アグニアの町と霊泉水
アグニアは中規模の港湾都市で、気候は温暖だ。家庭の平穏を象徴する神ネラの庇護を求めて、商人や漁師の家族が多く訪れる。
神ネラは、竈と家庭の神。竈の火は、家族の繁栄と暖かさを象徴している。
アグニアへは、ペガサスで急行すると一日で着いた。
町の背後には、火山活動の名残が残る丘陵地帯が広がる。山の麓から見える火山には、今もかすかに煙が立ち昇っていた。
町には、赤茶色の粘土と石灰岩を使った建築が多く、屋根には鮮やかな赤い瓦が使われている。
建物には、女神ネラの象徴である「炎」と「竈」を模した彫刻や装飾が施され、信仰心の高さがうかがえる。
もう夕刻なので、霊泉水の調達は明日に回して、宿をとることにする。
住民たちは暖かく親切で、町を訪れる巡礼者や旅人にも分け隔てなく接している。彼らは、泉の恩恵を受けていることに感謝し、互いに助け合うことを重んじる文化を持っているようだ。
おかげで、お勧めの宿をすぐに見つけることができた。
竈の町らしく、火を使った料理やパン作りが特に盛んだ。
香辛料をたっぷり使った魚の煮込み料理や、熱々の焼き立てパンが人気というので、注文した。
「ルーカス、美味しい! 山だと海の魚は食べられないから肉ばかりだけど、魚もいいね。一緒に来てよかったぁ」と、レベッカはテンションが高い。
見ているこちらも、何だか楽しくなった。
宿には、地熱を生かした温泉もあった。レベッカは、これにも大興奮だ。なぜ男女が別なのか、と駄々をこねられたのは困った。
家族用のプライベート混浴まで完備していたので、結局、一緒に入る。彼女は、男性へ肌を見せることへの羞恥心が全くなく、目のやり場に困った。
女性ばかりの環境で育ったせいもあるだろう。子供っぽいとも言えるが、無邪気で純粋な面は眩しくもあった。
どうしても同じ部屋がいいというので、ツインの部屋に泊まったが、興奮したレベッカはなかなか寝付けない。
そうしているうちに、女神を讃える歌声が風に乗って響いてくる。窓を開けてみると、家々の窓から漏れる暖かな火の光が見え、心が和やかになった。
宿から町の中心にある聖なる泉が見えた。今日は十六夜。泉の水面が豊かな月光に反射して銀色に輝き、神秘的な雰囲気を醸成している。
「ねえ、ルーカス。聖なる泉が月に輝いて、とってもステキ。さすがは神聖な泉だわ」
「うん、そうだね」
二人で、その光景にしばらく見惚れた。それで気分が落ち着いたのか、やっと就寝できた。
翌朝、暖かい霧が町全体を覆っていて、幻想的な光景が広がっていた。瑞兆であってほしい、と願うばかりだ。
聖水を得るための試練は、まず女神ネラの神殿から始まる。
神殿は町の中でも最も高い丘の上に建てられており、赤と金を基調とした壮麗な聖堂だ。
正面には大きな火焔の形をした金色の彫刻があり、女神ネラの威厳を象徴している。
内部に入ると、中央には大きな「聖火」が絶えず燃え続けており、巡礼者たちがその火を持ち帰るためのランプが並べられている。
壁面には、女神が竈を守る姿や、人々の家庭を見守る姿の描かれたフレスコ画がある。訪れた者は、これを見て心の軌跡をたどり、神の加護を実感するのだ。
神殿の裏には、泉の水を使った儀式の行われる広場がある。聖なる泉の水を得るには、まずここで、神官たちから祝福の儀式を受ける。
昨日、先触れの手紙を出してあるので、挨拶をする。
「聖エレシア大神殿のアルカントール、ルーカス・メルラと申します。よろしくお願いいたします」
「おお、これは聖エレシア大神殿の……。それは遠いところを、ようこそいらっしゃいました。ほかにも参加者がいらっしゃいますので、しばらくお待ちください」
参加者が集まったところで、浄化の儀が始まる。
僕を含めた儀式参加者は、神殿の入り口にある「浄化の泉」で手と顔を洗い、身を清めた。泉には、泉の下級神のアクアリスの加護が込められており、心身の穢れを祓う効果があるとされている。
浄化を終えた者には、神殿の神官から純白の儀式用ローブが手渡され、これを身に着ける。これで、参加者は「神の前にひとしい存在」となることを表している。
