墓守の継承者 ~双頭の従魔と心の闇~
「ルー坊は才能があるし、優秀じゃな。真面目に修練もしておるし、墓戸の一族は、安泰じゃて」
カッ、カッ、カッ――と、僕、ルーカス・メルラの 祖父ヤニスは、顔に刻まれた深い皺を歪ませ、乾いたしわがれ声で笑った。
その笑い声は、山の谷間に響き渡り、深い翠緑の森に潜む悪い妖精が囁いたかのように、空気を重くする。
祖父はかつての名声を誇りにしているが、その哄笑の裏に漂う皮肉は、僕の心を暗くした。
司令官の職の座を父に譲った祖父は、僕に魔術の奥義を伝授してくれている。外見や話し方は老人そのものだが、実力は、いまだに健在だ。
品のない感じがして眉をひそめそうになるが、これを押し留めて無表情を装う。
いつものことだし、慣れたものだ。とはいえ、心の中ではやはり、何かが引っかかる。
「優秀……か……」
祖父が去り静寂が訪れた後、一人残された僕は、忍び音で独り言ちた。
祖父の言葉に、悪気はない。だが、手放しでは受け入れられなかった。
わかっている。
僕は、生来、極端に気が弱い性格で、何をするにも惰弱だ。
あの聖母のように優しい母でさえ、近づいて声をかけるには勇気がいる。
武術や魔法の修行、そして学問も、叱責されるのがいやで、流されるままに行っているだけ。
祖父の指示に素直に従うのも、反抗する勇気がないからだ。
その結果が「優秀」という評価。
気がめいるばかりだ。
自分も男であるから、物語の英雄譚などを読むと、胸は高鳴り、心が躍る。
だが、読み終わって、空想の世界から現実に戻ったときの空虚感といったらない。
今のままでは、いけないと思うものの、何をどうしたらいいのか、雲をつかむようでわからない。
主体性の欠如に幻滅する。
それでは、僕は不幸なのだろうか? いや、そんな考えは贅沢なのだ。
もっと深刻な不幸にあえぐ人々は、世の中に数え切れないほどいる。
食うに困る下層民や奴隷、異なる容姿だけで差別や迫害を受ける獣人種など、いくらでも例は挙げられる。
彼らに比べれば、僕の悩みなど些細なものだ。
このような状況下で、僕は周囲に迎合し、ただただ流れに身を任せる生活を送っていた。
◆
一〇歳となったある日。魔法の修養のときに、何の前触れもなく厳しい声で祖父は言い放った。
「ルー坊は、もう一〇歳。そろそろ従魔の一匹や二匹は従えられるじゃろ。やってみなさい」
従魔の召喚術は学んでいるが、正直自信がない。
意を決して率直に尋ねる。
「悪魔エリゴモリーの眷属あたりで、よろしいですか?」
「何じゃと?」と祖父の眉に皺がより、その後黙り込んだ。
(ちょっとレベルが低かったかな……?)
だが、否定されなかったので、早速詠唱に移る。
まごまごしていて、叱られたら大変だ。
朝の冷たい空気が漂う山腹の荒野の中央に立ち、深く息を吸い込んだ。指先がかすかに震え、冷や汗が額を伝う。
意を決して、呪文を唱え始めた。
「悪魔エリゴモリーよ、我が声を聞け。
我は汝の友であり、汝は我が盟友である。
我が敵に恐怖と混乱をもたらす機会に、その凶悪な音を響動かせよ! ――」
地面に魔法陣が浮かび上がり、淡く不気味な暗赤色の光を放ち始めた。
周囲の空気がぐっと冷たくなり、息をするたびに胸に冷気が刺さるような感覚が広がる。
魔法陣の中心から、黒い霧がゆっくりと立ち上り、まるで何か得体の知れない存在が目覚めるかのように、濃く、重く、空間を埋め尽くしていく。
その霧は、影のように広がり、やがてあたり一面を包み込んだ。
頭上の木々はざわめき、鳥たちは鳴き声をあげて飛び去った。
何かが異常だ――ただの召喚ではない……。
大気が唸り、土の臭いが湿気とともに漂い始める。
「――鳴り響け、鳴り響け、鳴り響け! 響き渡り、我が力に従え!
