世界樹の精霊と試される絆
ゼファーとの空中戦闘の訓練は、単なる技術の向上にとどまらない。翼と剣が交わるたびに、僕たちは互いの心を深く理解し、絆を深めていった。
空中戦闘の修練には、戦乙女たちの力が欠かせなかった。彼女たちは、僕とゼファーに対して惜しみない技術と知識を授けてくれた。
「ゼファーと一緒に空を翔るあなたの姿……どこか私たち戦乙女と重なって見えるの。いつの間にか仲間になった気がして嬉しいわ」
レベッカはそう言いながら、満足げにほほ笑んだ。
だが、空中戦闘の実戦は甘くない。
ゼファーの速度や動きを完全に把握するだけでなく、自らの魔術と剣技を組み合わせ、目まぐるしく変化する状況に対応しなければならなかった。
「ルーカス! 遅いわよ、そのタイミングじゃ敵に読まれる。もっと直感を信じて、次の一手を先読みして!」
鋭い声が空に響き渡った。
「甘い! その動きじゃ、まだ読まれるわよ!」
と、指摘したのは、雷の魔術を操るレイリアだ。鋼の盾を構え、戦場を見渡すその姿は、まさにリーダーそのものだった。
僕にとって戦乙女たちとの稽古は、想像を超える挑戦の連続だった。だが、その中で得られる教えは、どれも貴重で大きな意味を持っていた。
特にゼファーとの連携技術は、この訓練を通じて飛躍的に向上した。彼の動きと僕の意志が、まるで一つの流れとなるように調和し始めていた。
「風を読むだけじゃなく、流れを作るのよ!」
と、指摘してくるのは、風の魔術と剣技を駆使するマルセラだ。彼女の教えは、戦術そのものを根本から考えさせるものだった。
レイリアの鋭い助言と、マルセラの戦術的な指導。その一つ一つが、僕とゼファーの戦闘スタイルを形作り、次第に洗練されていくのがわかった。
だが、問題が一つ。冬場にあって、訓練のために度々リーダを引き抜かれた群れは、餌の確保に苦労していた。これではリーダーたるゼファーの立場が悪くなる。
その解決策を考えあぐねていた矢先――、
「お困りのようね」
深い翠緑色の髪と、エメラルドのごとく輝く瞳を持つ女性が、穏やかなほほ笑みを浮かべて立っていた。
その緑のローブには、葉や花が編み込まれた優美な装飾が施されている。
その姿はあまりに優雅な気品に満ち、しばし言葉を失った。
「あなたは……いったい?」
「私は、木の精ドリュアスのシルヴァナというの。そこに立っている大きな木の精よ」
と、彼女が指さす方角を見ても、一瞬理解できなかった。なぜなら、遠近感が狂って見えたから……。
それほどの大きさ――完全に雲を尽き抜けていて、梢はまったく見えない。あの巨大な樹木の……?
しばし茫然とした後、ようやくその意味を理解する。
「まさか! 世界樹の精ですか!」
「そんなに驚かなくてもいいのに。ただ大きいだけの木の精だから」
にこやかな彼女は、権威を笠に着るような様子は全くうかがえない。
「そのシルヴァナ様が、どんなご用でしょうか? もしや、僕を助けていただけると?」
「わたし、あなたに惹かれてしまったみたい。あなたに尽くせることがあれば、それが私の喜びなの。でも、自然の調和を乱すことはダメよ」
「それならば、お言葉に甘えて。ゼファーの群れに、餌の在りかを教えてほしいのですが……可能でしょうか?」
「そんなことなら、お安いご用よ。世界中の森の植物たちはすべて、私の目となり耳となるものなの。まして、聖エレシア山なら、私の庭みたいなものよ」
「ありがとうございます。では、よろしくお願いいたします」
シルヴァナは、無邪気なほほ笑みを浮かべた。
「言ったでしょう。その前に……あなたが自然と調和できることを示しなさい。ただ力で制する者は、自然に拒まれる。あなたが選ぶのは、破壊か――それとも調和かしら?」
シルヴァナの言葉とともに森全体が静寂に包まれ、異様な緊張感が漂う……。
直後、木々がざわめき、風が低く唸った。
ゴーッ! 嵐のときのような猛烈な葉擦れの音が恐怖を誘ったかと思えば、森の木々が集まり始めた。
それが、やがて人形を成して厖然たる樹の巨人の姿となった。その全身には蔦が絡み、無数の花が咲き乱れている。その姿は心が和む自然とはまるで違う。大きさといい、猛烈な葉擦れの音といい、荒ぶる自然そのもののに感じる。
――あれは? 森のゴーレム……⁉
無機物ではなく、植物という有機物でできたゴーレム。世にも珍しい存在は、シルヴァナに従う森の守護者といったところか。
樹の巨人は、僕とゼファーへ向けて、大股で闊歩してくる。
その前の森の木々は巨人を避けるようにグニャリとしなり、左右に分かれて道を開けている。あたかも森の海が裂けたかのようだ。
「どうしろって言うんだよ!」と、愚痴をこぼさずにはいられない。
シルヴァナは、調和を見せろと言った。だが、このような荒ぶる存在と、どうやって仲良く折り合いをつけろというのか?