儀式の始まりを告げる鐘が神殿内で響く。
神官が案内し、参加者は神殿の奥にある「炎の祭壇」の前に整列した。
神殿の中央には、女神ネラの彫像が設置されており、その足元には絶えず燃える「聖火」と、「聖なる泉」から流れ込む水が併存している。この対照的なエレメントは、ネラの象徴である「火」と「水」の調和を表している。
そして、儀式の第一段階の火の祝福が始まる。
神官が女神ネラの聖火から「小さなランプ」を手に取り、参加者一人ひとりに渡した。この火は、生命の炎、家庭の安寧、そして意志の強さを象徴している。
参加者は火を灯したランプを手に持ちながら、女神に向かって自らの願いを炎の誓いとして声に出して誓う。
早速、隣りの参加者たちから、
「俺は、家族の幸せを守る」
「私は、弱者を助ける」
――といった誓いの声が聞こえてくる。
僕も誓いを声に出す。
「我、聖エレシア大神殿のアルカントゥール、ルーカス・メルラは、エレンディルのエルフ・イリスにかけられし、悪しき古代の呪詛を解呪するものなり。
清浄で純潔なりし処女神ネラよ、神聖な泉から汲まれる聖水の浄化の力をもって、悪しき古代の呪いと悪意を洗い流し給え。
世々限りなきエレシアと神々の統合のもと、実存し、 君臨する竈と家庭の神ネラを通じ、ルーカスが乞い願う。かくあれかし」
続けて、 誓いを捧げた参加者たちは、炎の行進として、ランプを手に神殿内を一周する。これは、「女神がその炎で参加者を照らし、導いてくれる」という意味が込められている。
行進中、神官たちは「家庭の調和」や「生命の繁栄」を祈る古代の歌を歌っている。その響きは、儀式の荘厳さをさらに高めている。
次は儀式の第二段階の水の浄化だ。
まず、神官が「聖なる泉」の前でアクアリスへの祈りを捧げた。この祈りにより、泉の水は参加者を浄化し、内なる傷を癒やす力を発揮する。
参加者は泉の近くで目を閉じ、自らの過去を振り返りながら「自分が抱えている迷い」や「清めたい心の重荷」を静かに口にする。
泉の水面は静かに揺れて、アクアリスがその声を聞き届けていると信じられている。
僕も実践する。
「太古の呪詛の情報は、完璧ではない。解呪する術者にまで危険が及ぶが、それでも躊躇しない! イリスさんの苦しみは、自分自身の苦しみ以上に耐え難い。僕は、是が非でも彼女を守る!」
神官が泉の水を「祝福の杯」に汲み、参加者の額や手にそっと注ぐ。この行為は、女神ネラの浄化の力を授けると同時に、参加者の魂を癒やすとされている。
水を受けた参加者は、最後にその水を少し口に含む。これは、泉の癒やしの力を自らの内に取り込み、魂の安らぎを得る行為だ。
そして、儀式の最終段階の火と水の調和だ。
儀式の最後に、参加者は聖火の前で自分のランプを掲げ、火を神殿の「炎の祭壇」に捧げる。これにより、女神への誓いを再確認するとともに、自らの意志を女神に委ねる。
同時に、神官が泉の水を少量聖火に注ぐ。水が火に触れると、静かに蒸気が立ち上り、これが「火と水の調和」を象徴している。
女神の代理として、神官が参加者に祝福の言葉を述べる。
「女神ネラの炎があなた方の道を照らし、泉があなた方の心を癒やされんことを。かくあれかし」
最後に、参加者たちは聖なる泉の水を小さな容器に汲み、自分や家族の祝福のために持ち帰ることが許される。この水は日常生活の中で使われ、病気の癒やしや家庭の調和を願うために使用される。
一般の参加者は、これで儀式は終了だ。
しかし、僕は泉の守護者アクアリス祝福を受けた特別な泉の水を得る必要がある。この場合、一般的な儀式とは別に試練が課される。この試練では、「火と水のバランスを保つ」ことが重要なテーマとなり、内面の強さと真実への覚悟が試される。
まずは、火の試練だ。
聖火の炉に入って燃える火種を取り出し、それを消さずに泉まで運ぶことが求められる。火を運ぶ間、風や火の小さな精霊が挑戦者の注意をそらそうとする。試練には集中力と忍耐が必要となる。