今ここに汝が眷属を遣わし、我が従魔とせしめよ! ――」
言葉が発されるたび、周囲の空気がさらに重くなる。
魔法陣の光はますます強まり、地面が震えるような音を立てた。
召喚されるはずの眷属は、ただの冥界の犬。ただそれだけの力を込めたつもりだった。
しかし、何かが違う……何かが……僕は違和感を禁じ得ない。
「――世々限りなきエレシアと神々の統合のもと、実存し、 君臨する冥界女王へサロアを通じ、ルーカスが命ずる。喚起!」
ますます濃くなった黒い霧が渦巻き始める。僕は、その異様な光景に眉をひそめた。
霧は通常の召喚とは比べものにならないほど濃く、冷たい闇のように広がっていく。
そして、その中心から、恐ろしい低音の唸り声が響いた。
「え……?」
瞬間、息をのんだ。初級レベルの召喚獣ではない。
――これは何か、違う……。
霧の中から現れたのは、ただの冥界の犬ではなかった。
巨大で、漆黒の毛並みを持つ双頭の犬――それは、頭が三つある地獄の番犬・ケルベロスの輩にほかならない。これは完全に上位の冥界の獣だ。
双頭の犬の瞳は、闇に燃える赤い炎のようで、二つの頭が鋭い牙を剥き出しにしている。
「くっ――何で……?」
僕は後ずさろうとするが、恐怖で足が動かない。喉が渇き、心臓が激しく打ち始める。
こんな恐ろしい獣を召喚するつもりではなかった。自分の中で何かが暴走しているのだ。恐怖が僕の全身を駆け巡った。
グルーッ! ――と、威嚇の唸り声をあげながら、双頭の犬は僕にじりじりと近づく。
二つの頭が、それぞれ異なる音で唸り、口からは熱い息が立ち上っていた。
惰弱な僕は、如何せん、こんな化け物を凌駕する覇気を持ち合わせていない。
僕を睨む双頭の目には、従魔になろうという融和的な心は皆無に見える。
目の前に立つ僕を格下とみて、支配しようとする野性の欲望だけが宿っている。
従魔は、召喚して終わりではない。
従えるには、主人としての絶対的な強さを示し、服従させたうえで、契約を結ばなければならない。しかし……
「まずい……!」
必死に逃れようとしたが、足がすくんで動かない。
次の瞬間、双頭の犬は、殺気とともに襲いかかってきた。
咄嗟に体をひねり、かろうじて牙の一撃をかわす。
「くっ‼」
次の瞬間、重く鋭い前足の一撃が風を切って僕の左肩を襲う。爪が肉を抉り、鋭い痛みが背中にまで走った。
肩口から熱い血が噴き出し、裂けた衣服の隙間を伝って滴り落ちる。
痛みは鋭く、胸が激しく上下し、世界が一瞬歪んで見えた。
だが、その痛みで意識が朦朧とした刹那――心の中に潜んでいた奇妙な感情に気づいた。
墓戸の一族として、格闘術や武術はひととおり叩き込まれてはいる。
「くそっ! 剣でも槍でも武器を持ってくるべきだったか!」
魔法の訓練と思い込んでいたせいで、何の備えもしていなかった。
なんと浅はかな……「後悔先に立たず」とはこのことだ。
忍び寄る死の影を感じる。同時に、首筋のひやりと撫でるような感覚が全身を覆った。
だが、その感覚が――不思議なことに――意識の深層の本能めいた異様な感情を呼び起こした。
「逃げるな……戦え……」
心の奥底から声が聞こえるようだった。
恐怖にすくんでいたはずの体が、急に熱を帯びていく。
もはや、己の肉体を武器に戦うしかない。
とはいえ、死線を潜るような戦闘は初めて。訓練では、ここまで追い込まれ、緊迫することはなかった。だが――、
「急所は、人間であれ犬であれ同じだ!」
今度は、こちらから攻める番だ。
次の瞬間、自然と体が動いていた。思考よりも先に体が反応し、双頭の犬の急所に向かって拳を叩きつけていく。
二つの頭の片方の顎を捉え、骨が折れる音が響く。双頭の犬が呻き、後退した。
「はは……!」
気づけば、僕は薄ら笑いを浮かべていた。
奇妙な愉悦の感情が心の底から湧き上がる。こんな危機的状況にもかかわらず、極限の命のやりとりに燃え上がる戦意を抑えることができなかった。
「もっと……もっとだ……!」と、心の中で何かが叫んでいた。
僕は、それに従うかのように、再び双頭の犬に突進した。拳と足で、繰り返し獣の急所を狙う。
双頭の犬は呻き、血を流しながら地面に倒れたが、僕の攻撃は止まらない。犬をいたぶることが楽しくてしょうがない。
「何やってるんだ……!」と、頭の片隅で、理性が警告を発する。だが、その声は徐々に遠のいていく。
双頭の犬は、ついに完全に動かなくなった。
はぁ、はぁ――と、荒い息をつきながら、血まみれになったその姿を前にして、僕は立ちすくんでいた。
体は痛みを覚えているのに、心は高揚感で満たされていた。
「……僕は……どうして……?」
ゆっくりと血まみれの拳を見つめた。そこには、自分が思いもよらない力――そして残虐な本性が潜んでいた。
僕は膝をつき、犬の首に手を伸ばした。
残虐に戦い、相手をいたぶることに快楽を覚えた自分がいたのだ。
僕は身震いした。戦いに勝利したはずなのに、心の中で芽生えたこの感覚が恐ろしかった。
「僕は……いったい、何をしているんだ……?」
その問いに答える者は誰もいなかった。
勝利の代償として芽生えたものは、力だけではなく、僕自身の心の闇でもあった。
血まみれ冥界の犬は、息も絶え絶えに、よろよろと服従のポーズをとった。
我に返り、すぐに従魔契約の詠唱に入った。
「冥界の犬よ、我が声を聞け。
汝の名はマグナス。我は汝との契約を誓う。
汝は我が命令に従い、我は汝の忠誠に報いる。
汝の名を我が心に刻み、我の名を汝の魂に刻め。
我らは一心同体となり、永遠に分かたれぬ。かくあれかし」
これで「マグナス」と名付けた冥界の犬が従魔となった。
マグナスは、先ほどまでの凶暴さを完全に失い、手のひらを返して、クーンと甘えたような声を上げている。
「わかったよ。今、傷を治してやるから」
マグナスを治癒魔術で回復させると、緊張の糸が切れたのだろう──左肩が痛み、思わず顔をしかめた。
顔をしかめながら、その傷にも手を当てた。これも魔法で治す。
これで終わりだと、祖父を見ると、心ここにあらずといった様子だ。
「お爺ちゃん?」
祖父は、はっと突然我に返った。まるで夢から覚めたかのようだ。
「やはり、ルー坊には才能があるようじゃの。だが、これに慢心せず精進しなさい」
その言いぶりは、心がこもっていないようにも感じる
──なんだかんだ言って、まだ未熟者ということか?
