装われた庶流
皇都の大学で勉学に励んでいたアレクサンドロス・メルラは、そこで運命の女性に出会った。その名はエレナ、皇室の血を引く美しい貴族の令嬢であった。
幸いにも、エレナは貴族のコルネリウス氏族であるマルギネンシス家の三女で皇室の血を引く。アレクサンドロスが、自らの墓戸の家系を告白したときも、その瞳に恐れや嫌悪の色はなかった。
アレクサンドロスは、これぞ神の采配よ、と随喜した。
マルギネンシス家当主は反対したが、エレナの決意は固い。
当主は、やがて折れるほかなかった。墓戸の嫁探しはいつの時代も難航を極める。だが、墓戸の血筋が絶えることは、皇室にとっても看過できぬ事態だ。
当主は、これを機に皇室へ恩を売り、家名の威信を高める目論見を心に秘めていたのだった。
二人は学業を続ける中で結婚の誓いを交わし、やがて待望の子を授かった。
しかし、二人の幸福は長くは続かなかった。あたかも運命の神々が試練を与えるかのように、奈落の底へと突き落とされたのだ。
運命は残酷にも彼らを裏切る。生まれたばかりの赤子は、あろうことか冷たいまま息を吹き返さなかった。待ち望んだ男児誕生の夢は、泡沫のごとく消え去ったのだ。
エレナは意気消沈し、気鬱の病に罹ってしまう。
生きる気力を失い、口にする食事さえもままならない日々が続く……。
その美しい顔はやつれ、青白くなり、見る影もなく衰弱していくエレナの姿に、誰もが胸を痛めた。
父から皇太子の長男誕生の祝いに名代で出席せよ、と手紙が届いたとき、アレクサンドロスはその無神経さに呆然とした。しかし……、
「ええい! ならば、ルキウスをネクロスの森に棄ててこい!」
皇太子の怒号が響き渡り、アレクサンドロスの胸に、忘れようと努めていた憂苦の念が呼び覚まされる――と、同時に心中の悪魔が囁いた。
(棄てられたものを拾っても、バチは当たるまい)
──エレナの心にポッカリと空いた穴を、埋めるんだ!
◆
一二歳の誕生日の朝、僕は両親に呼び出された。部屋に入ると、父と母が厳しい表情で待っていた。
父アレクサンドロスが、眉根を寄せ、深いため息をつきながら、口を開いた。
「聡いおまえのことだから、薄々気づいているとは思うが……そろそろ本当のことを話しておかねばなるまい。
ルーカス……おまえは、私たち夫婦の嫡子ではないのだ」
「そうですか……」と、力なく答えた。
幼い頃から、どこかおぼろげに違和感を感じていた僕は、驚かなかった。むしろ、それが明白となった今、妙な納得がある。
かといって、それを言われて嬉しいはずもない。心の奥で、痛みがじわりと広がるのを感じる。
母は、子が産めない体でもない。
ならば、なぜ養子をとる必要があったのだろう? 男児が生まれなかったならともかく、わざわざ最初の子として……?
僕が皇室の血を引いていることは、陵墓や図書館に自由に出入りできる事実からも明らかだ。
しかし、長男だが養子という、いかにも不揃いで居心地の悪い立場には、不安と違和感がつきまとう。
しかも、町の行政官や住人たちどころか、屋敷の執事ですら養子の事実は伏せられている。家には、男の嫡子の弟アレスがいるというのに……。
皆、僕が次期当主と信じて疑わず、「若様」と呼ぶ始末だ。
両親は、何を考えているのか……?
