生者の宿命と魂の共鳴
鏡――それは、僕が最も避けたいものだった。
整髪のため仕方なく鏡に向かうときでさえ、とにかく急いで済ませる。
鏡に映るのは紛れもない自分自身――その姿を目にすると、奇妙な不快感が胸に湧き上る。自分がこの世に確かに存在し、生きている――覆せない実感が、嫌でも僕の心をかき乱す。
その感覚は不思議で、モヤモヤと不定形――理解の及ばない異質な感覚が心に生じることが、何とも言えず気持ち悪いうえに、後を引く。
──「生きる」とは、いったい何なのか?
人は、死ぬとただの有機物の塊となる。
親族の老人が亡くなったとき、その冷たく静まり返った人の遺体というものを初めて目にした。
生きていた者がただの物体へと変わる瞬間、その変化は、鏡以上に僕を恐怖で震え上がらせ、同時に浮かんだ例の妙な感覚が心の奥底に強烈に刻み込まれた。
死により、「生物」がただの「物」になる。その違いは何だ?
霊魂が宿っているかどうかか?
では、霊魂とは?
生物を動かす霊気(=生命エネルギー)とは?
疑問が尽きないが、人は、それに蓋をして生きる。それが暗黙の前提だ。
だが、まだ子どもの僕は、うまく蓋ができない。
◆
僕は、墓戸の一員として、午前は魔術と武術の修練に専念し、午後に学問の時間を設けていた。
一般の貴族なら午後は自由時間を享受しているが、墓戸の子息としてはやるべきことが山積していて、そうもいかない。
母エレナは、大学を優秀な成績で卒業した聡明な女性だ。貴族としての優雅な気品も備えている。
卒業後は大学教授の助手を務め、若い学生たちの尊敬を集めていたという。
その母から、僕は、幼い頃より読み書きや数学の手ほどきを受けていた。
だが、一〇歳となったとき、母はこう告げた。
「悪いけど、私に教えられることは、もうないわ。
あとは……そうねえ、図書館の本で勉強したらどうかしら?
ルーカスは聡いから、きっと一人でもできるに違いないわ」
「うん、わかったよ。母さん……」
そのときは、いよいよ愛想が尽きて、母に見限られたのではないかと感じた。もはや母は、僕に何の期待もしていないのかと……。
でも、杞憂だった。
しばしば勉強の進捗を尋ねる母は、優しい眼差しを向けてくれる。その目には、常に変わらぬ愛情が宿っていた。
そのたびに、僕は、母が寄り添ってくれている安心感を覚える。褒められたい――その一心で勉学に励んだ。
もともと僕自身、さまざまな学術書を読んで、思索に耽ることが好きだ。
だが、根を詰め過ぎては息が詰まる。
そんなとき、山へ出かけてノアと過ごすと気分が晴れる。
ルナリアに騎乗して、山野を駆け巡るのも爽快だ。
そんな僕だから、相変わらず人間の友達がいない。
◆
そのまま大きな出来事もなく、二年がたとうとしている。
格闘術を習っている道場の師範は、我が家と臣従契約を結ぶ騎士階級のピスコポ家の当主。師範の母が僕のお爺ちゃんの妹だ。
ピスコポ家には、僕と同い年の鳩子がいた。彼の名前は、レオン。
茶色の髪に茶色の瞳の、がっしりとした体格をしている。髪は短く、逆立っている。瞳は、獅子のように鋭く見える。肌は日焼けしており、筋肉質。身体は、力強くて敏捷だ。
僕は、筋肉がつきにくい体質だし、男とは思えないほど色白なので、ちょっとうらやましい。
彼も黒鉄の剣を使うが、僕の剣とは違って、曲がっており、鞘に収まらないため、背中に背負う。
レオンは、明るくて友好的な少年だ。
僕を、親友で、兄のように慕ってくれるし、司令官のメルラ家への忠誠や尊敬を持っている。
格闘術のほか、魔術も学んでいるが、あまり得意ではない。
もちろん死霊魔術は使えない。そんな彼は、僕が死霊魔術を使うことに対する不安や心配を持っているようだ。
そんなレオンは、ちょい悪なところもある。
同年輩の少女たちを見ると、スカートをめくったり、胸や尻にタッチしたりして、ちょっかいをかけている。
僕もレオンに誘われるが、そんな勇気は出ない。
それでもレオンは、性格も明るいし、強いせいなのか、女子たちの方からも挑発してくる。
だが、男女のつき合いに発展したことはないらしい。
僕はといえば、陰気だし、墓戸の本家といいうことで、忌み嫌われがちだ。
