聖霊の山と人ならざる友
友達がいない僕の遊び場は、もっぱら聖エレシア山だ。
山は、それ全体が大神殿を治める大司教領とされていて、許可なく立ち入ることが禁じられている。
だが、墓戸の一族――帝室の血筋を持つ者。これは別格だ。
墓戸の一族は、聖エレシア山への自由な立ち入りが認められている。墓守という忌まれる仕事と引き換えに手に入れた特権だ。
このため、山は、あたかも僕だけの秘密の王国のようだった。
山麓には、古の時代から手つかずの鬱蒼とした広大な原生森が広がり、木々の梢が風に揺れるたびに、ざわざわと神秘的な囁きが響く。
その森はまさに大自然の宝庫。苔むす岩の上に奇妙な形をしたキノコが生え、色鮮やかな鳥たちが枝の間を飛び交う。
草むらから聞こえる生き物たちのざわめきに耳を澄ませば、そのすべてが僕を歓迎しているように感じられた。
そこに息づく動植物の神秘には、興味が尽きない。
聖エレシア山には、神秘なる霊気が満ち満ちている。それはすなわち生命の力。生けるものは皆、この霊気を吸収し、活力を得ている。
熟練した戦士は、この霊気を己が身体に巡らせて闘気となし、その力をもって常人を凌駕する強さを誇る。
魔術師たちもまた、この霊気を魔力となし、精霊や不可視の存在の力を借りて、自然の法則に干渉する。風を呼び、炎を自在に操るのも、この霊気あってのことだ。
人に限らず、聖エレシア山には無数の聖獣、精霊、妖精たちが、この高濃度の霊気を求め、集い住まう。彼らもまた、霊気を生命の源とし、この神秘の地に引き寄せられている。
彼らは神秘的な存在でありながら、この山においては当たり前のように共生しているのだ。
幼少の頃より、本来は不可視の精霊や妖精、そして死霊さえも、その姿が僕には見えていた。これは、どうやら僕の生まれ持った特異な能力のようだ。
このことは、家族も含めて、ことさらに他人へ話したことはない。
見えると知れると、彼らは興味を持って僕に絡んでくる。
だが、善と悪が入り混じった玉石混交であるので、不用意に悪霊などと目を合わせると痛い目に遭う。悪いやつほど執念深いから、やっかいだ。
そのうちに、周りに自然と集まってくるかのように、善なる精霊や妖精が、いつも僕を取り囲むようになっていた。
◆
ある日、森で伝説の聖獣ユニコーンと邂逅した。
ユニコーン――それは純潔を象徴する神聖なる獣。その額には一本の角がそびえ、全身は雪のように白い毛並みで覆われている。
体躯はサラブレッドのように細身で優雅だが、その一方で力強さをも内包していた
その優美な姿とは裏腹に、ユニコーンは獰猛な猛々しさを併せ持つ獣だ。己より巨大な猛獣にも怯むことなく、その鋭い角で戦いを挑むという。
ブルッ――と、鼻を鳴らして、ユニコーンは冷ややかに鼻息を僕へ吹きかけた。その仕草は、まるで鼻で笑ったかのようだ。
動物にまで嘲笑されるとは、不愉快極まりない。ユニコーンの挑発を受け取った僕は、唇をかみしめた。
できるものなら、乗りこなしてみろよ──眼差しがそう挑発した気がした。敵愾心が、心中にふつふつと沸き起こる。
殺し合いなら、魔術を駆使すれば勝てるだろう。だが、それではつまらない。相手が用意した土俵で勝負してこその、真の勝利というものだ。
――ならば、乗るしかあるまい。この挑戦に……。
息を深く吸い込み、内なる闘気を練り、活性化した。その力を全身へ解放し、ユニコーンの脇をめがけて疾走する。
すぐ脇の立木――その凹みに足をかけ、これを蹴って跳躍する。
ユニコーンは、一瞬驚いたように身を震わせたが、その隙を逃さなかった。
なんとかその背に飛び乗り、両腕で首にしがみつく。
