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朝。
金糸雀が鳴くよりも早く、自然に目を醒ますのが癖になっている。つい一寸先まで普通に瞬きをしていたと思わせる程、ふわりと軽く瞼を開いていった。
見慣れた天井、幼い頃から住んでいるこの部屋の木目の数もハッキリと区別出来て把握しているのが当然のこと。昔に比べると、僕も随分大きな身体になったとは思う。小さい頃は寝返りをしてもまだ余るくらいだったのに、年を経るごとにベッドの面積の大半を自分が占めるように育って来たのはとても喜ばしいことだ。
ゆっくりと伸びをしながら、ベッドから足を下ろす。いつも通り、まずは寝間着を脱いで着替えることから僕の朝は始まるのだ。すっきりとした様子で眠気も残さないまま目を開いていた僕ではあったが、ボタンを取り外し上着を脱いだあたりで昨日のことを思い出して心臓に悪くなる。誰も見ていないと言うのに照れが出てきて、ああだのううだの呻いてから急いで着替えることに集中した。
そう、昨日。人生で一番色んなことが詰め込まれて起きた一日で、人生で一番神様に甘やかされた日で、人生で一番、自分も欲に振り回される男であったと自覚した一日だった。
まだ、彼女が衝立の裏で着替えた衣擦れの音が鼓膜に張り付いて離れていない。全くどれだけだ、何て僕はいやらしいのだろうか!青少年におけるこういった感情とはどこからが健全でどこからが不健全なのか、まあ叶うなら最初から最後まで健全ですと言い張りたくはあるが。
窓から鳴き声ひとつ、なかなか動けなくなった僕を叱咤するかのように金糸雀が鳴く。この王国内では、雀よりも聞き慣れた声。まあまずは着替えて顔でも洗いに行こうと思う、こうして朝一番に起きて畑と家畜の様子を見てくるのは僕の日課だ。城下での市場や近隣の村への出荷作業やその契約、金銭の管理や値段の水準など、今はまだ兄さんに頼ってしまっている箇所が多く。その負担を減らす為にそれ以外で役に立てることは全部する、と僕から言い出した。結果、朝一番で畑をまわり、夜の最後に見回りを終えるのも僕で。一応金銭に関係する事柄も目下勉強中なので、いつかはきちんと出来ることを増やしてみたい。
作業服に着替え、自室を出る。洗面所で出会った鏡の中の自分は今日も落ち着いた雰囲気だ。顔を洗い、視力を補ってくれる片眼鏡を右目につければ、本日も異常無し。家族四人で暮らしていた時に比べ、ぽっかりと人数が一気に減った期間も長かったけれど。今日からはまた違う、真新しい存在がこの家にいてくれることを意識しながら過ごしていくことになるだろう。極力足音を立てないように歩いて来たのは、別室で眠るだろう彼女を起こさないようにする為。太陽が出た時刻とは言え、普通の人間が起きるにはいささか早い。通り過ぎたリビングにかかっていた可愛い鳩時計は五時を指し示していて、畑の様子を見に行く僕を眠りながら見送っている。……先日新しく栽培の計画を立てた、別の市で譲って貰った種なども経過を見なければならない。そろそろ一部の果樹も収穫作業を行う時期だ、市場用の包装等も毎日行っているしタスクを細かいところから数えれば数えるだけ仕事の数というものは増えていく。考えることは多くとも、身体はひとつ。やらねばならないことは幾らでもあるからこそ、忘れてはいけないことがある。今の生活を安定させることもそうだし、今の生活に邪魔者が何かしらを言って来なければいい。
「……何も書かれてない、か、」
ログハウスの玄関先に取り付けられたポスト。特に広いカナリア王国領土内、その中心地である王都の新聞社と契約さえしておけば毎日ここに新聞紙が魔法で送られてくるというわけだ。
今日も今日とて一番先に手に取ったその新聞の一面記事を流し見た後、パラパラとめぼしい記事が無いかめくり続けたが気になるような記載が一個も無い。万が一があったら、と思って確認してみたのだが杞憂であったようだ。世間向けに露呈がされていない、その事実に安堵すればいいのか、罪悪感がよぎればいいのか。続いて怒りも沸いてくる、元伯爵令嬢であるご息女がどこの者とも思えない平民に誘拐されたんだぞ、一面記事とは言わないがちっちゃく記事にするくらい無いのか、と何だかエリーゼの存在が完全に否定されたようにも見えてしまい、悲しかった。
彼女の断罪に一部数人の歳近い一族の兄姉が参加していたことは分かっている。一応は名のある家だと言うのに、彼女の親達は末の娘が消えたとしても、何とも思わないのだろうか。誰もいないのか、僕を捕まえてやると思ってくれる人や、エリーゼを助けてやると思ってくれる人は。何て残酷な世界で彼女は過ごしてきたのだろうと思うと同時に、その非情な現実があるからこそ僕がエリーゼをこの場所に留められる恩恵を受けていると言っても過言では無い。
王都側のリース家に進展はあるか無いか、まあどちらの展開にせよ、誰かがここに訪れたとて今の状態では「今更何の用ですか」以外には何も返せない精神がある。
ここから全てが悪い事態に動き続けたとしても、僕は彼女と兄さんとこの家を守りたい。それを実行するだけだから。新聞を玄関の棚の上に置き、あたたかい朝日に全身を迎えられながら畑に顔を出しに行く。
