聖なる園の黒き導き手
聖エレシア山には、色とりどりの花々が咲き乱れる美しい花園が広がっている。
そこであの人と出会った……。
「まあ……両手に花なんて、いい御身分ね」と、棘のある言葉を吐いた女性がいた。
ちょうどそのとき、僕は花園に腰を下ろしてくつろいでいた。
右腕に花の妖精フレイアがすがり、左肩に風精霊のセレスティアが頭を預けている。
言われてみれば、確かにちょっとしたハーレム状態だ。皮肉の一つも言いたくなるのも仕方がないかもしれない。
彼女は、二〇歳前後の妙齢の女性に見えた。男とはいえ、まだ一〇歳の僕よりも、彼女の身長は遥かに高く感じられた。
漆黒の黒髪に黒目の彼女は、目を見張るほどの美貌の持ち主で、深紅のドレスに包まれていた。
長い髪はシンプルに束ねられ、その頭には深紅の薔薇が飾られている。赤と黒の対比が優雅さを感じさせる。
ドレスはノースリーブで、スカートは膝丈。タイツは履いておらず生足だ。令嬢にしては、肌の露出が多い。その妖艶な姿に大人のエロスのようなものを覚え、頬が熱くなった。
服装からすると貴族の令嬢だが、従者も連れずに、こんな場所に一人? 場にそぐわない。
それはともかく、何か答えないと……。
「そんなつもりじゃあ……」と、口ごもってしまう。
「まあ。かわいいのね。少しからかってみただけよ。
両手に花は、あなたが好ましい人物である証だわ。
私はノア。ご一緒してもいいかしら?」
「かまいませんよ。僕はルーカスです」
僕は軽く一礼して名を告げた。
ノアは、一人分離れた場所に優雅に腰を下ろす。
初対面で、親密とはとてもいえないが、その微妙な距離感がちょっとだけ気に入らない。
「ルーカス。動物は好きかしら?」
「好きで、よく遠くから眺めていますよ。
でも、警戒心が強いから、触れ合うのは難しいですよね」
「そうなのね。でも、動物のことを理解すれば、そんなに難しくはないのよ」
「そうなんですか?」
ノアに導かれるまま、僕は森の奥深くへと足を踏み入れた。すると、遥か遠くに鹿の群れが見えた。
その直後、僕は目を見張った。ノアが突然、鹿の姿へと変身したのだ。
──ノアも、人外の存在だったのか!
何となく不自然さを感じてはいたが、人間にしか見えなかったので、予期していなかった。
変身したノアは、鹿の群れへと歩み寄っていった。
群れの一頭と何やら会話をしているかのようだった。
僕には理解が及ばないが、ノアは動物の言葉が話せるらしい。
ノアは人間の姿に戻ると、僕を手招きしながら低く囁いた。
「こちらへいらっしゃい。驚かせないように、静かにね」
ノアの指示で事前に用意しておいた女郎花の若葉を手にして、そろそろと彼女の元へ向かう。
鹿たちはじっとこちらを見つめているが、逃げる気配はない。
たどり着いて、ゆっくりと若葉を差し出すと、僕の手から直接食べてくれた。なんだか癒やされる。
ノアの手ほどきのおかげで、態度や居住まいで、動物とある程度の意思疎通ができるようになっていく。
さすがに、動物の言葉は無理だったが。
ケガをした小鹿を治癒魔術で治してやったこともある。
だが、その後、動物の世界の厳しさを痛感することになった。
ノアの導きで、狼の狩の様子を見る機会があった。
狼は、連携して鹿の群れを追い立てると、逃げ遅れた弱い小鹿に狙いをつける。
親鹿の牽制も力が及ばない。そのとき犠牲となったのが、僕が助けた小鹿だったのだ。
ケガは治したものの、それにより弱った体力は戻せなかった。
厳然たる自然淘汰の掟――それは、強者が生き残り、弱者が死して餌食となる現実――それは、僕の心に深く刻まれた。
ノアは、涼しい顔をしているし、あえて何も語らない。
子どもは親に守られているが、いつか独り立ちするもの。
そうなってから慌てても、取り返しがつかない。
ノアの無表情は、逆説的に強烈な説得力があった。
◆
ある日、森を散策していたとき、足元にふと何かが動く気配を感じた。カサカサと揺れていた葉をどけてみると、小さな黒い影が見えた。そこにいたのは、生まれて間もない黒い子犬だった。
