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棄てられ皇子の煩悶 :不遇の皇子は運命に抗い、自らの道を切り開く!  作者: 聡明な兎
第一部 棄てられ皇子の煩悶
7/31

天使がほほ笑むとき

 聖エレシア神殿は、コームルス帝国(ていこく)の神殿格付けの中で最上位に位置づけられている。しかし、神殿の最高職である大司教の座は、長年奉職(ほうしょく)してきた神官が最後に務める「名誉職」の扱いが定着している。

 そのためか、神殿に所属する楽団や合唱隊の規模も、他の神殿に比べて小ぢんまりとしている。


 ここで(まつ)られるのは「聖エレシア」。だが、彼女に関する記述は聖典にさえわずかしかなく、その神格の位置づけも曖昧(あいまい)だ。

 「神々を生み出した神の中の神」という説もあれば、「宇宙そのものであって、神ではない」という説すらある。「宇宙そのもの」とまでされると、存在をほぼ否定されているに等しく、これはもはや唯物論(ゆいぶつろん)に近い。

 ただ、いずれの説も宇宙創成に深く関わっているとの見解は一致している。


 神にも人気不人気がある。中でも、今最も人気がある神は「太陽と音楽の神ソラ」だ。神ソラは、太陽と音楽の男神であり、主神アルナと神の女王サラの息子である。

 金色の髪と燃えるような赤い(ひとみ)を持ち、金と赤のローブを(まと)った神々しい姿で人々に現れるという。


 ソラは、太陽や光や熱の現象を(つかさど)り、美しい歌声と楽器の音で神々も人間も魅了(みりょう)する。さらに、預言(よげん)の神としても(あが)められている。


 帝都バシレイオンから西へ向かうと、ヘリオロス半島に(そび)え立つ「ソラリス山」にたどり着く。

 ソラリス山は、太陽の光を反射して金色に輝く美しい山だ。ソラリス山の中腹には、神ソラの神殿があり、そこからは美しい歌声と楽器の音の響きが絶えないという。 

 その輝かしいイメージと相まって、ソラリス山は、巡礼地として不動の一位を保っている。

 

 対して、聖エレシアは純潔な女神ともいわれる。

 純粋(じゅんすい)な美しさを持つ女神で、彼女の容姿は、透明感あふれる白いドレスに身を包み、金の髪が優雅に舞い踊る。(あお)(ひとみ)は清らかな光を放ち、彼女の周りには花々や輝く星々が宿る。

 性格は慈愛(じあい)に満ち、人々に対して無償(むしょう)の愛と()やしをもたらす。しかし、その美しさと清らかさには優雅な厳格さも備わっており、彼女の前で誠実な心を持って接する者にだけ祝福を授ける。

 

 それだけに、近づき難いイメージがある。それに、聖エレシア山は濃い霊気(れいき)(あふ)れ、常人では登山に耐えられない。

 山頂には、彼女が住まう「アストラリス宮殿」があると伝承で伝わる。実際に足を踏み入れた者は、初代帝国皇帝の父ただ一人とされている。


 幼い(ころ)から、僕は神殿の手伝いをして過ごしてきた。記録の整理や日常の事務もあって勉強になったたが、特に神聖なミサ曲などの音楽演奏は、大きな割合を占めていた。


 少年合唱隊に混ざって歌うことから始まり、次第にヴァイオリンやチェンバロ、そして荘厳(そうごん)なパイプオルガンの演奏へと手を広げていった。

 一二歳になり、僕はついに楽団のコンサートマスター――首席第一ヴァイオリン奏者という大役を任されることになった。


 音楽の師匠(ししょう)は、表向きは楽団の楽長(マエストロ)だった。それなりに楽器演奏や作曲の腕が立つ人物で、音楽の才も感じられたが、首都の一流音楽家たちと比べると、やはり見劣りがする。


 だが、実のところ、僕の真の師は「メバヒア」と呼ばれる天使だった。音楽を得意とし、神々(こうごう)しいまでに美しい音色を響かせる存在である。

 僕が旋律(せんりつ)(かな)でるとき、彼女の声が共鳴し、楽器に触れるとその音に神秘的な彩りが加わる。その響きは、ただ美しいだけでなく、どこか(たましい)()さぶるような深みがあった。


