帝王紋と宿命の選択
メバヒアからの啓示を胸に抱きつつ、僕はエレンディルの村に向かう山道を歩き続けていた。
夜の冷たい空気が頬を撫で、心の中にわずかに残る不安と混乱を和らげてくれるようでもあった。
やがて、ふと足を止めた僕は、辺り一面に咲き誇る花々の香りに気づいた。
目を凝らすと、道の端には見覚えのある小さな姿が、花々の間で静かに佇んでいる。
淡いピンクのドレスを纏い、頭には色とりどりの花を編んだ冠を被った小さな女性――花の妖精フレイアだった。
「フレイア……」と、僕が囁くように名前を呼ぶと、彼女はふんわりと振り返り、優美な笑みを浮かべた。
「ルーカス、久しぶりね。あなたがここを通ることを、ずっと待っていたのよ」
彼女の声はまるで風に乗った花の香りのように柔らかで、心をそっと撫でるような優しさがあった。
フレイアが近づくと、周囲の花々が彼女の周りで一斉に色を変え、ほんのりと光を放つように揺れ動いている。
「……僕がここを通ることを、知っていたの?」
僕は半信半疑のまま尋ねた。
フレイアはほほ笑みを崩さず、僕の肩にそっと手を置いた。その瞬間、まるで彼女の温もりが全身に広がるような安堵感が胸を満たす。
「あなたが抱えている重さと、孤独。私にはわかる気がするの」
彼女は囁くように続ける。
「花たちも、厳しい冬を越えた春に再び咲き誇るものよ。
ルーカス、あなたもきっと乗り越えられるわ。何度でも立ち上がって、また咲き誇れる」
彼女の言葉に、不思議と心が軽くなるのを感じた。
フレイアは花の妖精でありながら、どこか母性的な温かさがあり、僕の孤独な心を包み込んでくれるようだった。
「ありがとう、フレイア。だけど、僕にはまだわからないんだ……自分が何者で、どこに向かうべきなのか」
フレイアは少し顔を傾げ、僕の頬に花びらをそっと押し当てた。
「迷いは、成長の証よ。あなたが歩む道は、あなた自身の手で切り拓いていけるわ」
彼女は穏やかにほほ笑み、僕の手を軽く握り締めた。「でも、どうか忘れないで。あなたが選ぶその一歩が、世界を少しだけ変えるということを」
僕はその言葉を噛み締め、彼女の手を握り返した。
その時、風が静かに吹き、フレイアの姿はふわりと揺れたかと思うと、花の中に溶け込むように消えていった。
僕の手の中には、ただ一片の花びらが残った。それも、風に乗って遠くへと運ばれていってしまう。
◆
追い詰められた僕には、コミモテノス聡明法のことばかりが頭を巡るようになった。
矢も盾もたまらず、エレンディアの村へ向かい、長老様へ取り次いでもらえないかイリスに相談した。
「ルーカス! 本気なの?
エルフ族の大賢者様でさえ、二〇日しか持たなかったほど過酷な修法なのよ。
まして、人間のあなたでは無理だわ」と、イリスは呆れ気味だ。
「僕は本気だ」と、真剣に反論する。
「私は、あなたの身を案じて言っているのよ。死にたいの?」
イリスの口調が厳しさを増した。
彼女の心情はよくわかるし、ありがたい。
だが、このままでは前に進めない。
僕は、自分の出自や最近の出来事、そして抱えているコンプレックスまでをも、彼女へ吐露した。
でなければ、覚悟を理解してもらえない。
「そう……なのね」と、リスは小さくうなずき、その瞳に悲愴な色が浮かぶ。
この話は重すぎる。
彼女には好意を持っているが、恋人のような深い関係ではない。
結果、ぼくの行為が彼女を苦しめてしまったのではないかと、後悔が過る。
「私ね……ルーカスが好き。
だから、いなくなったら立ち直れない。
でも、あなたの気持ちもわかるの」
リリアには言ってもらえなかった「好き」の言葉。
その意味をはかりかねた。
好ましい人物だから同情すると?