僕は、火種を取り出した。左の手のひらの上に乗せ。右手で風から守るようにする。
この特別の試練は、数十年ぶりということだった。だからなのか、小さな精霊たちが雲霞のごとく集まってくる。大きさは、ちょうどピクシーくらいでかわいらしい。とはいえ、この多数では、つき合い切れない。
(セレスティア、イグニータ、来てくれ)と、風精霊のセレスティアと火精霊のイグニータを読んだ。
小さな精霊たちは、久しぶりにいたずらができると意気軒昂としていた。
突然、中空に風と火の渦が生じ、二体の上位精霊が姿を現す。すると、小さい精霊たちは大混乱となった。彼ら・彼女らにしてみれば、二体は雲の上の存在だ。
特に、イグニータは、火の精霊だけに情熱的で勝気だ。ときに、独善的で暴力的になることもしばしばある。
その雰囲気を察してか、算を乱して逃げだした。
(あいつら、なんなんだよ! 人のことを化け物みてえに……)
イグニータは、その様子を見ながら不満を漏らした。
(だって、あなた。怒らせたら怖いもの。あの子たちは、よくわかっているのよ)と、セレスティアは言いにくいことを遠慮なく言う。
イグニータはしかめっ面をしたが、それ以上怒ることはなかった。ある程度の自覚はあるのだ。
ともかく、一挙に片がついて、試練らしくなくなってしまった。
セレスティアがいれば、風で火が消えるようなことはない。
そして、造作なく町の中央の泉に到着した。
泉の周囲には、白い大理石の石畳が広がっている。そこで大きな噴水のように湧き出しており、いつでも清らかで暖かい水を供給している。
泉を取り囲んで、タイムやラベンダーなどの神聖なハーブやネラの聖花とされる赤い百合が咲き乱れている。そこへ水を飲みに来る白い鳥や小さな動物たちの姿も見られ、自然との調和が感じられる。
泉の守護者、下級神のアクアリスが姿を現した。
透き通るような淡い蒼い髪が、滝の流れのように美しく揺れる。肌は白く滑らかで透明感があって、ほんのり青白い光を放っている。瞳は深いエメラルドグリーンで、見る者を吸い込むような深さがある。
ドレスは透明感のある薄い布地が波のようにひらひらとなびき、水面に反射する光を思わせる。頭部には、水晶や貝殻、珊瑚を編み込んだティアラがあり、泉の守護者としての威厳を感じさせる。
アクアリスの体の周囲は、薄い水蒸気のような光のヴェールに覆われて、ときおり周囲に小さな虹がかかっていた。
そんな優雅な姿とは裏腹に、水の試練として、真実を問いかけてかけてくるはずだ。偽りや傲慢は通用しない。
アクアリスは、穏やかに口を開いた。
「火の試練は見事でした。これまで数多くの試練をこなして、お疲れでしょう。泉の水に手を触れて、心の重荷を少しだけ預けてみてはどうかしら?」
「……ありがとうございます」
警戒感を見透かされている。向こうから先に慈悲深い言葉をかけられて、毒気を抜かれてしまった。
言われたとおり、泉に手を浸けてみた。途端に、悪いものが身体から発散するような清々しい感覚を覚える――この泉は本物だ。伊達に有名なわけじゃない……!
アクアリスが静かに言葉を紡ぐ。
「あなたは、泉の水に何を望む?」
その声は、小川のせせらぎのように優しいが、あまりに清麗だ。不用意に汚してしまうことが怖い。
「大切なひとにかけられた、太古の呪詛を解く素材にしたいのです」と、迷いなく答えた。
「太古の呪詛ですか。それは、さぞかしご苦労なさっていることでしょう?」
アクアリスは、これまでの、さらにこれからの苦労も察している様子だ。
「呪詛の正体を探るだけでも、粒々辛苦を味わいました。解呪の儀式の素材集めも手間ですが、儀式そのものにも危険が伴います。しかし、大切な人のためなら、苦労は厭いません」
大切な人のために自己犠牲を捧げることを美談だ、と思う自尊心が言いぶりに出てしまったかもしれない。
「あなたは、その人を愛しているのかしら?」
「……僕は、そう思っています」
「愛に自己犠牲は必要かしら? あなたの答えは、自己犠牲が愛であるかのように聞こえる。その答えで本当に満足しているの?