子犬はぐったりとしていて、細い体は骨が浮き出るほどに痩せ細り、かすかに震えている。目もほとんど開かず、今にも息が途絶えそうだった。
「この子を……なんとか助けられないでしょうか?」
切なる思いでノアに問いかけた。
「あなたも懲りないわね。
助けたとしても、森に返したら死ぬ運命なのよ。
それとも、ずっと面倒をみるとでもいうの?」
ノアの声は冷たく澄んでいたが、その瞳にはどこか試すような光が宿っていた。
「できるものなら……そうしたいですけど……」
僕は答えたが、その責任の重さに言葉を濁した。
「その子は、ダイアウルフよ」と、ノアの声が静かに響く。彼女は軽く頭を振った。
「えっ! そうなんですか? でも……」
驚きつつも、見捨てる決断がどうしてもできない。
ダイアウルフは、魔獣の一種だ。
通常の狼の体長は成人の半分ほどだが、ダイアウルフは、その倍以上の巨躯に成長する。
顎が発達していて、鋭く長い牙がある。
特徴は、魔力を操り身体強化・身体能力強化ができること。魔獣と言われる所以だ。
このため、通常の狼とは比較にならないほどの恐怖を人々に与える存在なのだ。
体毛は、白色、浅黄色、柿色、灰色、黒色が混合しているが、この子狼は、黒一色。
特異な個体だから、親に見捨てられたのか?
「そもそも、まだ生まれたてだから、乳で育てる必要があるわ」
ノアの声は、追い打ちをかけるように冷たい。
「う~ん。そうですか……牛乳じゃダメですかね?」
頭をひねりながら、淡い希望を口にした。
「それは、なんとも言えないわね」と、ノアはあくまで冷静に答えた。
そのとき、マグナスの意思を感じた。
影から出たがっている。
従魔は主人と魂のパスがつながっているので、意思疎通ができる。
「マグナス!」
名を呼ぶと、マグナスは勢いよく影から姿を現した。
見れば、体が一回り小さい雌犬が寄り添っていたので、驚いた。
──ちゃっかりと、番を見つけていたのか!
そして、マグナスの意図を把握した。
番の雌は、乳房が張っている。
子どもを産んだ直後なのだろう。母乳を分けてくれるつもりなのだ。
牛よりも犬の方が狼に近いから、育ってくれる可能性は高い。
「マグナス。ありがとう」と、感謝の言葉をかけた。
ツンと上を向いているマグナスが、誇らしげに見える。
手をゆっくりと子狼の上にかざし、意識を集中させた。柔らかい光を帯びた霊気(=生命エネルギー)がほんの少し手から漏れ出し、子狼の体へと静かに流れ込んでいく。
慎重に子狼を抱き上げ、マグナスの番の横にそっと寝かせると、乳首の近くに優しく導いた。
後は、自力で飲むことを祈るばかりだ。
子狼は、しばらくの間、クンクンと鼻を鳴らして臭いを探っている。
固唾を呑んで、その様子をじっと見守った。
周囲の音が消え、時間が止まったかのような感覚が広がる。
そして、ついに乳首の場所を探りあてると、子狼はしゃぶりついた。
ほっ――と、安堵の息が漏れる。
小さな前足で一生懸命乳房をふみふみしているが、その動きはまだ弱々しい。
ちゃんと飲めているのだろうか? 心配が募る。
幸い、子狼は順調に育ってくれた。
二週間もすると、死にかけていたのが嘘のように元気に走り回っている。
マグナスの子どもたちに混じって遊ぶ姿は、やんちゃで元気があり余っている。
ある程度成長したところで、「フェロックス」と名前を付け、従魔契約を交わした。
「よかったわね。これも、あなたの日頃の行いがいいからよ」と、ノアが優しい笑みを浮かべて言った。
「そうでしょうか……?」
僕は少し照れながら返事をする。
いつもはクールなノアが褒めてくれたので、僕は顔を赤らめた。
嬉しい反面、不安もある。
ノアは、なぜ良くしてくれるのだろう? こんな僕のために……。
それが不思議でならない。
森を抜け、聖エレシア山の奥深くに足を踏み入れると、冷たい風が急に僕を包み込んだ。