逡巡している間にも、樹の巨人は迫ってくる。戸惑っていたら踏み潰されてしまう。
まず、巨人を覆う蔦がうねうねと動き回り、僕とゼファーは絡みつかれそうになった。
(急場しのぎで、目先の脅威だけでも排除しなければ……)
やむなく黒鉄の剣、黒炎を抜刀して構える。
まず、指呼の間に迫った蔦を、薙ぎ払った。
だが、この攻撃は巨人ばかりか、周囲の森をも挑発する結果となった。
巨人を覆う蔦のみならず、周囲の森からも蔦が明確な殺気をもって僕とゼファーヘ押し寄せる。
さらには、森の木へ近づくと、鋭い杭のような棘が猛烈な勢いで生えてきて串刺しにしようとしてくる。
そればかりか、巨人を覆う花からは、毒の花粉が漂ってきた。
そして、巨人本体も俊敏さが増し、踏み潰そうとしたり、殴りかかったりと本格的に攻撃を仕掛けてきた。
巨人の攻撃を避け、黒炎と風刀の魔術で、ひらすら矢継ぎ早に押し寄せる蔦を薙ぎ払い続ける。森の木の棘による不意打ちを警戒しながら……。
しかし、突破口が見つからない。これでは消耗戦だ。集中力が途切れたら、やられる。
ふと、火で森を焼き払ってしまいたい衝動が頭をもたげる。だが、それは絶対に「調和」ではない。「破壊」だ。
(力ずくで勝とうとしてもダメだ……シルヴァナが見たいのは、力の証明じゃない。自然と調和する心……)
僕を見つめるゼファーの瞳に気づいた。彼を従えたときの記憶が頭を過る。そして閃いた。
――風を読むんだ! あのときのように……。
僕はゼファーに騎乗し、とともに風を読み、巨人の動きに逆らわず、その流れを利用して突破する戦術を取ることにした。 巨人の攻撃が当たる寸前に、それが巻き起こす風に乗って回避するのだ。
巨人が攻撃しようと大きく腕でを振った。ゼファーの翼が、その風の流れに乗る。その動きに合わせて、黒炎を引いて、戦闘の準備を整える。
敵意ではなく、流れに身を任せる――まるで大樹の葉が風に揺れるように……。
目論見どおり、巨人の腕は当たる寸前で空振りに終わる。ゼファーはふわりと宙に舞い、巨人に絡まった蔦も届かない。
周囲の森も巨人と同調していて、ゼファーの動きにはついていけていない。
黒炎の出番はなく、暗赤色の光が風に沿って芸術的な自然の曲線を描く。
巨人の攻撃はしだいに穏やかになり、やがて動きを止めた。
すると、森全体が穏やかな光に包まれた。
森の中から湧き出るようにシルヴァナが姿を見せる。
「あなたは力を持ちながらも、力に溺れなかった。風とともに舞い、森を敬う――その心こそが、私が求めた答えよ」
それが、試練の終わりを告げる言葉だった。
星明かりの下、ゼファーに乗って森の上空を駆けた。背景に風と光が流れ、まるで僕たち自身が森の一部になったようだった。
「ゼファー――僕たちは、ただ戦うだけじゃない。守るために、ともに風となるんだ」
ゼファーは、それに応えるように上昇気流へ乗り、天高く舞った。
シルヴァナが森の植物たちを通じて餌場を教えてくれたおかげで、ゼファーたちは苦労することなく必要な場所を見つけることができた。
天馬たちも心得ていて、いかに空腹でも餌場の植物を食べ尽くすことはしない。それは、餌場の消失を意味することを、本能的に理解しているのだ。
シルヴァナには、生態系の「調和を乱すな」と言われたが、注意するまでもなく、天馬たちは賢明だった。
シルヴァナの存在は、まるで森そのものが形を成したかのような威厳と慈愛に満ちていた。彼女の助力がなければ、ゼファーの群れも僕自身も、この試練を乗り越えることはできなかっただろう。その恩は、言葉に尽くせぬほど深い。
ドリュアス――その存在については、人間の間で諸説がある。一説にはただの木の精霊とされ、また一説にはニュンペーという下級神の一種だとされる。
ニュンペーについては、恋愛に奔放で男性に容易く心を許す存在だとする伝説もある。そのため、裸体画の題材として描かれることが多いようだ。
僕は、後者の説は、男の身勝手な妄想の産物だと解釈していた。
ところが、礼を申し上げようと再びシルヴァナを訪ねたところ、彼女から思いもよらぬ提案を受け、言葉を失った。まさか、後者の伝説が現実となるとは! ――まさに意表を突かれた。
すでに対価を得ている以上、それを拒むのは礼を欠くことになる。
僕が慣れ親しんでいるエレシア教では、一夫一妻制が基本だ。単純に複数のパートナーを相手にする行為は、人倫にもとると感じてしまう。
だが、シルヴァナといい、エレシアといい、パートナーは一人に限るという倫理観はないらしい。
とはいえ、奔放と言えるほどハードルが低いわけではなく、彼女らなりの確固とした基準がある。そのお眼鏡に敵った男性のみがパートナーとなれる。エレシアの場合は、彼女が発する霊気の試練を耐え抜いた者と単純だが、シルヴァナの場合は……?
