アストラリス宮殿との別れと、人竜の掟
光陰矢の如し。春が近づいてきた。
ある日。エレシアに言われた。
「そろそろ潮時かな。これより上続けばヴェラが嫉妬に狂ひぬ。やつ怒鳴り込みくるうたてしもしれん」
「えっ! それは、どういう? ヴェラとは、戦争と知恵の女神ヴェラ様のことですか?」
「さらなり。さうじみに自覚なしとは、ヴェラも哀れかな。其方には、山ほど祝福与へられたらずや」
確かに、他人へ付与された精霊の加護や神の祝福はわかりやすいが、自分のこととなると客観的に見ることが難しい。だが、エレシアが言うなら真実に違いない。
そろそろ下山も可能な気候になりつつある。
半年足らずの短い期間であったが、アストラリス宮殿で過ごした日々は、とても有益だった。将来の基盤固めができたと言ってもいい。
僕は、下山することを決断した。
いよいよ出立の日。
戦乙女たち、英雄たち、宮殿の使用人たち、そしてエレシア本人までもが見送りに来てくれた。
「皆さん。お世話になりました」
言った途端、故郷を去るような言いようのない淋しさに襲われ、目が潤んだ。
それが切っ掛けになったのか、レベッカが声をあげて号泣した。うつむいた顔から、涙がポタポタと落ちている。
戦乙女たち、英雄たち、宮殿の使用人たちにも伝染し、グスリと涙ぐむ音がこだまする。
「レベッカ。山を降るるは自在なり。降らまほしくば、己の意思にて降りたまへ」
エレシアが、いつになく慈愛に満ちた声で語りかけた。レベッカは、とたんに当惑顔になった。助けを求めて姉たちを見渡すが、誰も応えない。彼女は、オロオロするばかりだ。
見ていた僕は、気の毒になった。僕が、もし人竜だったら、どうするか?
求婚するのは雄の方だ。雌は、気に入らなければ全力で抵抗するしかない。少しでも躊躇して隙が生じれば、雄はそこに付け入る。
レベッカ一人で決断させるのは酷だと思った。ここは、人竜方式で行かせてもらおう。
「僕は、レベッカが欲しい。だから、アストラリス宮殿から攫っていく。嫌なら全力で抵抗してくれないか?」と、人竜方式の求婚の言葉を吐いた。
この一言に彼女は驚倒し、瞳孔散大した。
彼女に近づくが、硬直したように立ちすくんでいる。頭へポカリと軽く拳骨を落とした。
「ルーカス。痛いよー」と言いながら、彼女は僕の胸にヘロヘロなパンチを放った。ちっとも痛くない。
――本気で戦ったら、まだレベッカの方が強いと思うんだけど……。
僕は、レベッカを強引に抱きしめる。レベッカは、まだ戸惑っている。
「母さん。私、ルーカスに攫われちゃうけど……いいのかな?」と、レベッカは、自信なさそうにエレシアに問う。
「其方拒まざらば、此方は止めず。そは人竜の掟なり」
エレシアの言葉は厳しいが、情愛の温もりが込められている。
レベッカは、泣きべそをかきながら、微苦笑した。
「強い雄に攫われちゃうのは、弱い雌の宿命だよね……」
母エレシアに対する言い訳なのか、自分に言い聞かせているのか……。
レベッカは、唇をかみしめると、武装姿に転じた。身にまとう銀色の甲冑には、太陽の模様がちりばめられ、その輝きは、金髪で金の瞳の彼女の優雅な雰囲気をいっそう際立たせている。
「ルーカス。私に勝って」
「ああ。なんとかやってみるよ」
レベッカは、全力で光の剣を振るった。剣が輝き、空を裂く閃光となって僕に迫る。その一撃には、太陽のような熱と重みが宿り、受け止めた腕が痺れる。
二撃目――彼女の剣の軌跡が光の弧を描き、僕の剣を弾き飛ばす。
