アストラリス宮殿、再び
霊泉水は、神聖な泉から汲まれる水で、呪いや悪意を洗い流す浄化の力を持つ。これらの素材のいくつかは聖エレシア山で手に入るのではないかと、僕は予想した。
アストラリス宮殿へ向かうことにする。
まだ、去ってから一年もたっていないが、無性に懐かしい。一方で、レベッカやエレシアに逢うのも、なんだか照れくさい。
何と言っても帰ればいいのか?
「ただいま」というのも、おこがましいだろうな……。
ペガサスのゼファーに騎乗して、聖エレシア山の外輪山を越えると、遠くにペガサスに騎乗した人物が見えた。それは、猛スピードで飛んでくる。
「ああ、やっぱりルーカスだぁ。お帰りなさい」と、満面の笑みで迎えてくれたのは、レベッカだった。
「……ただいま」と答える声が、ぎこちなくなってしまった。
「なに緊張してるのよ。らしくないなあ……」
レベッカには屈託がない。連れて行けなかったことは、まったく根に持っていない様子だ。
「まずは、母さんのところへ行くわよ」
「ああ、もちろんだとも」
エレシアとの対面も少し緊張した。
しかし、彼女のオーラに触れた瞬間、心までもが浄化された。緊張していたのが嘘のようだ。
「其方は此方の番なれば、心恥づかしきことはあらず。よろづ自由に来べし」と、慈愛に溢れた言葉をかけれられた。すべてお見通しのようだ。
「番」という言葉に違和感があったが、尋ねられなかった。
来訪の趣旨を告げてお願いをすると、レベッカを呼んで、あれこれ手配してくれた。
レベッカが、早速助言してくれる。
「まずは、霊泉水よね。この山にも神聖な泉はあるけれど、母さんの霊力が宿っているだけで番人はいないの。一番いいのは、アグニアの女神ネラ神殿にあるアクアリスの泉じゃないかしら」
「確かに、有名な泉だね。わかった。霊泉水は、そこに取りに行こう」
女神ネラは、主要一二神のうちの一人で、かまどと家庭の処女神だ。
そして、アクアリスは泉を守護する温かい性格の下級神であり、火と水が融合した特別な存在として崇拝されている。
アグニアは、気候が温暖な中規模の港湾都市。家庭の平穏を象徴する神ネラの庇護を求めて、商人や漁師の家族が多く訪れる。
「ただ、アクアリスの祝福を受けた霊泉水を得るためには、試練が必要らしいの」
「えっ⁉ そうなのか……」
「でも、ルーカスならきっと大丈夫よ。女神ネラ神殿の試練だから、怪物退治なんかじゃないだろうし……」
「そうか……どうかな……?」
僕は気にかかるが、レベッカは、まったく意に介さない。それに当てが外れたのも、ちょっとがっかりだ。
「あとは、何だっけ?」
「歴時花なんだけど、神聖な山の険しい崖なんかに生えてるらしいんだ」と言って、レベッカに絵を見せた。
歴時花は、時の流れを象徴する香草で、燃やすことで空間を清め、呪いの時空的影響を和らげるものだ。
「ああ、山の中腹で生えてるのを見た気がする。でも、どこかと言われても困るなあ……」
群生する花ではないだけに、広大な翠緑の森の中から探し当てるのは、骨が折れそうだ。しかし――、
「んんっ……?」
レベッカと会話をしていて、何かが閃きそうな気がした。喉元までデジャヴが出かかっているような……妙な感覚が……。
「どうしたの?」
「何かを思い出しそうなんだけど……う~ん……」
「やーねぇ。なにボケちゃってるのよ」
レベッカの目を気にしつつも、なんとか考える。
「神聖な山の……険しい崖……」
あえて声に出してみる。
「ああっ! 思い出した!」
聡明法の第一の修行場、天に向かって突き立つ剣のような岩場。そこに生えていた。そんなすれ違いがあったとは!
「どうしたのよ? 大きな声を出して」
「完全に思い出したんだ」
「それは、よく思い出したわね」
「なにせ、修行をした岩場だったからね」
場所はよく覚えているし、ゼファーに乗ればひとっ飛びだ。
「あとは、何かしら?」
「純黒の山羊の血なんだけど、普通の山羊から極稀に生まれるものなんだ。とはいえ、当てがなくて……」
純黒の山羊の血は、伝統的に呪いを打ち払う儀式に使われる素材で、邪悪な力を封じ込める象徴だ。
「あれっ? そういえば、宮殿の牧場にいたような……黒い山羊よね?」
「ああ、そうだけど……?」
――そんな都合のいいことが?