ユニコーンは後ろ脚で地面を激しく蹴り上げ、体を激しく左右に揺すり、必死に僕を振り落とそうと、抵抗を続ける。
馬術の訓練では、父に相当しごかれているが、こんな暴れ馬は初めてだ。
結局、五分ともたずしてユニコーンの背から振り落とされた。僕の惨敗だ。
ユニコーンは、何事もなかったかのように、悠々と森の奥へ消えていった。その威風堂々たる姿に悔しさを覚えつつも、どこか憧れ似た感情を抱いた。
一〇日後。再び相まみえる。
今度は、一〇分ほど耐え抜いたが、やはり最後は振り落とされてしまった。
しかし、コツをつかめた気がする。
基本は、体幹をキープすること。
あとは、手でしがみつくだけではなく、足など全身を使ってバランスをとること。そう確信した。
勝負にこだわるあまり、基本がないがしろになっていた──今度こそは……。
そう心に誓った。
さらに一週間後、森の奥深く、木々の間から白い影がひらりと現れた。一本の角が月光を反射し、神々しい光を放っている。その姿を目にした瞬間、僕は息をのんだ――ユニコーンだ。
優美な体躯は、どこか夢幻的で、現実感が薄れるほどだ。しかし、その鋭い目が僕を睨みつけた瞬間、空気が一気に張り詰めた。
息を吸うのさえ重く感じるほど、空間が緊張に包まれている。
「いよいよ覚悟を決めたか……?」
僕は背筋を正し、じりじりとユニコーンとの距離を縮めた。
だが、その一瞬、ユニコーンが低い鼻息を吐き、後ろ足をぐっと踏み込んだ――威嚇だ。
突如として、その巨体が閃光のように跳んだ。空気が揺れ、地面が震える。
僕は反射的に闘気を練り、体を滑らせてユニコーンの猛攻をかわした。だが、風が背後を切り裂き、鋭い角がすぐそこにあった。
「殺す気か……⁉」
背中に冷たい汗が流れる。ユニコーンの力と獰猛さは想像をはるかに超えていた。優美な姿に隠された凶暴な本能――まさに伝説に違わぬ獣だ。
僕は息を整え、ユニコーンに向き直った。戦うしかない、そう直感した。
次に襲いかかってくる瞬間、ユニコーンの動きを見極め、闘気を全身に巡らせた。そして――
「来い――!」
ユニコーンが再び突進してきたその瞬間、僕は一気に跳躍した。
宙を舞い、ユニコーンの背に飛び乗る――瞬間、背筋が凍るほどの勢いでユニコーンが暴れ出した。
「くそっ!」
背にしがみつく僕を振り落とそうと、ユニコーンは猛烈に暴れる。後ろ足で大地を蹴り上げ、体を激しく振り回す。だが、負けるわけにはいかない。
必死にバランスを取る中、僕は何かを感じ始めた――ユニコーンの体を通して伝わってくる、強烈な生命の鼓動。それはまるで、彼が僕に何かを伝えようとしているようだった。
「友達が……欲しかったのか?」
ユニコーンは希少種で、個体数も少ないはず。
あながち、的外れではないのかもしれない。
暴れ続けるユニコーンが、突然動きを止め、僕は下馬した。
息を荒げ、額から汗がにじみ出る僕に、その神々しい瞳がじっと向けられる。
そして、ユニコーンは、ゆっくりと頭を下げ、その角を差し出した。
僕はその角に手を触れる――驚くほど滑らかで、冷たい感触。心のどこかに、深い安堵が広がっていくのを感じた。
ユニコーンには「ルナリア」と名付け、従魔契約を交わした。
厩舎に、ルナリア用のスペースも作ったが、気に入らなかったらしく、一度も使ったことはない。
普段は、自由に森を駆け回っている。乗りたいときは、呼べば、どこからともなく現れるので不便はない。
◆
ルナリアが最初の友達というわけではない。
山には鬱蒼とした森のほか、開けた草原や、色とりどりの花が咲き誇る花園が広がっている。その花園で、僕は花の妖精フレイヤに出会った。
