叡智への旅路と、少女たちの想い
妹ソフィアの甘え方が、前よりひどくなった。毎夜、ベッドに潜り込んでくる。
メイドから耳打ちされたところだと、毎夜、ひっそりと泣き濡れていたという。僕は、彼女につらく当たることができない。もしや、これも母さんの作戦なのか?
夜着の布地は薄いので、体のラインがよくわかる。一一歳になったソフィアは、一年前より、ずっと女らしさが増していた。
正式な定めはないが、世間だと、女は一二歳頃が成人年齢。もう来年だ。そんなお年頃なのだ。
血がつながっていないこともあって、気分は複雑だ。だが、妹という認識に大きな変化はない。妹として愛おしい気持ちはあれど、ふしだらな欲望はちっとも湧かない。兄妹とは、そういうものなのか? 思い直してみると、不思議な感覚だ。
ただ、兄に甘えながら無防備に振る舞う姿に、どこか違和感を覚える自分がいるのも確かだった。
「ねえ……兄さま。ちょっとだけ腕枕して」
「えーっ。腕が痺れるから、たいへんなんだよ」
「ちょっとだけでいいから……ねえ……」と、ソフィアは一段と高い甘え声でねだる。
「もう、しょうがないなあ……」
腕を差し出すと、ソフィアは、二の腕の上にそっと頬を乗せた。
「えへっ。兄さまの匂い……」
さすがに、これは先が思いやられる。
「ソフィアさん。いいかげんに自立できないと、お嫁にいけないよ」と、少し口調を強めた。
「いいの。だって……」と、ソフィアは声を潜め、けれどもはっきりとした口調で続ける。
「あたし、絶対に兄さまのお嫁さんになるんだから」
彼女は、小さな頃からずっとこの調子だ。意味を理解してのことなのか、言葉の背後にある本心を測りかねた。
軽くため息が出そうになる。
「またそんなことを言う……。妹が兄と結婚なんて、おかしいよ」
少し突き放すようにそう言うと、ソフィアは子猫のように頬を膨らませた。
「だって、本当だもん」
理解が及ばないが、彼女の心中では、すでに確定事項のようだ。理屈ではなく、信念? のようなものなのだろう……。
すねた顔がかわいくて、僕はまた、それ以上キツい言葉を吐けなかった。
もうしばらくは、このかわいさを堪能するのも、兄の特権というものかもしれない。
◆
養父アレクサンドロスの許しを得て、僕は進学を決意した。行き先は、帝都バシレイオンにあってコームルス帝国内最高学府として、帝国叡智アカデミー。
帝国随一の知識と文化が集う学府の教授や学生は、学問を志す者にとって頂点に君臨する存在だ。
養父が示唆してくれた未来の道筋――神官になるという目標も頭の片隅にはあったが、それ以上に、純粋に知識を求めてこの学び舎の門を叩きたかった。
はっきり決めたわけではないが、卒業後は神官を目指すことにはなるだろう。
メルラ家は、おそらく僕の生涯の居場所ではない。
入学年齢は規制されていないが、おおよそ一四歳程度が目安とされている。まず二〇歳頃まで基礎科目を、その後に専門科目を学ぶ。
入学は秋。聖エレシア山で一三歳を迎えた僕に残された期間は、一年半弱だ。
入学試験は、大学の教養科目で学ぶ文法、修辞学、弁論学、算術、天文学、幾何学、音楽の七科目。まずは、どの程度の準備が必要か、めどを立てておかねばならない。
「ミーナ」
「はっ! 若様」
黒い髪と瞳を持つ少女が、どこからか影のように姿を現わした。歳は一〇代後半くらいで、東方系のエキゾチックな顔立ちだ。紺色の頭巾を被り、忍び装束を着ている。
ミーナ・エスポジートは、奥深い森林に根拠を持つ「影の一族」という少数部族の出身。影の一族は、諜報活動、情報かく乱から破壊活動、暗殺まで、裏で秘密裏に行う。エスポジート家は、代々墓戸の一族に仕えている家門だ。
「帝国叡智アカデミーの過去の入試問題を集めてくれないか」
「若様の仰せのままに」
ミーナは優秀だ。翌々日には、過去一〇年分の入試問題と模範解答を入手してきた。
「さすがに、仕事が早いね。ありがとう」
「お誉めにあずかり光栄に存じます」
仕事柄、感情を表情に出さないミーナが顔を伏せた――照れているのか?