女子にモテているとは、思えない。
僕には、ノアよりも気になる人ができた。
レオンに二歳年上で一四歳の姉リリアがいる。
茶色の髪に茶色の瞳の、すらりとした体格で、髪は長く、おだんごにしている。
瞳は、レオン同様、獅子のように鋭く見える。肌は日焼けしており、健康的だ。
そのしなやかな身体は、どんな動きも優雅に、そして力強く見せる。
墓戸の一族は、いざとなれば女性も戦力だ。
彼女も道場で格闘術の鍛錬をしていて、魔術も使える。腕はなかなかのものだ。
黒鉄の剣も使うが、レオンの剣とは違って、まっすぐなバスタードソード(片手持ち・両手持ち両用の剣)で、腰に差している。
明るくて気っ風のいい性格で、弟に限らず門弟の面倒見がいい。彼らも彼女を信頼している。
「若様。汗をかいたでしょう。はい、タオルをお使いください」
僕は領主の長男。次期当主ということで、町の人々は「若様」と呼ぶ。
リリアは、まず第一番に僕の世話をしてくれる。
「若様ばかり贔屓しないで、俺にもタオルをくれよ」と、他の門弟が冷やかしめいた口調で言った。
「あんたみたいな三下が何言ってんのさ。ほらよっつと」
リリアは、タオルを放り投げる。
「なんだよ! この扱いの差は!」と門弟が苦情を言うが、回りから大爆笑された。
屋敷への帰り道。
「若様。待ってよ。あたしも領主様の屋敷にお使いがあるから、一緒に行こう」と、リリアが追いかけてきた。
「ああ、いいけど……」
僕が口べたなので、会話ははずまないが、リリアは上手く話題を振ってくれる。
「若様は凄いよねえ。師範代から一本取っちゃうんだから。もう少し成長したら、きっと互角になれるよ」
「そうかな?」
褒められて悪い気はしない。おべっかなのかもしれないが。
そのときは、偶然だと思った。
しかし、リリアは、何かと口実を設けては帰り道へついてきて、屋敷への道を二人で歩く。
それが日課のようになった。
そのうち、寄り道をするようになった。
アクセサリーの店などを見て回る。買うことなどまずないが、店番のお姉さんも友達みたいに接してくれる。
僕は、リリアに特別な感情を抱いていることを自覚した。
僕は、思い切ってリリアにアクセサリーをプレゼントした。気弱な僕が一歩を踏み出せたのは、初めてだ。
プレゼントに選んだのは、彼女の茶色の髪に映えるような、明るい黄色の花がついた髪留めだった。
子どものお小遣いで買えるものなので、玩具のような代物だったが、それでもリリアは心から喜んでくれた。
「嬉しい! 一生大事にするね」
手ごたえを感じた僕は、二人きりのときは、「ルーカス」と呼んでほしいとお願いする。
「若様」では、家のことだか、僕個人のことだか、しっくりこないからだ。
「わかったわ。ルーカス様」
「できれば、様付けもやめてほしいんだけど……」
「なら、ルーカスさんでどう?」
「リリアの方が年上なんだから、呼び捨てでいいんだけど……まあいいや」
ある日、リリアが急に遠くの町へ行くことになった。
師範の愛弟子が開いた道場の女将が病に倒れたため、リリアはその看病を手伝うことになったという。
「倒れたといっても、重い病気じゃないみたい。一カ月もしたら帰ってこれると思うの」と、リリアは、寂しげにほほ笑んだ。
僕は、それを素直に信じた。
だが、月日が過ぎても、リリアは帰ってこなかった。半年がたち、僕は、不安が胸を締め付けるようになっていた。
道場の女将さんか師範代に聞いてみようとも思ったが、勇気が出ない。
そして、また月が変わろうとする頃、道場の門弟たちの噂が耳に入ってきた。
「お嬢さん。おめでたらしいぜ」
「えっ! 嘘だよな! この短期間で結婚して、子どもまでできたってか? あり得ねえよ。まさか、手籠めにされて、できちまったんじゃあ……」
「おい、声がでけえ!」
その言葉を聞いた瞬間、全身の血の気が一気に引いた。目の前が揺らぎ、暗転しかけた僕は、思わずその場で屈み込んだ。
暗転はしなかったものの、回復して落ち着くまでの数分間、視界が灰色となった。
──感情やもっと深いところでの深層意識では、これほどリリアのことを慕っていたのか!