 メバヒアは、音楽の感動や芸術的な興趣(きょうしゅ)だけでなく、その音に秘められた(れい)的な力、さらには魔術的(まじゅつてき)な意味まで教えてくれた。


 メバヒアに初めて会ったのはいつだったか――記憶が曖昧(あいまい)なほど幼い(ころ)のことだ。しかし、彼女がもたらした鮮烈な印象は、今も僕の心に刻まれている。


 メバヒアは、清らかな光のヴェールを(まと)い、長い金髪が静かな風にたなびく美しい天使だった。

 彼女の手には、柔らかな輝きを放つオーブが浮かび、その光は知恵と浄化(じょうか)の力を(たた)えていた。オーブから放たれる光は、周囲を(おだ)やかに包み込む。

 

 メバヒアの四枚の純白の翼が、静かに羽ばたき、周囲に柔らかな光の輪を生み出していた。(あお)(ひとみ)には星のような輝きが宿り、人を安心させる(おだ)やかな笑顔を持っている。

 

 淡い青と白を基調としたローブの(すそ)星屑(ほしくず)のように光り輝き、彼女の神秘的な(たたず)まいをさらに際立たせていた。

 装飾は少なく、シンプルで気高い印象を与える。肩や胸元には小さな星や光の模様があしらわれており、彼女が知識と精神的な啓発(けいはつ)(つかさど)る天使であることを象徴するかのようだ。


 その(たたず)まいはどこか(はかな)くもあり、まるで触れると消えてしまうような神秘的な印象を与えているが、見つめられると心の奥まで()やされ、迷いが晴れるような感覚に包まれた。


 そんな彼女も、いつしか僕にとって当たり前の存在となり、日常に溶け込むようになった。

 

 メバヒアは二対四枚の大きく繊細(せんさい)な純白の翼を持ち、普段は二枚だけ広げている。

 羽は、まるで楽器のように振動することで、僕が奏でる音楽と共振して美しい響きを生み出す。羽の色は、奏でる音楽の種類や感情によって変化する。たとえば、喜びの音楽を奏でるときは金色に輝き、悲しみの音楽を奏でるときは銀色に変わるといったように。

 

 メバヒアは、ハープやリュート、フルート、ヴァイオリンなどさまざまな楽器を自在に操り、その音色で人々の心を和ませることに長けている。


 僕は兄弟の中で一番年上なので、お姉さんのような頼もしい存在だ。


 人には、精神世界において善を勧め悪を退けるよう、その心を導く守護天使アンジェルクストゥスがついているという。もちろん一日中張り付いているわけもないが、霊感(れいかん)のある僕には、天使が人に寄り添い、そっと守護している様子を何度も見かけていた。

 

 幼い(ころ)、ふとした好奇心から、メバヒアにある疑問を尋ねたことがある。


「メバヒアさんは、僕の守護天使なの?」

「ふふつ」と、メバヒアは柔らかくほほ笑みを浮かべた。その笑みは、どこか含みのあるようにも感じられた。


「あなたの守護天使は、差し当たり力天使(デュナミス)ハニエル様ということになっているの。私はハニエル様の配下の一人として、代わりに(そば)にいるのよ。ハニエル様はお忙しいから、なかなか手が回らないの」

「そうなんだ……でも、メバヒアさんも偉い天使に見えるけど……」

「私は、ただの権天使(アルケ―)に過ぎないわ」


 メバヒアは、(ひか)えめにほほ笑みながら何の(てら)いもなくそう()げたが、幼いながらに違和感を覚えた。 僕が目にしてきた守護天使は、いずれも羽が二枚で、第九位階の天使(アンゲル)に見えたからだ。


 大天使ハニエルは、天使の位階こそ第五位階の力天使(デュナミス)と低いが、七大天使に数えられる高級天使だ。権天使(アルケー)力天使(デュナミス)の序列を取り仕切り、占星術的には、金星、十二月、天蠍宮(てんかつきゅう)双魚宮(そうぎょきゅう)を支配する。

 一般に、力天使(デュナミス)は奇跡の発現を(つかさど)り、それにより英雄(エロイカ)に勇気を授ける。加えて、ハニエルは愛と美や平和と調和をも(つかさど)る重要な存在だ。


 メバヒアは、自らをただの権天使(アルケー)謙遜(けんそん)していた。だが、権天使(アルケー)は第七位階。その下には、まだ大天使(アークアンゲルス)天使(アンゲルス)がいる。


 権天使(アルケー)は、精神世界において、国家レベルの指導者層を善に導き、悪霊(あくりょう)から守護する――そんな高位な存在たちが僕なんかに……?