「これからも、よろしく頼むね」
「はっ! 身命を賭しまして!」
問題を眺めて拍子抜けした。想像していたよりも、だいぶ難易度が低い。これなら、受験勉強をするまでもないな。
コミモテノス聡明法を完遂して、記憶力が極限まで増進された僕は、ぜひやってみたいことがあった。陵墓附属図書館の蔵書の読破だ。入学前に集中して取り組むことにする。
図書館の重厚な扉を開けると、古びた木の香りが漂ってきた。
僕は一歩踏み入れ、静寂の中で本を手に取った。ページをめくるたびに、情報が脳内に流れ込んでくる。その勢いは驚くべきもので、慣れるにつれて加速度的に速くなっていった。ページをめくる手が忙しくなるほどだ。
次々と本を読み進めるうちに、フッと気づいた。入ってくる情報が、見ているページを追い越している⁉
僕は思いいたって、本を閉じた。その状態のまま、意識を本に集中する……。
やはりだ! 本を見なくても、情報が入ってくる。
――これが、コミモテノス聡明法の威力なのか?
さらには、書架に入ったままの状態で、本の情報を読み込んでいく。しかし、見上げる高さの書架を一列終わったところで、頭に熱を感じ、少しふらついた。情報量に脳がついていけなくなったのだろう。こどもの知恵熱みたいなものか?
椅子を並べると、その上へ横になり、二〇分ほど仮眠すると落ち着いた。
そんなことを繰り返していく。
「兄さま、遅いよー! もう夕ご飯だよ。みんな待ってるんだから」
ソフィアが呼びに来た。もうそんな時間か……。
それからも、毎日午後は図書館へ入り浸った。慣れてくると、情報を取り入れる速度は日増しに速くなっていく。
そして一週間後。一フロアの蔵書を完読した。伝承によると、下の階へ行けるようになるはずだが……。
ガコンと音が響き、下の階への扉が開いた。その先に螺旋階段があり、降りていくと下の階へたどり着いた。大量の蔵書の洪水が目に映る。
また、同じ作業の再開だ。これがいつまで続くのか?
次第に鈍化はしているものの、情報を取り入れるスピードは上がっていく。三日で一フロア、一日で一フロアとなり、一日で二~三フロア進めるようになった。このくらいで、限界に近づいているようだ。
われながら、膨大な記憶力には呆れる。苦労したかいがあったというものだ。
だが、記憶することと、内容を吟味・理解することは別物だ。これはゆっくりやることにして、差し当たり記憶に専念する。
一カ月ほど過ぎて、イリスが家を訪ねて来た。
扉が開かれる音とともに、金色の髪と緑の瞳を持つ少女が部屋に飛び込んでくる。
「ルーカス! もう、あなたって人は……!」
イリスは頬を膨らませ、あからさまに不満げな顔を僕に向ける。
「ちっとも村に顔を見せないなんて、ひどいんじゃない? 私をこんなに放っておいて、何していたの?」
その言葉に、僕は苦笑を返すしかなかった。
図書館へ夢中になって、他のことが、ないがしろになっていた。言われてみて、反省した。
「ごめん、イリス……大学に入る準備で忙しくてさ。図書館にこもってたんだよ」と、さりげなく言い訳をする。
「図書館? まあ、勉強熱心なのはいいけど――聡明法を完遂したから、それっきりなんて、冷たいのね。私のことなんか、どうでもいいのかしら?」
突き刺さるような視線に、返す言葉を失う。
咄嗟に埋め合わせを考えた。
「悪かったよ。じゃあ、明日はエレシュポロンの町を案内するね」
「うん、お願いね。放っておかれたら、寂しくて泣いちゃうから」
養父のアレクサンドロスから突き刺さる視線が痛い。
普段のイリスは穏やかだし、外見も可憐で儚げだ。そんな幽けき少女に慕われているのに、放置するとは――男の風上にも置けない! 視線が物語っている。
対して、養母のエレナの表情は固い。心中で、まだイリスの評価が定まっていないのだろう。差し当たり、ポジティブではない、といったところか?