泉は、あなたの心を映す鏡でもあります。あなたが、真実を冷静に直視できないのなら、この水はただの水に過ぎません」
アクアリスは責めていないが、静かな口調で核心を突く質問を投げかけた。
それは穏やかさに包まれた言葉であるが故に、感情的にならずに心の奥底に届いた。
僕は、聡明法を修めたときのイリスの献身を、この上なく貴いものだと思った。それは単なる厚意ではなく、苦労や心理的負担という犠牲を強いるものだった。
それだけに、同等の自己犠牲をもって彼女へ報いなければならない義務感に囚われていなかったか?
「ご賢察、恐れ入ります。明確に言葉にしていなかったにせよ。そういう気持ちがあったことは、否定できません」
「あなたの大切な人は、それをどう思うかしら?」
イリスは、僕の犠牲をもって自らの犠牲に報いることなど求めていないだろう。
相手の気持ちを置き去りにして、自己犠牲を愛のごとく押し付けることは、一種の加害行為にも思える。自己の価値観で完結して満足だろうが、相手の心が見えていない。
「彼女は、僕に自己犠牲など求めていないし、期待もしていないと思います」
「相手を愛しているなら、当然よね。ただ、望まないにせよ、相手を助けるためにリスクを負わなければならないことも、ときにはある。それは理解するわ」
「ご理解いただけてうれしいです。あってほしくありませんが、今がまさにそのときです」
「協力するわ。泉の水に加護を与えましょう」
「ありがとうございます。心から感謝いたします」
「礼は不用よ。それよりも、あなたは本音を話すことが苦手なのではなくて?」
「……ご明察のとおりです」
「自己犠牲ではない愛の形を探るのなら、相手との腹を割ったふれあいが不可欠よ。できるかしら?」
「そのことは理解しているつもりなのですが、それが難しい性格でして……。争いごとも嫌いなので、自分のことがつい後回しになってしまいます。
それで損をするのは、自分だとわかっているというのに……。とんだダメ男ですね、僕は。ははっ……」
アクアリスの的を射た質問で、自分の心の限界を見せられた。自信を失い、少し自嘲気味だ。
アクアリスは、慈愛に溢れた柔らかな表情になった。
「そんなに悲観することはないわ。あなたは、まだ若いのだから、一人前になるまでに少しずつ着実に修正していけばいいのよ。
それに、争いごとを避けるのは、美徳よ。独りよがりで傲慢な男は多い。それよりも、よほどましよ」
「そう言っていただけると、気も楽になります」
彼女は、子どもを諭すような口調だった。その前は試練の場だったので、感情を抑えていたのだろう。
そして、両試練の結合で試練は完成する。
聖火と泉の水を合わせ、竈に火を灯す。火と水を調和させ、聖火の祭壇に献火と献水を行うことで、女神の完全な加護を得ることになる。
この儀式は、火(生命の力)と水(癒やしと浄化)が一つになることを象徴している。
儀式が終わると、神殿の外では町の住民たちが待っており、参加者を祝福してくれる。
住民たちはランプを灯しながら町を練り歩き、女神への感謝と祈りを捧げる。
神殿から流れ出る聖火と泉の水を象徴する光景が、町全体を包み込み、幻想的な雰囲気を生み出していた。
その光景を目にすると、何だか感慨深い。
「女神が生活の中心にあって、いい雰囲気の町だね」
「女神ネラといっても、もっと人間臭いんだけどなあ……」
と、レベッカは水を差すようなことを言う。
「ここは、女神の神秘を堪能するところだろう」と、苦情を言った。
「私には、よくわからないわ」
レベッカは、小さくぺろりと舌を出した。
「エレシュポロンの町も宗教都市だけど、陵墓の守備のために軍事へ偏っているからなあ……」
「だからこそ、ルーカスは強いんでしょう。やっぱり、雄は強くなくっちゃ」
そう言うと、レベッカは僕の背中をバシッと叩いて活を入れた。
(本当に……人竜には、かなわないや……)