 

 しかも、カバラの秘術では、メバイアは「神の七二の聖なる名前シェム・ハ・メフォラシュ」に記された「道徳の天使」とも言われる主要な守護天使の一人だ。精神的な成長、信仰、知識の拡大を支援する役割を担っている。

 そして、大天使ハニエルが率いる合唱隊「Elohim(エロヒム)Malkhi(マルキ)」(神-王)の七名のうちの一人でもある。


 そんな大物だけに、随従(ずいじゅう)する天使も多く、彼女の(はな)やかさを、いっそう引き立てていた。


 しかし、慣れは例外なくやってくる。「なぜ」という疑問は、時とともに惰性(だせい)で薄れていった。


  


     ◆




 今日は、聖エレシア神殿でミサ(感謝の祭儀)が()り行われる日だ。


 聖体拝領を(ともな)うミサは、教会の典礼儀式の中で最も重要なものだ。

 歌唱に使用する典礼文は古の時代に作られてから一定で、長い伝統を有する。当然、古語が用いられているが、短いテキストなので、宗教に詳しくない者でも意味は理解している。


 たとえば、キリエ(求憐誦(きゅうれんしょう))の典礼文は、こうだ。

 Kyrie(キリエ) eleison(エレイソン).((しゅ)(あわれ)(たま)え)

 Alna(アルナ) eleison(エレイソン).(アルナよ(あわれ)(たま)え)

 Kyrie(キリエ) eleison(エレイソン).((しゅ)(あわれ)(たま)え)


 このわずか三行の祈りの言葉に、メロディとハーモニーを付け、作曲家が新たな息吹(いぶき)を吹き込む――それが「ミサ曲」である。

 単なる平文(ひらぶん)とは比べものにならないほど、音楽によってその祈りは深い荘厳(そうごん)さを(まと)うのだ。



 楽団員が全員着席し、準備が整ったところで、僕はヴァイオリンを手に、荘厳(そうごん)なミサの会場へと静かに入場する。

 ざわついていた参列者たちは次々と口を閉ざし、聖堂に厳粛(げんしゅく)静寂(せいじゃく)が訪れた。その場に(ただよ)う空気が、徐々に張り詰めていくのを感じる。

 

 聖堂の天井付近の中空には、いつもどおりメバヒアが随従(ずいじゅう)する天使たちとともに(たたず)んでいる。彼女たちの眼差(まなざ)しは優しく、温かく、こちらを静かに見守っている。

 そんな天上の存在が、僕の音楽に共振し力を与えてくれると思うと、何とも心強い。


 僕は、基準となる「ラ」の音を(かな)でると、軽く合図を送る。楽団員がそれぞれ僕の出す音に合わせる。

 そして各々が楽器のチューニングを始めるのを確認してから、静かに席に着いた。

 各自がそれぞれチューニングを終えて、てんでばらばらな非音楽的喧騒(けんそう)が止むと、再び静寂(せいじゃく)が訪れる。


 そして、いよいよミサが始まる。


 入祭の歌(イントロイトゥス)が響き渡る中、(おごそ)かな足取りで司祭が侍者(じしゃ)たちを従え、ゆっくりと聖堂へと歩んで入堂する。

 

 司祭による始めの挨拶(あいさつ)があり、続いて司祭による回心への招きと、信徒による回心の祈りがある。


 次からが楽団も加わったミサ曲が始まる。まずは、キリエ――(あわ)れみを()う祈りの歌からだ。


 始まりの合図はコンサートマスターである僕が出す。

 場内の視線が一斉(いっせい)に僕へと向けられ、その注視の中で、初めての役割への緊張(きんちょう)が胸の奥で高まっていくのを感じる。不思議と(いや)緊張(きんちょう)じゃない。


 これまでの練習の成果が試される。

 ヴァイオリンを(あご)(はさ)んで構え、弓を空振りする繊細(せんさい)な動きでテンポと音のニュアンスを示し、合図を出す。すると、聖堂内に音楽の波が広がり、キリエが荘厳(そうごん)に響き始めた。

 

