あるまいよ」
湧水を汲み上げた木製のバケツに手をかざして、少しの文言を唱える。
詠唱、と言う、魔法を使う者に取っては馴染み深い行為。
短い呪文の後に、体の内部の魔力を産む器官からほんの少しの放出が成されたのを感じた。すると、バケツに入っていた水が空中に球形にまとまって浮き上がる。僕の意思で動かせるようになったそれは畑の中心の方まで移動し、上空に留まった後。僕の合図でぱちんと周囲に弾けていった。天然のスプリンクラーと言うやつだ。この手法は小さい頃からよく使っている。作物に対して直接どうこうはしていない為この魔法は問題ない、水をホースで撒くかバケツで撒くかと言ったくらいの違いだ。
小雨のように弾けた水飛沫を見ながら、ほう、と声を上げるエリーゼの様子を見ていると。……女の子って、本当に、男を…かっこよさげな一面を見てもらいたがりな生き物にさせてしまう罪な人だと思った。
「水系の魔法が僕は一番得意でして。深海の色持ちですし、見たまんまですかね」
「……空間移動魔法も、相当の腕前だったように思うがね」
「あれは……なんというか、死物狂いじゃないと出来ないレベルと言いますか。はい。エリーゼ様の為なら死にかけてもいいですよ」
「アホ抜かせ。洒落にもなってないさ」
「ごめんなさい。貴女の色んな顔が見れるのが、すごく嬉しくて」
「どうしようもないねぇ、オマエは。ま、気の抜ける相手がいるのは、心地いいよ」
本当にどうしようも無い男でございます。正直ゆったりとこの幸せすぎるスローライフを満喫している場合では無い。でも、一人の少女としてエリーゼと過ごせるこの空間を、僕は今何よりも焼き付けていたいのだろう。心ではやるべきことを整理出来ていても、身体は正直すぎる。
「……エリーゼ様、少し、休憩しませんか。午前から結構飛ばして説明しすぎましたから、すみません」
「ああ、いいぞ。そろそろアタクシも、面倒ごとについては話さなければと思っていたからな」
昼もオマエが作ってくれたのか?と、鍬を軽々と抱えながらニッと笑うエリーゼに。簡単ですがサンドイッチを用意しましたと言って、美味しい湧水を閉じ込めた木製の水筒を差し出せば。
「いいね。海は塩辛いが、山の飲物も死ぬほど甘い。水が恋しくなっていたところさ」
「あはは。夜は甘さ控えめの物をご用意しますよ」
なんて、彼女と真剣な空気になる前に、軽口を出しあった。
伯爵令嬢と農家の息子が年相応に今を楽しんでいる姿は良く映えていたと、僕らを覗き見していたらしい兄さんが後々そう伝えに来ることは、この時点ではまだ二人とも知らなかった。