そもそも息子を奪われる母親に、ネガティブ以外の感情はあり得るのか? しかも、養母さんの場合、特殊だからなあ……。
イリスとは関係なく、僕は帝都バシレイオンの大学へ行くことを決めてしまった。そうしたら、また長く家を空けることになるわけで……考え始めると憂鬱だ。
「はは……」
答えを見いだせない僕は、意味不明な愛想笑いを浮かべるしかなかった。
翌日。イリスを案内して、エレシュポロンの町を巡る。
大きな町ではないが、聖エレシア神殿を詣でる巡礼者が立ち寄るため、ゆかりの土産物屋や宿屋があって、それなりの賑わいがある。
金色の髪は陽光を反射して輝き、深い緑の瞳は宝石のような澄んだ光を放つ――イリスの姿は、町に現れた瞬間から人々の視線を集めた。
衣装は質素だし、化粧も何もしていないが、美しさの格が違う。
まるで絵画から抜け出してきた美の妖精のようなその美貌に、通りすがる人々は、誰もがさりげなく目で追っている。
そんな周囲の反応に気づいていないのか、それとも慣れきっているのか……? 気にする風でもなく、イリスは町の様子に興味深げな瞳を輝かせながら歩を進めていく。
町の住人は、違った意味での好奇心で、イリスに目を輝かせている。
養子の事実は伏せられていて、住人にしてみれば、僕は領主の長男で若様だ。それが、見知らぬ妙齢の女性と連れ立って、町を散策している。それも、とびきりの美少女ときた。
――んんっ! 若様の婚約者候補なのか?
そんな心の声が胸に刺し込む。が、それにかまっていては気疲れしてしまう。これに蓋をするのも一つの経験だ。
イリスは、人間の町への物珍しさから、あちらこちらを興味深く眺めている。
イリスが目を留めたのは、アクセサリーの店。よりによって、リリア因縁の店だった。
「ねえ、ルーカス。かわいいアクセサリーがいっぱいだよ。迷っちゃうなあ」
「イリスの髪は月の光ように輝いていて、神秘的だから、お月様の形の髪留めが、きっと似合うよ」
イリスは、うつむき加減に視線をそらした。
「そう……かなあ。お月様みたいなんて、おおげさじゃない?」
「そんなことは、ないよ」
ちょっと意外だった。感じたままを素で言っただけなのに、イリスは、口説き文句のように感じたようだ。なんだか、きまりが悪い。
「おう! ルーカスじゃねえか」
突然、大声をかけられたと思ったら、レオンだった。一年見ない間に、さらにたくましくなっていて、うらやましい。
「なんだ、レオンか。驚かせないでくれよ」
「なんだじゃねえよ。久しぶりなのに、つれないな」
そう言う間も、レオンは、イリスを値踏みするように、横目でチラッと視線を投げている。
「ルーカス。どちら様かしら?」
「ああ、こいつはレオン。僕のはとこだ」
「まあ、親戚の方なのね」
「……といっても、遠い親戚だよ。レオンのおばあちゃんが、おじいちゃんの妹なんだ」
「私、イリスといいます。よろしくね」
と言いながら、イリスは、花が咲くように優雅なほほ笑みを浮かべる。
「あ、ああ……こちらこそ……よろしくお願いします」
レオンは、イリスの閑雅な品格に圧倒されている。
その後、イリスの噂は、瞬く間に町中を駆け巡った。
――優雅なエルフの美少女を射止めるとは! さすがに、墓戸の若様は違う。
そのまま、イリスは僕の将来の妻ということが、町の暗黙の了解となった。
町の住民は、イリスのことを、こう影で呼び始めた。
「若夫人」と。
僕は、そのことを全く知らない。
イリスは、いつのまにやら、すっかり町になじんでいる。