 ミサは、大きく「開祭」、「言葉の典礼」、そして「感謝の典礼(聖餐(せいさん)式)」の三部から構成され、言葉と音楽が絶妙に交錯(こうさく)しながら進行していく。


 一度音楽の流れに身を委ねてしまえば、時がたつのはあっという間だった。

 集中が深まるほどに、時間の感覚が消え、ただひたすら音の海に没頭(ぼっとう)していた。


 やがて、閉祭の歌が(おだ)やかに流れ始める。司祭と侍者(じしゃ)たちがゆっくりと退堂し、ミサの儀式は終わりを迎えた。


 こうして僕のコンサートマスターとしての初舞台となったミサは、驚くほど早く幕を閉じた。


「素晴らしい! 今日は、いつにも増していい演奏だったよ」


 何人かの信者たちが、僕が今日デビューだったことを知っていたらしく、わざわざ激励(げきれい)の言葉をかけてくれた。


「ありがとうございます。これからも精進します」

「期待しているよ。神殿に新しい時代到来の予感がするよ」


「いえ、それはさすがに過分なお言葉です」

「新しい時代は、いつでも若者がもたらしてくれるものさ」


 若者と言われるのも早すぎる子どもの僕は、頭を()きながら、少し照れた笑みを浮かべるしかなかった。


 やがて信者たちが聖堂を後にし、静寂(せいじゃく)(もど)ると、天上に(たたず)んでいたメバヒアが、ふわりと降りて僕の前に姿を現した。


「メバヒアさん、ありがとうございます。おかげで、今日もいい響きが出せました」と、僕はまず感謝の言葉を述べた。


「私たちは、ほんの少し後押しをしただけ。あなたたちの演奏が素晴らしかったのよ。初めてのコンサートマスターだったのに、よく楽団を引っ張っていたわね」


 メバヒアは優しくほほ笑み、その目には慈愛(じあい)の光が宿っていた。

 

「評価いただけて、とても(うれ)しいです」


 メバヒアは非常に優しく、温厚な性格を持つ天使だ。道徳的な迷いに(おちい)った際にも非難することなく、(おだ)やかに導こうとしてくれる。


 ミサが無事に終わり、少し心の余裕(よゆう)ができた僕は、以前から胸に抱えている(とい)――「生きる意味」について、思い切ってメバヒアに相談してみることにした。


 守護天使団の一人として、メバヒアは、おそらくすでに僕の(とい)の内容を知っているだろう。

 しかし、あたかも初めて聞くかのように、(おだ)やかで丁寧(ていねい)な態度で耳を傾けてくれる。


 メバヒアは、優しいほほ笑みを浮かべ、まるで(ささや)くような柔らかな口調で答え始めた。


「幸福を追求することは、人として良く生きるうえで、大切なことよ。何人(なんぴと)たりとも、妨害する権利を持たない。それはルーカス自身しか決められない」

「それは、そう思います。(だれ)かに与えてもらおうとは考えていません」


 メバヒアの(ひとみ)には、さらに深い温かみが宿り、優しくほほ笑んだその表情は、まるで母が子を見守るような(いつく)しみを感じさせた。僕の心も、ふっと軽くなるのを覚える。

 

「ルーカスが見極めた末に困難な道を選んでも、私は(はげ)ましと支援を()しまない。神コミモテノスは無限の慈悲(じひ)を有している。正しく努力すれば、きっと応えてくれるわ。

 だらかといって、欲をかいて盲目(もうもく)になってはダメよ。客観的に自分を見つめて、無理な状況に(おちい)ったら、きちんと退(しりぞ)く覚悟も大切なんだから」

(おご)って増長してはいけない、ということですよね。(きも)(めい)じておきます」


 メバヒアは、満足したように柔らかくほほ笑んだ。

 しかし、その直後、表情が一転し、神妙な眼差(まなざ)しで僕を見つめた。


「ルーカスは、知識の力を理解しているわよね。それには正しく用いる責任が(ともな)わないと(あや)ういものなの。

 もし、無限の知恵と博覧強記を得られたとしたら、それをどう使おうと考えているの?」


 突然の問いに思考が止まり、答えが出てこない自分に気づいた瞬間、冷や汗が背中を伝うのを感じた。

 無限の知恵と博覧強記の先には薔薇(ばら)色の人生が待っている――ただそんな漠然(ばくぜん)とした甘い幻想(げんそう)(とら)われていた自分に気づく。これでは、頭がお花畑状態だったとしか言いようがない。


 困難に立ち向かうとき、いつしか手段が目的とすり替わってしまう――そんな陥穽(かんせい)に片足を踏み入れていたことに気づき、僕は心底、自分の未熟さを恥じた。


「……そうですよね。結局、知恵を手にして何を成し()げたいのか、それが一番重要です。

 (もど)ってしまいますけど、自分の幸福を探求するために使うと思います。ただ、それは社会と調和が取れたものでなくてはならない、とは強く思います。

 少なくとも、私情を捨てて人々に尽くす聖人には、なれそうもありません」


「ふふっ」と、メバヒアは楽し気に笑った。その笑顔にはどこか安堵(あんど)の色も混じっているように見えた。

 僕の答えが稚拙(ちせつ)に感じられたのだろうか? それとも、自分の思いが伝わったことを喜んでいるのだろうか?