美しい声で鳴く金糸雀がまた一羽、木々の枝の中に体を潜めていた。
「……女王様によろしくね、妖精さん」
なんて、冗談を言ってみたところで鳥には何も伝わらないだろう。この王国の領土に属する者なら誰でも知っている、女王の分身で眷属の美しい国鳥。その小さな体をぴょんと動かし愛らしく声を出す様子を横目に、僕は安心感を覚えるのだった。
……別の世界の記憶があると言うのに、僕がこうして日常生活を送ることに別段大きすぎる負担を感じていないことにはわけがある。と言っても、今の僕が住む大地というのがそれこそ地球に酷似した環境だからだ。例えば今見た金糸雀しかり、異世界である地球にも存在していた生き物であったらしい。地球が七対三の青い海の星ならば、この世界は海と陸の面積が四対六の緑の星・ブレース。他国語では「慶球」と示されることもある。
「慈愛のマトゥエルサート」は、大人気乙女ゲームアプリの名の通り、若い女性層をターゲットにして開発された。
ファンタジーやイケメン要素を取り入れつつも、手に取りやすさ……間口を広げる為に、始める際の世界観は女性でも分かりやすくプレイしやすいようになっていて。とどのつまり、ガッツリ異世界異世界していない、ということである。なるべく地球に似せたかたちのファンタジーがコンセプトであり、生態系や食文化も結構似ているのが特徴だ。
前世の僕が元いた、異世界である地球は「魔法を捨てて科学を取ったビルの星」であり、僕が今生きる世界は「科学の代替として魔法と錬金術を取った緑の星」と言えば分かりやすいだろうか。
つまりここは、前世から見ればイフの地球であり、イフの時間軸。異世界ジャンル物に対して本気な人が聞いたら「設定がご都合主義すぎる」だとか「異世界に何でナントカがあるんだ」だとか耳に痛いことをアプリに言うのだろうけど、ターゲットに対するアピールと言うのは大切だから仕方ないと思う。僕だって市場で色んな奥方の話を聞く度にそう思う。
ともかく、設定に凝りすぎてしまえば手に取って触れ始めた段階でつまづく人も多いのが普通、夢から得た情報によれば、地球の若年層は確かに読書量も減っていて文章を読んで光景を想像することも難しいなんて子供もざらにいたそうだ。そう言った若い層に対しても「ファンタジー要素はあるけれど分かりやすくて面白いよ!」と、メインのイケメンを推しながら世界観の曖昧さを顔の良さとストーリーの良質さとキャラの掘り下げゲーム性の向上その他沢山エトセトラ!と、有り余る補いぶりでプレイヤーをぶん殴りながらも不自然さを感じさせなかったことが高いポイントなのだそう。
プレイヤー側が世界観設定の浅さを感じるのも超初期だけの話で、アップデートを重ねるごとにこの世界により濃く深い強みが完成されていったという流れの方が正しい。
実際、夢を通して見た光景が、現実として重なる瞬間もある。例えば母国語。ゲームアプリこそ日本語が主として対応されていたが、作中で使用されるデザイン文字はスタッフが作り出した造語であり、キャラクターソングが出た際も造語の歌詞を入れては考察勢が熱を帯びた。
……向こうの世界では造語だとしても、こちらの世界ではあの造語こそ公用語のカナリア語であり、僕はカナリア語以外にナギ語も嗜む程度の話者であったりするのだ。
科学の代替発展した技術、そこから生まれた多数の文化はそのどれをとっても「前世の日本の方が上だった」などとは絶対に言えない程、この世界の魔法や錬金術における恩恵は大きい。
この世界の移動手段や法整備も合間って、前世の環境と比較しても、生活上での利便性は高い。
……異なる世界より地球の方が優れている、なんて世迷言。一体誰が言い出したのか。作家に文句をつけに来るクレーマーのよう、自分よりも文明や知的レベルが下方の世界で無いとプライドが傷ついてしまう人達が作った概念なのだろうか。そう言うことを考えたくも無いのに思考してしまうのは、前世なんて物があるからだ。時にこのように、苛つきたくも無いのに対象がいない愚痴が生まれてしまう、よろしくない。
「今日からはもっと、頑張らなきゃな」
自分を励ますつもりで一言、漏らす。大丈夫だ。前世での記憶はもう役立たずの段階に入ってきている。ここから先は僕だけの、ノアだけの領域だから。偏見も持ってはならない、今を昔以上に現実のことと受け止めなければ。
あの原作では、誰も彼女に手を伸ばさなかった。物語と言う舞台で踊る人形の彼女は、誰も助けられなかった。
この世界では、部外者である誰でもないこの僕だけが、確かに生きている彼女の手を引いているのだ。花嫁にしたいと馬鹿正直に欲を語ったこの僕に、それでも手を差し出してくれた彼女がいる。呼吸をする度に吸うこの空気も、この景色も、今日から見るもの感じるもの全てが彼女と一緒になるのだ。それだけでも飛び上がりそうなくらい嬉しいのだから、どうか、どうか彼女にも人並みの幸せを送れる程の平穏が訪れるように、努力をしなければ。
朝一番に二人で起きて、二人だけで見回りに行く幻想をにやつきながら追っていく。今日の朝御飯は甘さが控えめの物にしようかな、と。畑を見ながら考える朝の献立を、手につけてくれるエリーゼのことだけしか思い浮かばなかった。