まさか、愛ではあるまいが……。
もやもやするが、こだわる暇はない。とにかく、今は前に進みたい。
「だったら……」
それをイリスが強い口調で遮る。
「私が、できる限りあなたを助けるわ。それが条件。
それ以上は、譲れない」
彼女の申し出が、心に染みた。
「わかったよ。よろしく頼みます」
「それで、よろしい」と、彼女は、殊更に破顔して見せた。
イリスが説得するも、長老たちは渋った。彼女は、粘りに粘る。
恥ずかしいが、僕の個人的な心情も明かされた。
長老たちは、渋い顔をした。
同情はするが、命を懸けるようなことなのか?
表情が物語っている。
「冒険と探求に情熱を持つ!
それがエレンディル部族の誇りではないのですか?」
毅然と放ったイリスの言葉に、その場は静まり返った。
長老たちは、目を見開いている。
「はっ、はっ、はっ、はっ……わしらも歳をとったものよ。若輩者に一本取られてしもうたわ」と、最長老が愉快そうに言う。
「しかも、当事者が人間とはのう……」
こうして、僕は、コミモテノス聡明法の秘術を教えてもらえることになった。
願いが叶い、興奮して帰ろうとしていたとき……、
突然、外から悲鳴と戦闘の音が聞こえてきた。驚き、長老たちの屋敷から飛び出すと、音のする方へと駆け出した。
現場に到着すると、そこには以前襲ってきた影の怪物に加え、見たことのない異形の兵士たちが村人を襲っていた。兜から覗いた顔が、ミイラのように干乾びている。
黒い甲冑に身を包んだ兵士たちは、冷たい眼差しを宿し、無慈悲に村人を襲撃している。
「これは……? 何者なんだ? あいつらは……」
前向きになりつつある僕には、迷いがなかった。すぐさま黒鉄の剣を抜き放つ。
墓戸の一族に伝わる黒鉄の剣「黒炎」は、刃は鋼鉄で、毒に浸して焼きなまし、戦の血潮を触媒に死霊魔術で強化した剣。使い手の魔力に反応して暗赤色に発光するが、使い手を選ぶ。
敵は数を増やし、長老たちの屋敷の方角へも向かっていく。
イリスは樹上の屋敷から矢を放ち、兵士たちを迎撃している。彼女の顔は必死で、すでに額へ汗が滲んでいた。
「ルーカス、逃げて! あなたがここにいると狙われる!」と、イリスが大声で叫ぶ。
しかし、ここで村人たちを置いて逃げるわけにはいかない。
まだ距離があるので、直接戦闘の前に、魔術を放つべく詠唱を開始する。
「火の精霊イグニータよ、我に力を貸せ――」
中空に炎が渦巻き、その中から火の精霊のイグニータが姿を現した。
気づいた闇の怪物と兵士は、詠唱を中断させようと、僕へめがけて突進してくる。
黒炎はバスタードソード(片手持ち・両手持ち両用の剣)だ。片手でこれを持ち、兵士の斬撃を受け流し、闇の怪物の突進を避けながら詠唱を続ける。
「――地獄の灼熱の空より、無数の炎の矢を呼び寄せん! 我が敵を、燃え狂う炎の矢衾により貫け! もって、その魂を焼き尽くし、永劫の灰燼となせ! ――」
戦闘をさばきながら片手を空に向けて掲げると、中空で小さな炎の粒が次々と生まれ、渦を巻き始めた。その渦はやがて無数の細い炎の矢となり、待ち構えている。
闇の怪物と兵士は、その燃え盛る弓矢の嵐を察知して身構える。怯えの波動が戦場に広がった。
「――世々限りなきエレシアと神々の統合のもと、実存し、君臨する火と光の神ダリスを通じ、ルーカスが命ずる。炎の矢衾!」
炎の矢が天空から雨のように間断なく降り注ぎ、闇の怪物と兵士を一斉に打ち据える。
各々の矢が命を持つかのごとく疾風のように飛び、怪物の影を貫き、暗闇を照らし出す。怪物はその影を薄れさせ、煙のように消えていく。
黒い鎧の兵士を襲う無数の矢の一つ一つが灼熱の災厄となり、その体を焼き焦がし、その身を瞬時に赤々と燃え上がらせていく。