「今はまだ、知恵には責任が(ともな)うことを深く自覚してもらえれば、それでいいわ。Homo(ホモ) proponit(プロポニト), sed(セド) Alna(アルナ) disponit(ディスポ). (人は計画するが、神が定める) あまり先のことを考え過ぎても、労多くて功少なし、というものよ」

「そうは言っても、聡明法(そうめいほう)の困難さ危険を考えると心配で……」

 

 僕は、言葉を詰まらせてしまった。不確実な未来への不安や、聡明法(そうめいほう)がもたらすかもしれない未知の危険について、考えずにはいられない自分がいる。


「私を信じて。いつでも……あなたを見守っているから……」

 

 メバヒアの(ひとみ)が、突然、何か異様な熱を帯びたように感じた。その眼差(まなざ)しには、慈愛(じあい)とは異なる、一種の狂おしいまでの熱情が宿っているようで、不思議な違和感が僕の胸に渦巻いた。

 慈愛(じあい)や親愛とは違う、もっと深く強い何か――これが「真実の愛」とでも呼ぶべき感情なのか?

 だが、まさか天使が人間に対して……?


 いや、そんな生優(なまやさ)しいものじゃない! 病的と言っていいほどの執着(しゅうちゃく)の香りがする。

 ふと脳裏に(よみがえ)る――今の彼女の言葉は、ノアがかつて僕に告げたものと、まるで同じではないか。


 同時に背中がゾクリとした。

 それがなぜなのかは、わからない。

 権天使(アルケー)メバヒアという自分にはもったいない高位天使に、ここま気遣(きづか)われるなど、身に(あま)る光栄のはずだ――それなのに、なぜか心のどこかで、不安がさざ波のように()れている。


「メバヒアさんは……どうしてそんなに優しくしてくれるんですか?」

「それは、あなたが特別だからよ」


 またしてもノアと同じ言葉――「特別だから」と言われたその瞬間、奇妙な既視感(デジャヴ)とともに、眩惑(げんわく)されるような不安が僕の心を()き乱した。


「……そうですか。ありがとうございます」

 (つたな)い僕の違和感の正体など、きっと些細(ささい)なことだ。これ以上は聞かない方がいい。

 僕はその場で口を閉じた。


 僕の態度に何かを感じ取って心配したのか、メバヒアはそっと腕を広げ、まるで母親が子を包むように僕を抱きしめてくれた。

 その純白の羽が一枚、また一枚と僕を包み込み、普段は広げない羽までもが、僕を守るようにふわりと(おお)っていく……その温もりに、心の奥に巣くう不安が少しずつ溶けていくようだった。


(天使に疑問を抱くなど、()の骨頂だ……)


 僕はそう自分に言い聞かせた。彼女の羽に包まれると、心が沈静化し、暖かな眠気が体の中から()き上がってくる。

 メバヒアの羽の温もりと優しげな(ささや)きが、迷いの(きり)を払いのけ、僕の心に一筋の光をもたらしたかのようだった。


 結果がどうであれ、前に進む勇気を得られた気がする。それは単なる気力ではなく、より根本的な心構えが問われているのだと感じた。


 メバヒアの言葉と抱擁(ほうよう)によって、それを教えられた僕は、胸の奥からこみ上げる感謝の念で満たされた。




 メバヒアとの会話を終えて聖堂の(とびら)を出ると、ひんやりとした夜風が(はだ)を冷やした。星が(またた)く夜空が広がり、無数の星々が静かに神々の存在を告げているかのようだった。

 僕は一つ深呼吸をして、夜の冷たさを肺に満たしたが、それでも心に残る違和感が、じんわりと消えずに残っていた。


(あの優しいメバヒアさんが、僕にあんなに執着(しゅうちゃく)しているように感じられるのは、本当に気のせいなのだろうか……?)


 彼女の「特別」という言葉が、ノアのそれと奇妙に重なり、心の奥に何か小さな(とげ)が刺さっているような感覚が残っている。


 気のせいだ、きっとあれは慈愛(じあい)の表現だ……そう自分に言い聞かせても、心の底にじんわりと染みついた不安は消えない。

 それはまるで、沈黙の中でじっとこちらを見つめる目があるような、言葉にできない感覚だった。




     ◆




 夜風に身を預けながら、僕は神殿の廊下(ろうか)を歩いていた。だが、突然、背後に(だれ)かの視線を感じた気がして振り返った。

 しかし、そこにはただ静寂(せいじゃく)(やみ)が広がるのみで、(だれ)の姿も見当たらない。


(気のせいだろうか……)


 自分にそう言い聞かせ、再び歩き始める。

 しかし、足音が(かす)かに後をつけてくるような気配が、背筋に冷たい汗を(にじ)ませた。


 (だれ)もいないはずの廊下(ろうか)(やみ)が、じっとりと僕を包み込むように感じられた。

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