三撃目――鋭く切り裂かれた風圧が頬を掠め、背後の大地を抉る音が響いた。
「これが……戦乙女の力……!」
限界を超えた僕の身体はついに崩れ、片膝をついた。その瞬間、光の剣を振りかざすレベッカが、一瞬だけ動きを止めた――最後まで勝負をつけなくとも、もう結果は見えている。
「ごめん……レベッカ……」
エレシアの娘たちは、いわば半神だ。僕が数カ月修練したところで、かなうはずがなかったのだ。増長して醜態をさらした自分が、情けない。
レベッカは、剣を静かに下ろし、ふっと息を吐いた。その金色の瞳は揺らいでいるようで、どこか覚悟を決めたようでもあった。
「いいの……ルーカス。あなたはきっと、もっともっと強くなる……。そう信じてるわ」
一瞬の沈黙……。
小さく笑い、震える声で彼女は続ける。
「そのとき、私を攫いに来てくれる?」
言葉に込められた期待と不安が、剣よりも鋭く胸に刺さるのを感じた。
「ああ。いつになるか見当もつかないけど、精進するよ」
結局のところ、戦乙女としての彼女たちの強さは、遥か高みにあることを思い知った。稽古をつけてもらっていたときは、よほど加減してくれていたのだ。
「ルーカス。待っているから……」
レベッカの顔が憂愁をたたえている。自責に心が耐えられない。
「わかった。じゃあ、レベッカ。僕は行くよ」
「うん……」
「アストラリス宮殿は、常に開かれたり。ときじく恋しきに来べし」
「ありがとうございます」
エレシアの言葉が、胸に響いた。彼女は、恋人であり、母であり……男にとっての女の原型なのだろう。彼女の慈悲が、無償の愛が……その鮮烈な印象は僕の心に刷り込まれ、忘れようがない。
――別に、永遠の別れというわけじゃない……。
背後に広がるアストラリス宮殿の輝きが、遠ざかるたびに小さくなっていく。星空を抱くその荘厳な姿は、僕にとって第二の故郷そのものだった。
無性に胸が詰まり、後ろ髪を引かれる。
(いつか、もっと強くなって、胸を張って戻ってこよう。そのときこそ、この宮殿にふさわしい存在として……)
揺れる思いを胸に、アストラリス宮殿を後にして一歩ずつ山を下りていった。一度も振り返らずに。
◆
僕は、欲をかくことにした。
天馬のゼファーに騎乗して行けば、あっという間に下山できるが、あえて徒歩で山を下る。せっかく聖エレシア山の上まで登ったからには、帰りがけの駄賃として、使えそうな怪物たちを従魔にするのだ。
グリフォン、サイクロプス、マンティコア、フェニックス、キマイラ、サラマンダー、バジリスク、ヒュドラ、アラクネ、ティラコレオ、サーベルタイガー、ニグルムジャガー、エラスモテリウム、セラティスヴァイパー、そしギガントサーペント……など。
苦しめられた怪物の数々だが、瞬殺とまではいかないまでも、楽勝だった。
アストラリス宮殿での修行の成果を確認できた。僕の生命エネルギーが強まったことで、マグナスとフェロックスの強さも、格段に増していた。体格も一回り大きくなっている。
道中で、ナンフと出くわした。
「あらっ! あなた生きていたの」
「おかげさまで、なんとかね」
「私なんか、何もしていないけど?」
「君と会話できたことは、僕にとって、かけがえのない癒やしだったから」
「それもそうね。私みたいな高貴な妖精にしてみれば、当然のことよ」
鼻息を荒くしながら、小さな胸を張っている姿が微笑ましい。思わず目を細めた。
突然、森の中から激しい風が吹き荒れたかと思うと、白い影が一直線に僕へ駆け寄ってきた――ルナリアだ!