「綺麗でしょう。気に入ってもらえると嬉しいわ」
その声はまるで風が囁くかのように穏やかで、同時にどこか胸を締め付けられるような響きがあった。
振り向くと、彼女がいた――フレイヤ。彼女は、そっと僕の左腕にしなだれかかっていた。
突然の接触に驚きつつも、僕は彼女を見つめた。
人間の腕ほどの大きさで、肌は透き通るように白く、まるで光そのものが形を成したかのようだった。
長い金色の髪は太陽の光を反射し、背中には花びらのような羽が柔らかく揺れている。
頭には花冠があり、それは光に照らされ、色とりどりの輝きを放っていた。
「もちろん気に入ったさ。まるで天国にいるようだ」
その言葉を口にした瞬間、僕の心でふと、何かがざわめいた。
彼女の存在は、ただ美しいだけではなかった。どこか――得体の知れないものが胸を支配するような感覚がある。
フレイヤは静かに笑うと、小さな唇を開いて歌い出した。その歌声は柔らかで優雅で、聴く者の心を癒すようだった。
彼女の緑の瞳に見つめられると、まるで全ての疲れが溶けていくような気がした。
「あなたは特別よ、ルーカス」
彼女が囁くように言ったその瞬間、胸の奥に新たな感情が生まれた。
フレイヤが語りかける声色には、ただの友人や仲間という以上の響きがあった。
彼女が僕をどう思っているのか――その意味をはかりかねた……。
それからしばらくして、別の妖精にも出会うことになる。
「ははっ! フレイヤがまさか人間と仲良くしているなんて、まったく傑作だね!」
その声は突然、空中から響いてきた。
見ると、フレイヤの知り合いらしい小さな妖精が、軽やかに宙を舞っていた。
人間の拳ほどの大きさで、体は真珠のような光沢を放ち、まるで滑らかな彫刻のようだ。
彼女の二本の角は水晶のように透き通り、瞳は鮮やかな青色で、どこか神秘的な力を感じさせる。
彼女は「ルル」という名の妖精だった。
「ルーカスは特別なのよ。この清浄な霊気を感じないの? 私にとって、癒しそのものなの!」
フレイヤが少し意地悪な笑みを浮かべながら言った言葉に、なんとも言えない気持ちに包まれた。
彼女の瞳に映る僕は、単なる「特別」ではない気がしていた――それは、どこか重く、圧し掛かるような感覚だった。
「へえー、どれどれ……」
ルルは、ピコピコとぎこちなく飛ぶと、楽しげに笑いながら、僕の頭の上に乗っかった。
「おおっ! こ、これは……」と、ルルは驚きの表情を浮かべた。
「やっとわかるなんて……あなた鈍いわね」と、フレイアが皮肉るが、ルルは気にしていない。
「決めたっ! ここが、あたしの特等席だ! はっはっはーっ!」
ルルが僕の頭上で堂々と宣言する。
「ええっ! 勝手に決めないでくれよ。これはこれで、少し鬱陶しいんだけど……」
ため息をつきながらも、ぼくはルルを追い払うことができずにいた。
「なーに。慣れれば、どうということはないさ。あたしは、とても貴重な妖精なのよ。感謝なさい。はっはっはーっ!」
そう言うルルの無邪気さに笑みがこぼれる一方で、僕の視線は、自然とフレイヤに引き寄せられていた。
僕にとっては、彼女が癒しだ。だが、それだけではない。彼女の存在が与える影響は、癒し以上のものだった。
「フレイヤ……君は僕に何を見い出しているんだ?」
胸が高鳴る。
彼女が歩けば、森は色鮮やかな花々を咲かせ、風は心地よく吹き、全てが彼女に従うかのようだった。
彼女は美しく、そして何よりも僕の心を揺さぶった。
彼女を見つめていると、心が甘くしびれ、妙な苦しさを感じる。
それはただの癒しではない。もっと別の、心の奥底をかき乱すような感覚――それは恋なのか、あるいは何か別の感情なのか……?