激しい肉体の反応を通じ、僕は実感せざるを得なかった。
意識の表層で考えることなど、氷山の一角でしかない。
それも貴重な教訓となった。
帝国では、女性の処女性が非常に重んじられている。
裏返せば、非処女は結婚相手としては見向きもされない。
それを悪用して、意中の女性と結婚するために、無理やり既成事実を作るといった悪質な行為もままあると聞いたことがある。
被害を受けた女性は、その相手と結婚するか、一生独身を貫くか、という理不尽な二択を選ばされることになる。
――なんという、不条理!
僕は、悲嘆に暮れ、失意の底にあった。
気力が落ち込み、何をやっても感覚が鈍い。
世界が、灰色になった。
◆
ピスコポ家の人たちは、リリアが妊娠した経緯については、終ぞ言葉を濁して教えてくれなかった。
僕も、責めるつもりはない。
お互いの意思を確認し合ったわけでもなし、交際していたとは胸を張って言えない。
ただ、エレシュポロンの町は大都市ではないから、年頃の男女が連れ立って歩いていれば目立つ。
それを目撃していた人たちの憶測を呼んでしまっていたことは事実だ。
自称嫁候補の妹ソフィアに、問い詰められたこともある。
事実、「付き合っている」とは答えられなかった。
経緯はどうあれ、彼女は、もう僕のもとへは帰ってこない。それだけは、痛いほどよくわかっていた。
母エレナの勘は鋭い。
気丈に振る舞っていても、煙に巻けるはずがなかった。
落ち込んだ様子を察した母の僕へ溺愛は、酷くなった。当然、リリアとのこともすべて把握していたのだろう。
「ルーちゃんは、我慢し過ぎよ。まだ、子どもなんだから、もっと甘えていいのよ」
強引に抱きしめられて、胸に顔をうずめた。甘えん坊のようで、なぜか幼児退行した気分になる。
ふと、ソフィアと一緒に母の乳を吸っていた朧げな記憶が頭を過り、顔がほてった――が、そんなことを、ぼんやりと考えているうちに、ギョッとなった。
――それって、三歳になっても、まだ乳離れしていなかったってことじゃあ……?