とにかく、存在の大きさに鑑みれば、選択の主導権は彼女らにある。
僕は結局、彼女の望みを受け入れるほかはなかった。
シルヴァナとの行為――魂の交わりは、エレシアのときと変わりなかった。
シルヴァナはエレシアほどではないものの、破格の霊気をその身に宿していた。世界樹の精霊ならば、それは当然のことだろう。
要するに、普通の男では到底かなわない存在ということだ。強引に事に及べば、おそらく干乾びてミイラになってしまう。
だからこそ、エレシアに鍛えられた僕へ興味を抱いたのだろう。
「何かあれば、植物のあるところで呼べば、駆け付けるわ。いつでも待っているからね」
「わかりました。その言葉、しかと胸に刻みこんでおきます」
シルヴァナは、変わらぬ優雅なほほ笑みを浮かべている――けれどその瞳の奥に宿る得体の知れない凄みに、僕は背筋を震わせずにはいられなかった。
シルヴァナの導きにより、ゼファーの群れは新たな餌場を確保し、森は再び平穏を取り戻した。そして僕は、ゼファーとともに次なる目標へ――空中戦闘のさらなる鍛錬へと歩を進めることになった。
ゼファーとともに空を駆ける日々が続く中、僕の中には次第に焦燥が芽生え始めていた。訓練を重ね、技術を磨いているにもかかわらず、戦乙女たちの洗練された動きには、まだ遠く及ばないと痛感するのだ。
「焦らないで、大丈夫よ」と、レベッカがほほ笑みながら肩に手を置く。その温かい声には励ましの気持ちが込められていたが、今の僕には、それに応えられる気がしなかった。
僕の胸中に芽生えたのは、強烈な願望だった。
戦乙女たちの影をただ追いかけるのではなく、いつか肩を並べ、彼女たちと対等な力を持ちたい――そんな思いが日に日に強くなっていく。
「ルーカス――あなたは、その膨大な霊力に秘められた力を無意識に恐れて、使いあぐねているのね」
ふいにそう告げたのは、リリアナだった。その瞳には深い夜空のごとき静けさが宿り、まるで僕の内面を見透かしているようだった。
「僕が……力を恐れている?」
自分でも思いもよらない言葉に、僕は思わず聞き返した。
「そう。あなたは確かに強さを求めている――けれど、本当の力を解き放つ覚悟を持っているのかしら?」
リリアナの言葉は鋭く、心の奥に突き刺さるようだった。
「それは……」と言いかけて、僕は言葉に詰まった。
リリアナの問いは、僕が見て見ぬふりをしていた自分自身の弱さを抉り出すようだった。
リリアナは、冷たい夜風のように冷静な視線を僕に向けていた。
そこには、嘲りも、期待もない。
ただ静かに、真実だけを見極めようとする光が宿っていた。
その重い沈黙を破ったのは、レベッカだった。
「大丈夫よ」と言って、僕の手をぎゅっと握る。
「私がいる限り、ルーカスを誰にも傷つけさせないんだから」
彼女の声には、幼さを残しつつも強い決意が滲んでいた。
気持はありがたいが、レベッカの微妙な距離感には、正直、頭を悩ませている。
今後、どう接するべきか――レベッカとの関係をこれ以上複雑にしたくない一方で、彼女の期待を裏切るのもまた心苦しかった。僕の胸中は、どうにも晴れないままだった。
僕は、そっとゼファーのたくましい背に手を置いた。
その暖かな体温と、羽ばたきの振動が、今の僕にとって唯一の支えのように思えた。