しかし、黒い甲冑の防御力は、炎の矢の威力を上回っていた。露出部に命中しなった兵士には、たいしたダメージを与えられていない。
「くそっ……!」
悔しさに歯を噛みしめた。
どの道、乱戦となっている所には炎の矢衾は打ち込めない。村人まで犠牲になってしまう。
だからといって、躊躇してはいられない。
黒炎に魔力を込めると、暗赤色の不気味な光を放った。
それを携えて乱戦の最中へと突撃する――同時に、簡易詠唱で魔術を放ち続けた。
「炎の矢衾……炎の矢衾……炎の矢衾……」
黒炎の切れ味は鋭かった。あたかも紙人形のように、兵士たちの黒い甲冑切り裂いた。
しかし、数的有利は敵にあり、魔術も詠唱し続けないと追いつかない。
寡兵で敵を打ち破るのが墓戸の真骨頂。このような状況での訓練は、数えきれないほどこなしてきた。
だが、まるで逆立ちしながら綱渡りをするかのような、複眼思考に基づく戦闘は、容赦なく神経をすり減らしていく……。
「集中しろ……神経を研ぎ澄ませ……」
声を出して自分を鼓舞した……そして……、
ふと気づくと、上空から冷静に戦況を見つめる、もう一人の自分のような存在を感じた。いわゆる「鷹の目」というものだろう。
(そうか! これは音楽と同じなんだ……)
僕は瞬時に悟った。
楽器を弾く技術はとても繊細で、正確なリズムと音程で演奏するには鋭敏な神経を必要とする。
一流の音楽家は、そのうえで音程を高め低めに微細に操作して感情を表現したり、リズムを微妙にズラして独特のグルーブ感を出して場の空気を支配することまでやってのける。
さらには、楽曲の構成全体を見据えた表現ができねば、一流とは言えない。
ただ神経を使うだけでは、熱く人の心を打つ演奏はできない。音楽に没入しなければ。
だが、完全な忘我の境地に至ってしまっては、鋭敏な神経や全体を見渡す広い視野が失われる。
――このもどかしい二律背反!
だが、精進と集中と……その先に完全無欠な調和が訪れたとき、人は超越的な存在を感じるという。
戦士たちは、同様の心理状態を「鷹の目」と呼ぶのだろう。
僕は、音楽を通じて、この神秘的境地を権天使メバヒアに習った。それがなければ、今の自分はなかったに違いない。
額のオウムの表徴に熱を感じる。
それは、第六チャクラ、すなわち眉間の上に位置している。
その奥にあるとされる第三の目が開くと、予感や直感が高まり、精神世界との絆が強まるという。
「チャクラ」とは、人体を巡る生命エネルギーの中枢のことで、七つある。
今の僕は、生命エネルギーが究極まで活性化しているのだろう。
それからの僕は、考え得る最も効率的な戦術で戦闘を進める。
時間の感覚はなく、気づけば敵を殲滅していた。
すべてが終わり、静寂が戻る。
額に残る熱を感じながら、ふらつく足で村の広場へ向かうと、イリスが駆け寄ってきた。
「ルーカス! 大丈夫なの? その額の光……一体何が起きたの?」
彼女の問いに答えようとしたが、言葉が見つからない。自分の内側で起こった変化――それが頭の中で渦巻き、うまく説明できる気がしなかった。
「……イリスさん、僕にもわからないんだ。たぶん、第六チャクラ、第三の目が目覚めかけているのかも……」
イリスは心配そうに僕を見つめた。彼女の眼差しに、少しだけ心が落ち着くのを感じる。
「私にはわからないけれど……なぜなのかしら?」と、彼女は少し寂しげに言う。
「ここは、山の下の町よりも清浄な霊気に満ちているからね。だからじゃないかな……」
漠然と夕日に赤く染まる聖エレシア山を眺めながら、呟くように答える。我ながら自信はない。
「そうなの? 具合が悪いわけじゃないのね」