日差しは木々の隙間からかろうじて差し込んでいたが、その明るさが奇妙に薄れているように感じた。まるで、自然そのものが息を潜めて僕の行動を見守っているようだ。
その時、後方からふわりと柔らかい声が聞こえてきた。
「まあ……また会えたわね」
僕はその声に振り返った。目の前には、一人の女性が立っていた。彼女の髪は漆黒に輝き、瞳も深い漆黒の色をしている――ノアだった。
だが、何よりも感じたのは、その背後に広がる不気味なほどの静寂だった。
彼女がそこに立っているだけで、森の音がすべて消え去ったように感じられる。まるで、彼女そのものが、この場所の支配者であるかのように。
「ノアさん……どうして、ここに?」
僕は警戒心を押し殺し、そう尋ねた。
彼女はにっこりとほほ笑み、まるでずっと以前から知っていたかのような親しげな目つきで僕を見つめた。
「私は、ずっとあなたを見守っているのよ」
「見守っている……?」
その言葉には、どこか懐かしさと不安が混ざり合った奇妙な響きがあった。まるで、彼女は長い間、僕の存在を知っていたかのように感じる。
だが、先日出会ったのが初めてのはず――なのに、彼女の言葉には確信が込められていた。
「ノアさんは、いったい……?」
僕の問いに、ノアは笑みを浮かべながらゆっくりと近づいてきた。
彼女の漆黒の瞳は底知れない深淵の闇をたたえ、視線はまるで僕の魂を覗き込もうとしているかのようだ。
「あなたのことは、ずっと見守ってきたのよ。ずっと……ね」
「なぜ……?」
僕の問いに、彼女はふわりと肩をすくめ、まるで自然なことのように答えた。
「あなたが特別だからよ。ルーカス……あなたの魂は、何よりも美しく、神聖で、そして力強いわ。まるで……清浄な炎のよう」
彼女の言葉は、心の奥底にまで響いてくるような強いものだった。だが、その裏には、何か重苦しいものがあることも感じ取れた。
「なぜ、僕のことをそんなに知っているんですか?」
ノアは、ふと目を伏せ、静かな声で言った。
「生まれてすぐ、私はあなたに触れたことがあるの。ほんの少しだけ……でも、その瞬間、私は知ったわ。あなたが、どれほど美しい存在であるのかを……」
その瞬間、何かが僕の胸の中で警鐘を鳴らした。
彼女は、どうしてそんなことを知っている?
どうして、生まれた時のことまで……?
だが、その警戒は、彼女のほほ笑みで打ち消された。ノアの表情は、まるで迷い込んだ子どもを優しく包み込む母親のようだ。
「でも……まだその時ではないわ。あなたに私の本当の姿は見せられない」
僕は彼女に問いかけようとしたが、言葉は喉で詰まり、出てこなかった。
彼女はもう一歩近づき、僕の手を取った。その手は冷たく、そして何か異質な力がその手から伝わってくる。
「私を信じて。いつでも……あなたを見守っているから……」
その言葉は、命令にも似た響きを持っていた。
心の奥底に何かが引っかかる感覚があったが、彼女の瞳に吸い込まれそうになる僕自身を止めることはできなかった。
まだ拙い僕には、これ以上は年上の異性の心情などはかりようがない。
ノアも口を閉ざし、もう何も語ろうとはしなかった。
ノアの美しさは、まさに完璧という言葉にふさわしい。
透き通るような白い肌、しなやかでスレンダーな体つき、そして漆黒の艶やかな髪。
彼女は可憐でありながら、儚さも漂わせている。
だが、どこか影があり、凛として近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
気高く、謹厳な教育者といった感じだ。
親しくなりたい願望がある反面、恭敬の念を覚えてしまい、一歩が踏み出せない。
僕はノアに憧れたし、それ以上の感情を抱いた。
それは恋なのか、何なのかわからない。
とにかく、好意には違いない。
彼女の姿を思い浮かべると、胸がほんのり暖かくなるが、少し苦しくもある。
歪んだ鏡に映った像のような、不定形で朦朧とした感情だ。でも、嫌じゃない。
これが恋なら、初恋だった。