実は、僕の額には、かなりの大きさの赤痣がある。
成長とともに薄れつつあるが、魔術のために深く精神を集中したり、怒りや悲しみなどの強い感情が湧き上がると不気味に浮かび上がる。
僕は、これがとても恥ずかしくて耐え難く、前髪を伸ばし、できるだけ隠すようにしていた。
これが、人と顔を合わせるのが苦手な原因の一つでもある。
赤痣は、何かの表徴のような意味ありげな形をしている。
図書館の本を読み漁るうち、この意味を知った。
オ・ウ・ムといい、遥か東国の世界最古の古代文明で使用されていた表徴だ。
オ・ウ・ムは「a」「u」「m」の三つの音からなる。宇宙の三つの段階(創造・維持・破壊)を象徴し、宇宙の根本原理や真理を表す三相一体を表す神聖な音とされている。
表徴は、三つの音と静寂を表す曲線と点で構成されている。
それだけではない。
伝説では、コームルス帝国の初代皇帝は人竜エレシアの息子とされており、初代から第五代までの皇帝を「五皇」と呼ぶ。
五皇の時代は、完璧な治世のもと理想社会が実現されていたという。
五皇の額には、オウムが表れていたとされ、帝国では、これを称して「帝王紋」と呼ぶ。皇統の真の正当性と力を象徴するものとされた。
僕には、これと自分を結び付ける実感が湧かず、不協和な違和感を拭えない。
祖先を持ち上げることで、当代の権威を高める。よくある陳腐な伝説の一つだ、と都合のいい解釈をしていた。
しかし、父の次の一言が僕に衝撃を与える。
「ルーカス。おまえは、皇帝・皇后両陛下の間に生まれた正統なる長子。本当の名は、ルキウス・コルネリウス・マケドニクスなんだ」
「えっ⁉ まさか、そんな……!」
僕は、あまりに意外な事実を受け止めきれず、絶句した。
当時皇太子のガイウスが神託に激怒し、長男をネクロスの森に棄てさせた噂は、時とともに薄れてきてはいるが、公然の秘密だ。
だが、まさかその「棄てられた皇子」が自分だったとは!
大は小を兼ねる。嫡流が庶流を装っていたということだったのか……。
なんという皮肉な逆説! 運命の女神のいたずらも、度が過ぎるというものではないか⁉
僕が嫡流だと聞かされ、「帝王紋」について一気に現実味が増した。その事実が、僕に重くのしかかる。
とはいえ、血は代を重ねるごとに薄れていくものではないのか?
初代皇帝の時代からは、優に一,〇〇〇年以上経過している。先祖返りも甚だしい。
これは、途方もない偶然の産物なのか?
それとも、何者かの意思が……?
――こんな運命を背負わされていたとは……あんまりだ!
父は、苦渋に満ちた表情で言葉を選びながら、ゆっくりと続ける。
「私は、ネクロスの森でおまえを保護した。
だが、それは親切心ではなく、長男を死産して憔悴していたエレナの心の穴を埋めるためだったんだ。
おまえを道具のように扱ってしまった。我々夫婦の身勝手を許してほしい」
「いえ、そんなことは決して……。
もし、お父さんが保護してくれなかったら、僕はネクロスの森でとっくに朽ち果てていたはずです。
感謝こそすれ、恨み言など一つもありません」
「……そうか。そう言ってくれると助かる」
横で涙を溜めていた母エレナが、思わず鼻をすすり、小さく嗚咽を漏らした。
「私たち夫婦は、心からルーちゃんを愛しているのよ。どうか、それだけは信じてね」
「もういいよ。痛いほどわかっているから……」
母が、なぜあれほどまでに僕を溺愛し、決して離そうとしないのか、その理由がようやく胸の奥で腑に落ちた気がする。
おそらく、僕の存在で心の穴を埋めていたときの精神構造から、変われていないのだ。
人には決して言えないが、今も僕は、時折母とともに湯浴みをすることがある。それは僕にとって、ただの家族の習慣だったが……。
実母ではないと知ってしまった今、また一緒に入ると言われたら、母の裸体を直視できないに違いない。
かといって、突然拒否するのもなんだかなあ……。
それに、ソフィアが風呂に乱入することは、ほぼ毎日だ。
彼女は、もう一〇歳になった。こころなしか胸も膨らみ始めているようで、こちらとしては気まずい。
血がつながっていないとなれば、なおさらなのだが……。
それを放置しているということは、母には、僕たちを結婚させる思惑でもあるのだろうか?
まさかとは思うが……。
「それでだな。アレスも無事育っていることだし、ルーカスには、墓戸の家を継ぐことを強制しない。
おまえは聡い子だから、大学へ進学しながら、やりたいことを考えてはどうだ?
神殿の手伝いもしていて神学にも詳しいし、私としては、神官なんかがいいと思うが……」
「そうですね。お許しいただけるなら、大学へ行きたいとは考えていました」
アレスは、三歳下の弟だ。すでに武術や魔術の修練を始めているが、相応の才能はありそうだ。
これで、表面上は、うまく収まったかのようではある。
しかし、僕は、両親の気遣いを理解しながらも、突き放されたような気持ちになった。
少なくとも、嫡子のアレスを押しのけてまで、墓戸の家を継ぐつもりにはなれない。
ならば、家を出て一本立ちするのが、最善の道なのだろうか?