「とにかく行ってみましょう」
レベッカの案内で宮殿の牧場へ向かう。
見たところ、かなりの種類の動物を飼っている。山羊もいるようだ。
「レベッカ様。どうかされましたか?」
牧場で飼育を担当している女性が、用向きを聞いてきた。
「ねえ、ここに黒い山羊がいたわよね」
「純黒の山羊でございますか? 儀式用に何頭か飼育しておりますが……」
今度は期待していなかっただけに、驚いた。
「やっぱりいたでしょう」と、レベッカは得意満面だ。
「ああ、ビックリだよ」
「ルーカスが、純黒の山羊の血が必要なの。一頭融通できないかしら?」
「それであれば、何の問題もございません」
こうして、純黒の山羊に関しては、あっけなく片がついた。
「あとは?」
「そうだなあ、真夜中の月光を吸収した水晶なんだけど、これは自分で何とかするよ」
月の光を宿した水晶は、和解の儀式の中心として使われる。
「なに言ってるのよ。それこそ、アストラリス宮殿の真骨頂よ。塔の屋上に星の光を集める施設があるの。それを使えば、最高の水晶ができるわ。それに、ちょうど今夜が満月じゃない」
「わかった。じゃあ、使わせてもらうよ」
そして夜。
アストラリス宮殿の屋上には、一二個の巨大な凹面鏡が円形に並んでおり、それぞれが特定の星の光を追尾して円の中央に集める施設が設置されていた。
これなら、真夜中の月光の光をさぞかし効率的に集めることができる。単純に月の光に当てるよりも遥かに強力な水晶が出来あがるだろう。
こうして、真夜中の月光を吸収した水晶も手に入れることができた。
残る素材は、霊泉水、黒曜石の短剣、火炎石(火のルビー)、そしてイリスの涙を残すのみとなった。
いずれも聖エレシア山の外で、霊泉水はアグニアの町、黒曜石の短剣はルクリア海のミロス島の遺跡、そして火炎石は火竜王の秘宝で、その住処であるイグニストラ山にある。
懸念されるのは、火炎石だ。伝承によると火竜王が秘宝として守っているという。これをどうやって手に入れるかだが……。
思い悩んでいたところで、レベッカが思いもよらないことを言った。
「火竜王は、母さんの娘の子どもらしいの。母さんが、私が名代で行ってこいって言うんだけど、どうかな?」
「それは願ってもないことだよ。でも、すんなり受け入れてくれるかどうか……?」
火竜王の母は、山から出ていった数少ない女性の人竜ということだ。ならば、エレシアへ親愛の情は持っているだろう。
しかし、その子供となると別だ。一緒に暮らしたこともないだろうし、血縁があるとはいえどうなのだろう?
「う~ん。火竜王は母さんの孫で、ずいぶん年上だけど私の甥なのよね。でも、竜はハーレムメンバーかどうかが大事だから、外の家族は興味ないかも」
「ええっ! それって、ダメなやつじゃないかな?」
「さすがに火竜王ともなれば、母さんの偉大さは知っているだろうから、なんとかなるわよ。
それに、いざとなったらルーカスが力に物を言わせればいいんだから」
「いやいや、そんな簡単な話じゃないだろう。相手は火竜王だよ」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。危なくなったら、ルーカスは私が守るから」
こうして、レベッカの軽いノリで、火竜王の住処であるイグニストラ山へは彼女が同行してくれることになった。
だが、一番難易度が高いと予想されるのが火炎石だ。これは最後にしたい。
「じゃあ、霊泉水と黒曜石の短剣を手に入れたら、迎えにくるよ」
「ええっ! なに遠慮してるの。私は、いずれルーカスのものになって、あなたのハーレムに入るんだから、家族みたいなものよ。まさか、忘れてないわよね。あの約束……!」
もちろん忘れてはいない。下手な態度に出たらボコボコにされてしまうかも……? 実力的にはレベッカが上だ。人竜の生態を、まだ理解し切れていないし……。
「ありがとう。なら、ほかの素材集めも協力してくれるかな?」
と言いながら、歓迎を込めたほほ笑みを浮かべたつもりだ。ちょっと、ぎこちなかったか……?
「もちろんよ。ルーカスと二人きりで山の外へ出るのは、初めてね。楽しみだわ」
レベッカは根が素直なので、人の裏の表情を読むようなことはなかった。
「ああ、僕も楽しみだよ」と、安心して相槌をうつ。
「ねえ、呪いを解きたい人って、ルーカスの一番なの?」
気持ちが緩んだところで、歯に衣着せぬ質問が来て、飛び上がらんばかりに驚く。だが、とにかく顔にでないように踏ん張った。不純な動機がないだけに、答えが難しい。
「一番かどうかはともかく、大きな恩のある人だ。死んでもらっては困るんだ」
「そうなんだぁ。会ってみたいな。将来は一緒にルーカスのハーレムに入るんだろうし、序列がどうなるかも気になるんだよね」
不穏な言葉が聞こえたが、今は追及するときではない。あえてわかったように会話を進める。
「序列って?」
「ハーレムメンバーは、姉妹みたいなもの。寵愛を求めて競い合うけど、絶対に相手を傷つけたりしない。お互いを尊重し合うの。皆、ボスの雄が愛する雌だからね。
序列一位の雌は、そのコミュニティを取り仕切る重要な役割があるのよ」
「そうなんだね……」
自分の将来の家庭生活がどうなるのか、見当がつかなくなった。しかし、今はそれで悩んでいる暇はない。
僕とレベッカは、まずは第一の目的地のアグニアの町へ向かった。