だとしても、そんなことを望むなんて、今さらだ。だが、あの溺愛ぶりからすると、本当に許してくれそうで怖い……。
「ルーちゃん、おっぱいが欲しいのかしら?」と、突然、母に言われて仰天した。
しかも、口調がまるで赤子に話しかけるようだ。
――この人中の僕は、いまだに赤ん坊なんだな……。
思わず、まじまじと母の顔を眺めてしまう。
「いいのよ。誰も見ていないんだから……」
母は、僕の答えも聞かずに服をはだけ始める。
「母さん! 何をやってるんだよ」
その先を想像してしまった僕は、驚きで頭が混乱している。
何人も子どもを育てた母は、手際よく乳房をさらけ出してしまった。
僕は、茫然と見ているしかない。
「ここだけの話、お爺ちゃんも一二歳まで乳離れできなかったんですって。だから、恥ずかしがらなくてもいいのよ。ルーちゃんは私の子どもで、私はルーちゃんのお母さんなんだから」
その説明に説得力はあるのか? 一〇歳を過ぎて乳離れできない話も、耳にしないではないが……。
母に性的な魅力を感じないわけじゃなく、むしろ逆だ。
しかし、経産婦とはとても思えない、大きくて形のいい乳房を目の前にぶら下げられても、ふしだらな欲望はまったく感じない。そこは、親子の神秘なのか?
――で、結局、観念した。究極の癒しだと思った。
これは、脳の原始的分野に組み込まれたメカニズムで、僕くらいの年齢ならギリギリ呼び覚ますことができるのだろう。
しかし、常態化してしまったら、重度のマザコンだ。これだけは避けなければならない。
改めて考えてみると、母の愛は、僕に対してだけ歪なことに気づく。
今までは溺愛というレベルで済んでいるが、これ以上過激化したら、もはや病的だ。
――僕だけの特別な事実があるのか?
母の溺愛は、それを示唆しているように思えてならない。
風精霊のセレスティアや土精霊のテクラ、そして乱暴者の火精霊のイグニータまでもが、次々と慰めの言葉をかけてくれた。
残る水精霊のフォンターナは、物静かで控えめなだ。おずおずと距離を保ったまま、輪に加わることをためらっているようだった。
水精霊は、性格上、母性が強い。反面、フォンターナは、寂しがり屋だ。輪に入れないことを不安に思っているに違いない。
「フォンターナ。お願いがあるんだ。僕に、膝枕をしてくれないかな?」
「ルーカス様なら、もちろんかまわないわ」と、彼女は品のいい笑顔を浮かべた。
「なんだよ! おめえばっかり!」と、相性の悪いイグニータが、文句を言う。
「ありがとう。君には十分慰めてもらったから。僕は、フォンターナにも慰めてほしいんだ。欲張りな、わがままだよ」と言い訳をすると、イグニータは引き下がってくれた。
フォンターナは、青い髪に紫の瞳の美しい少女だ。
青いドレスを着ている。髪は長くてサラサラで、風が吹くと水のようになびく。
肌も青みがかっていて滑らかで、触れるとひんやりしている。
身体は、ふっくらとして、柔らかい。性格は、穏やかで優しい。
さっそく、彼女の太ももに頭を預ける。ヒンヤリとして心地よい。
あれこれ思い悩んだ邪念が収まっていく思いがする。
もっと甘えたくて、膝上の素肌が出ている部分に、そっと頬ずりをした。
「んっ……」と、押し殺した声がした──ごめん、やっぱり恥ずかしかったか……。
ノアとの距離感は、ほとんど縮まっていなかった。
彼女への思いは変わらないが、口にしたことはない。
態度で示すのも恥ずかしく、一歩が踏み込めない。
もし、リリアと同じように、このまま彼女がいなくなったら……と、考えたら背筋に寒気が走った。
かといって、口にしたら、どうなるのだろう?
ノアから見て、僕は、子どもとは言わないまでも、年の離れた弟くらいのものだ。
愛だの恋だのに発展するとは思えない。
だが、僕の様子から何かを悟ったノアは、慰めの言葉こそ口にしなかったが、そっと優しく抱きしめてくれた。温もりが伝わるその瞬間、時間が止まったかのようだった。
彼女との初めてのスキンシップで、胸が激しく高鳴った。
ノアに気付かれるのではと、気が気ではなかった。
たくさんの人に慰められた僕は、ようやく少し落ち着いた。
しかし、根本的な解決にはならない。
心に浮かんだ、あの問に答えを出さなければ、前へは進めない。
──「生きる」とは、いったい何なのか?
人は、何のために生きるんだ?