Prologue
紺色の頭髪に、紺色の双眸。
鏡に映るそれらの持ち主である姿…緊張の面持ちをようやく剥がすことが出来た自分自身の顔を見て、ほんの少し安堵する。
とは言え、リラックスしている時の自分と比べると表情筋がかたいままであるのは間違いないだろう。
笑え、不敵に。自分の弱さを見せるな、ともう一度声に出して言い聞かせた。
この世の何より麗しい真紅である”彼女“を迎えに行くには、果たして今の僕は相応しい色なのだろうか。反射する光を目に含んだこの瞳は、今日だけは穏やかな日常の中とは違い、降った星を映したかのように輝いて見える。
カナリア暦1817年2月22日。
今日というこの日は、特別な日だ。
ふたつ、ふたり。その数字が並ぶなんとも縁起が良さそうな日。自分以外のもうひとりを鮮明に脳裏に浮かべながらまた一度深呼吸。何せ、これから一世一代の大博打に手を染めようと言うのだから。この僕史上、初めての大きい悪事を一つ働くと強く決意をしていた日。この日を無事に過ぎたのなら、きっと運命は大きく変わるに違いないと信じてやまないのだ。
僕と。そして、彼女も。
痙攣しそうな眉間を指先で揉み、片眼鏡の位置を直しつつ。袖を通した一帳羅に違和感は無いか何度も何度も確認しては一分一分が恐ろしいくらいに過ぎていく。大丈夫だ、別に、服に着られてはいない…と主観では思う。
今日ばかりは慣れた作業服は脱ぎ捨てて、あの場に相応しい格好でいなければならない。だってこれから僕は、彼女の為に…彼女だけの、救世主になりたいと言う、身の程知らずを完璧に遂行してみせると誓ったのだから!
「兄さん、出掛けて来るね」
「ああ、気を付けて行ってこい、ノア。…告白、うまくいくといいな!」
「も、もう、兄さんったら!余計緊張してくるでしょ!」
山奥、広大な自然に囲まれた畑の中に佇む木造の家。
いつもならば、鍬を握り斧を振り、実の収穫や城下への出荷作業を行う時間であるが。それらの作業を今朝たった一人で担うのは、唯一の肉親である兄さんだ。変わらぬ豪快な笑みに見送られながら、僕は山道をおりていく。
朝起きた時には凍ったかと見紛うばかりに緊張していた全身も、先程のやりとりでかなりほぐれたような気がする。山彦のように心の中にこだまする兄さんの掛け声を背に、フッと呼吸をしなおした。
ここから先。はるか遠くに見えるは、都。本日も晴天なり、それは実に良きことではあるのだが、その天の下でも明るくはならない事象がある。
今日の真昼を過ぎる頃。
こんな穏やかな日に、彼女は世界から捨てられてしまう。
彼方に存在する、王立魔術学園の中で辱しめを受け罵られ、家族や取り巻きからさえも見捨てられてしまう。
だから僕は、産まれてからずっと、この日が来るのを待っていた。
僕は知っている。
この世界ではまだ顔もあわせたことのない彼女の容姿や性格、略歴を。
僕は思っている。
世界に捨てられる終わりを迎えて物語からドロップアウトしてしまう彼女のことを、救いたいと。
僕は欲している。
まだ見ぬ彼女の全てを。
……皆があの子を見限るのなら、
僕一人だけが手を伸ばしたって構わないでしょう?
今日。ようやく物語から振り落とされる彼女を受け止められる日が来た。もう十分に傷つくだろう、罰は受けるだろう、だからこれ以上、誰も彼女を傷つけないで。それだけを祈りながら僕は都を目指すのだ。
悪役令嬢、エリーゼ・リース。
……それはこの世界が、とある乙女ゲームアプリの世界観に似ている、と言う天啓を受けた僕が。
何としても救いたい、かつて、前世の記憶が最推しと叫んでいた悪女の名前であった。