返す言葉を探すうちに、気を取り直したイリスが再び口を開いた。
「……とにかく凄かったわ。あんなに大勢の敵をやっつけちゃうなんて。聞いてはいたけど、墓戸の戦闘技術って素晴らしかったのね」
「ま、まあ……むちゃな訓練をやらされているからね。寡兵で大軍を破るのが、墓戸だから……」
べた褒めされた僕は、なんだか無性に照れてしまい、まともに顔が上げられない。
そこへ村人たちが集まってきて、口々にお礼を言われ、もみくちゃにされた。
結局、ケガ人は大勢いるが、死者は出なかったらしい。
お礼の宴に招待されたが、もう夕暮れで、無断外泊するのも気が引ける。
いささか強引に村を後にした。
◆
夕闇の静寂の中、僕は家路をたどって山道を歩き始めた。
その時、ふと森の奥に人影が見えた。木々の間に佇む一人の女性――黒髪に黒い瞳、そして落ち着いた微笑を浮かべるノアだった。
彼女の姿を目にするや、僕の胸が高鳴り、思わず足を止める。
「ノアさん……」
思わず口から名前が漏れる。あの頃抱いた淡い想いが蘇り、鼓動が少し速くなるのを感じた。
ノアは僕を見つめたままゆっくりとほほ笑み、近づいてくる。
彼女の瞳は夜のように深く、その奥底に何か得体の知れないものが隠されているようにも見えた。
「久しぶりね、ルーカス。元気にしていたかしら?」
彼女の声は、低く、囁くようで、それでいて僕の心の奥に直接響いてくる。
僕はその声に魅了されつつも、どこか不安を覚えていた。目の前にいるのが確かにノアであるはずなのに、彼女から漂う気配がどこか異質だったからだ。
「まあ……何とか元気にやっていますよ」
気づけば僕は彼女の前に立ち、無意識に言葉をかけていた。
ノアはそのまま僕の顔をじっと見つめ、何かを探るようにゆっくりと首をかしげた。
「ルーカス、あなたはまだ自分が何者か、理解していないのね。あなたの額に刻まれた『印』……それは、ただの装飾ではないわ」
僕は息を呑んだ。ノアの瞳は暗い深淵のようで、底知れぬ力が宿っているように感じる。
彼女の言葉は重く、僕に何か大きな秘密を告げようとしているかのようだった。
「それは……そうかもしれませんが……?」
声が震え、彼女の視線から目を逸らしたくなる衝動に駆られる。
ノアは僕の頬に手を伸ばし、ひんやりとした指が肌に触れた。その瞬間、まるで禁忌の秘密が明かされたかのように胸がざわつく。
「そうよ。そして、特別な者には、逃れられない宿命があるわ。自分の意志で選び、運命を掴む力があるのはあなた自身……でも、その選択がすべての終わりをもたらすこともある」
彼女の声には哀しげな響きがあり、しかしその奥には抑えきれない熱情が込められていた。
僕は彼女の手の冷たさとその視線に凍りつき、ただ無言で彼女の瞳を見つめることしかできなかった。
「今、私が言えるのはこれだけよ、ルーカス。あなたが歩む道は決して楽ではない。でも、私はいつだってあなたの傍にいるわ。どんな未来が待っていようとも……」
ノアは再び僕の額に手を伸ばし、痣にそっと触れる。その瞬間、額がじんわりと温かくなり、彼女の指先が不思議な力を伝えているように感じた。
「この印が示すものは、いつかあなた自身で見出すことになる。その時が来るまで、どうか忘れないで……あなたは特別な存在なのだから」
ノアの言葉は呪いのように僕の耳に残り、深く胸に刻まれていく。
彼女は、そっと手を離すと、ゆっくりと後ずさり、深い闇の中へと姿を溶かすように消えていった。
彼女が去った後、僕はその場に立ち尽くし、重い沈黙が心を包んだまま、しばらくの間動くことができなかった。
ノアの言葉が何か大きな予兆であるように思えて、深い恐れが胸に湧き上がっていた。