まだ薄っぺらな僕の人間関係からは、理解が及ばない。
◆
人外の友達は少しずつ増えていく。
山で森を散策していたとき……ふと足を止めた。
──んっ? ここは、さっき通った場所だ……。
「クックックッ……」と、微かな忍び笑いが聞こえた。
気配で居場所の察しはつく。
あんなに悪意をむき出しにしては、見つけてくれ、と言っているようなものだ。
ひそかに闘気を練りながら、迷ったふりをして、少しずつ近づいていく……不意を突いて突進すると、案の定、あっけなく捕まえることができた。
予想したとおり、いたずら好きな妖精、ピクシーだった。
ピクシー・レッドという混乱状態を引き起こし、旅人たちを道に迷わせることで有名だ。
「ちくしょう! 放しなさいよ! 放せってば!」
手のひらほどの小さな体。よく見ると女の子のようだ。
緑色のドレスを着ているし、ちょこっとした胸のふくらみもある。
肩までの長さの金髪は、花やリボンで飾っている。尖った耳には小さなピアスが輝いていた。
まるで、弱い子を虐めるガキ大将のようで、いやな気持ちになった。女の子なら、なおさら可哀そうだ。
「いたずらしないと約束したら、放してやるよ」
「わかったから! 約束するっ!」
なんだかヤケクソな言い方で、信用ならないが……まあ、いいか。
僕は、軽くため息をついて、手を緩めた。
彼女はふわりと空中に舞い上がり、小さな手で自分の服を整えた。だが、その顔はどこか不満げだ。
「もうっ! 人間の男の子って、乱暴なんだからっ!」
彼女は、ぷりぷりと怒っている――反省の色が見えない……。
「いたずらした張本人が、どの口で言うのかな?」と、軽く脅しをかける。
「ひえっ! あたし、小さくて弱いから。簡単にプチッって、潰れちゃうんだからね」と、彼女は怯えた。少し薬が効き過ぎたかな……。
「君、名前は?」
「名前? ないよ。ピクシーは種族名だし、あたしには名前なんてないの。あんたが付けてよ!」
(なんとも、手間のかかる……)
その無邪気な言い草に、
ふっ――と、軽くため息が出た。
僕は頭を巡らせる……ちっちゃいし……女の子で……心の中で浮かんだ名前が、自然と口から漏れた。
「……カリーナ。君の名前は、今日からカリーナだ」
「カリーナ? ふーん……?」
彼女は難しい顔をしている。
「古語で『かわいい』っていう意味なんだけど……」
「なんだ、悪くない名前じゃない!」と、彼女は満足そうにうなずき、小さな手を腰に当てると胸を張って得意気に笑った。
従魔契約は交わしていないが、名付けだけでも、それなりの効果はある。
カリーナを花の妖精フレイアたちに紹介すると、すぐに仲良しになった。
カリーナは、いたずら好きで、ひょうきんで、一緒にいても飽きない。
冒険好きで、ときどきふらっといなくなっては戻ってくる。
そんなことで、彼女の靴は、いつも泥で汚れている。
僕は、苦笑いしながら、靴の泥を拭き取ってあげるのだった。
友達になった妖精の中で、一番僕に懐いたのはカリーナだ。
冒険から帰ってくると、いつも僕に付きまとってくる。森の外まで付いてくる始末だ。
一人では怖いが、僕が一緒なら大丈夫らしい。
彼女の姿は霊感のある者しか見えないが、そうそういるものではない。
「へえー! 人間の町って、面白そうなものがいっぱいだね!」
彼女は興味津々で町を見渡している。
「お店の売り物を勝手に食べたりするなよ」と、僕は釘を刺す。
「えっ? 売り物って?」
──おいおい、そこからかよ……。
僕は軽くため息をついた。なんとも、手のかかりそうなやつだ。