生きる意味に悩んでいた僕は、よって立つ家族という土台までが揺らぎ始め、宙に浮いたような不安定な心情を禁じ得なくなった。
両親から自分の出自について打ち明けられた後、僕は胸の中に重い闇を抱え、神殿の庭園の片隅で意気消沈していた。
夜空には星が静かに瞬き、冷たい風が頬を撫でる。そのたびに心はどこか遠く、虚ろな思考に沈んでいく。皇帝の血を引く自分が、棄てられた皇子だったなんて、どう受け止めればいいのか分からず、ただ無言で星空を見上げた。
ふと、辺りが柔らかな光に包まれた。
暖かく、静謐な光が周囲に広がり、僕の重く沈んだ心を和らげるように優しく染め上げる。
目を凝らすと、その中から権天使メバヒアが現れた。夜の静寂の中で純白の翼がゆっくりと動き、彼女の顔は、深い慈愛とどこか悲しげな表情を湛えていた。
僕は彼女の姿に少し驚きながらも、暗澹たる心情に沈んだまま、声を発することができなかった。
メバヒアはそっと僕の隣に腰を下ろし、温かな眼差しを向ける。
「ルーカス……あなたが今、何を思っているのか、おおかた察しがつくわ。自分が何者であるのか、その重みに押しつぶされそうになっているのですね?」
彼女の声は穏やかで、どこか胸に染みる温かさがあった。
僕は、心に渦巻く感情を言葉にできず、ただゆっくりと頷いた。そして、うつむいたまま静かに口を開く。
「……僕が皇帝の血を引く者で、棄てられた皇子だったなんて……想像もしていなかった。ただの墓戸の子どもとして、ここで生きてきたはずなのに……」
メバヒアは黙って話に耳を傾け、静かにほほ笑む。
「あなたが感じているその不安や混乱は、決して恥じることではありません。それだけ大きな運命を背負っているのですから」
僕は顔を上げ、彼女の深い碧い瞳を見つめた。
「メバヒアさん……僕が、どうしてこんな運命を背負わなければならないのでしょう? それに、権天使のあなたが守護天使なのは、僕が皇子だったからなんですね。
でも、棄てられた皇子に、そんな価値はあるのでしょうか? 他にも適任な方がいるはずです……」
メバヒアの表情がわずかに硬くなり、彼女は優雅にほほ笑みながら答えた。
「そんなことはありません。私は代理だと言ったでしょう。あなたの守護天使は、力天使ハニエル様。ルーカス、それはあなたが『ただの皇子』以上の存在だからです」
僕は驚きに目を見開いた。
「……ただの皇子以上? 僕がですか?」
メバヒアはゆっくりと彼の額に手を伸ばし、額の赤い痣に触れた。
「あなたの額に宿る『帝王紋』……それは、単なる偶然ではありません。
古代から伝わるこの印を持つ者は、『特別な者』とされてきました。それが何を意味するか、まだ私にもすべては分かりません。
ですが、あなたはこの印によって、あるべき運命に導かれているのです」
彼女の手が触れると、額の痣がほのかに光を帯びたように感じた。僕はその不思議な力に引き込まれるような感覚を覚える。目を瞑り、心の中を探ったが、はっきりとした答えは見つからなかった。
メバヒアは続けて言った。
「私は、あなたが生まれてからずっと、見守ってきました。そして、あなたの成長とともに、この世界におけるあなたの役割が次第に明らかになっていくのを感じています。
だからこそ、私は『ただの守護天使』としてあなたに仕えるのではなく、あなたの運命をともに背負う存在としてここにいるのです」
僕は彼女の言葉に圧倒され、しばらく息を呑んだ。
メバヒアへの疑問が静かに解き明かされると同時に、僕が背負う運命の重みが徐々に胸にのしかかってきた。
「僕は……その運命を受け入れることができるでしょうか?
僕には、それだけの力があるとは思えません……」と、僕は弱々しく呟いた。
メバヒアは優しくほほ笑み、僕の肩に手を置いた。
「力は、これからあなたが道を歩む中で得られるものです。
そして、私がここにいるのは、その旅路をあなたとともに歩むため。あなたは決して一人ではないのですよ」
彼女の言葉に、少しだけ心が軽くなったような気がした。
僕は彼女の存在の温もりに安らぎを覚えながら、深く一息ついた。
「ありがとう、メバヒアさん。僕が……どう生きるべきか、これから自分で見つけ出す覚悟を持ちたいと思います」
メバヒアは静かに頷き、僕を包み込むように翼を広げた。
その純白の翼が夜の闇の中で淡く輝き、彼女の存在が僕の不安をすべて吸い取っていくかのようだった。