「おいおい、ルナリア……!」
小さな鳴き声を漏らしながら、激しく頭や鼻を摺り寄せてくる。その懸命な動作には、どこか狂おしいほどの愛しさと安堵の感情が滲んでいた。
「ごめん、ごめん。悪かったよ。心配をかけたね。寂しかったんだよね」
僕は首元に手を回し、思う存分撫でてやった。
ルナリアは時折、短い嘶きをあげながら、喜びを全身で表現している。その光景に、思わず口元が緩んだ。
ルナリアが満足するまで、小一時間かかった。
そこからは、ルナリアに騎乗して、イリスの村へ向かう。
仮の修行小屋が見えた。小屋に手を突いて、項垂れながら、黄昏れている少女がいた。イリスだ。
物音に気付いて僕を発見すると、目を大きく見開き、瞬く間にその瞳に涙をためた。そして、全力で駆け寄ってきた。
「ルーカス……ルーカス……」
僕もルナリアから降りて、イリスに駆け寄る。
イリスは、勢いよく僕に抱きついてきた。それを受け止め、こちらからも抱き返す。
彼女は、僕の胸に顔を埋め、声をあげて啼泣した。
「ルーカス……バカっ! どれだけ心配したと思ってるのよ!」
声は震え、その小さな体が僕の胸の中で嗚咽とともに揺れている。
「冬になっても帰ってこないから……本当に死んじゃったのかと心配したんだから!」
その言葉が胸に刺さる。僕は頭をかきながら、彼女の背中をゆっくりと撫でた。
「ごめん、イリスさん……心配かけて、本当にごめん」
僕を小さく叩きながらも、彼女は涙声で続ける。
「もう、二度とこんな思いさせないでよね! 絶対にだから!」
「わかったよ。とにかく聡明法は完遂したから。これもイリスさんのおかげだよ。心配かけて、ごめんね」
「本当……なの? じゃあ……何で……すぐ帰ってこなかったの?」
イリスは、すすり泣きながら聞いてくる。
「それが……完遂したものの、死にそうになっちゃって……そこを山の上にある村の人が助けてくれて……。でも、冬になって下山できなくなったから、村でお世話になっていたんだよ」
「本当に? そんな山の上に村があるなんて、信じられないわ」
「あったからこそ、僕は生きているわけなんだけど……」
イリスは、小首を傾げている。ゴクリと唾を飲みこみながら、これを見守った。
「まあいいわ。ここで言い争いをしても不毛だし……とにかく、伯父さんの家で休むといいよ」
「ありがとう。すまない」
「水臭いわよ。今さら」
それから、イリスの伯父さんのアルヴィンと叔母さんのミーリエルや村の人々に謝り倒した。
アルヴィンの好意で村へ一泊する。
エレシュポロンの僕の家へは、村の人が一報を入れてくれることになった。
夜は宴会となり、根掘り葉掘り聞かれた。
あまりに途方もない経験だっただけに、上手に言い抜けるのに苦労した。特にアストラリス宮殿のことは、大っぴらにはできない。
翌日。ルナリアに騎乗して、エレシュポロンの自宅へ向かう。
例の花園で、難しい顔をしたノアが、仁王立ちで僕を射すくめた。
急いでルナリアから降りて、ノアのもとへ向かう。
「無事帰ってきたのね。あなたは特別だから信じてはいたけれど、まず真っ先に教えてほしかった。結局、あなたの一番は、あのエルフなのかしら?」
「いや……下山して最初に会ったのが、彼女だったから……」
ノアの鋭い瞳が僕を射抜くように見つめていた。静かな声で、それでも感情を押し殺したように言葉が紡がれる。
「信じていたわ。でも……信じていても、心配という感情は拭えないものよ」
いつも冷静な彼女の瞳が、一瞬だけ揺れる。それがかえって、心の奥に秘めた感情を如実に伝えていた。
「ノアさん……ごめんなさい。あなたにまで、そんな思いをさせてしまって……」
すると、ノアは静かにほほ笑む。そこには、どこか母性すら感じられた。
そして、いつもの気高い雰囲気をまとうと、優しく抱きしめてくれる。
「いいのよ、ルーカス。あなたは帰ってきてくれた――それが、全てだから」
ノアから解放されると、それまで遠慮していたピクシーのカリーナが勢いよく飛びこんできた。
「ルーカス様のバカあぁぁっ!」
というなり、グズグズと泣いている。
さんざんなだめたが、やはり落ち着くまで小一時間かかった。
そうして、ようやく自宅にたどり着いた。
とにかく、会う人会う人に謝り続ける。たいへんな労力だが、自業自得だ。
母エレナと妹のソフィア、ヘレネー、カサンドラと弟のアレスは、瞼を泣き腫らしていた。父のアレクサンドロスまでもが涙ぐんでいた。
自分は養子だが、こんなにも愛されていたのかと痛感した。