いつもは、早朝から朝にかけて魔法を修練し、続いて武術の鍛錬をする。
それが終わったら、自宅に帰り正餐(昼食)になる。
そして、午後は自由時間であり、各々の趣味をして過ごすのが貴族のライフスタイルだ。
今日は、従魔の関係で手間取り、正午の正餐の時間に遅れて帰宅する。
自宅の前では、母エレナと妹ソフィアが落ち着かない様子で待っていた。
母は、僕の姿を認めると、一目散に駆け寄ってきた。
「ルーちゃん! ケガをしたんでしょ! 大丈夫なの?」
傷は治したものの、服が血で汚れてしまっている。それで心配をかけてしまった。
申し訳ない気持ちで、いっぱいになる。
「ごめんなさい。従魔を従えるのに手間取ってしまって……。
でも、傷は自分で治したから、何ともないよ。少し血が出ただけだから……」
「それなら、いいけれど……剣術の鍛錬にも来なかったっていうし、なかなか帰ってこないから、母さん心配したんだからね!」
有無を言わさず、母は僕を抱きしめる。
胸に押し付けられた乳房の感触が、何とも言えずなまめかしい。もう、そういうことに敏感なお年頃なのだが……僕は。
母は、家族のひいき目を差し引いても美人だ。
金髪と緑の瞳で、スレンダーな体形なのに、胸は大きい。
そんな母は、幼少の頃からずっと僕を溺愛している。こんな寡黙で不愛想な子どものどこがいいのか? 謎だ。
脇からは、ソフィアが僕の腕にすがり、泣きじゃくっている。
「兄さま……心配させないで。あたし……絶対に兄さまのお嫁さんになるんだから……いなくなったら許さないのよ」
ソフィアは、幼い頃から異常なまでに僕に懐いている。
いまだに風呂へ一緒に入ったり、眠れないといっては僕のベッドに潜り込んだりしているほどだ。
彼女は、もう八歳──あと一、二年もすれば兄離れしてくれるのだろうか?
僕は、社交性が皆無だ。
対して、妹のソフィアは、好奇心旺盛で社交的。友達が多い。
町での噂話などは、もっぱら彼女から仕入れている。
彼女には、懐かれる一方で、コンプレックスも抱いていた。
茶髪で茶色の瞳の彼女は、母に似て顔立ちは整っている。
ふくよかな体形で、美人というよりは、かわいくて愛嬌がある印象だ。
騒動が収まり、正餐が終わると、父アレクサンドロスが厳かに言った。
「今日は従魔を従えたのだろう。どんなやつか見せてみなさい」
父は、黒髪と青い瞳を持ち、筋肉質な体格をしている。まさに騎士そのものの風貌だ。
性格も正義感が強く、頑固だ。まさに古き良き騎士の典型だ。
剣術や馬術の腕前は、すべて父から叩き込まれたものだ。
墓戸の一族が代々使う武器は「黒鉄の剣」。それは、死霊魔術で強化された一族の象徴ともいえる剣だ。
さすがに、室内で見せるにはマグナスは大きすぎたので、家族そろって広い庭へと出た。
「マグナス!」と、僕が呼ぶと、影からマグナスが瞬時に現れた。
どうやらマグナスは、影に自由に出入りできるようだ。
その光景を目にした瞬間、祖父以外の家族全員が唖然と立ち尽くしていた。
僕は、その理由を、にわかには理解できなかった。
だが、マグナスの存在といい、影に出入りできることといい、どうやら異例ずくめだったようだ。
◆
メルラ家は、古来から墓戸、すなわち墓守に任ぜられた一族だ。帝国古来の支配階級パトリキの有力氏族の一つ・コルネリウス氏族の枝族に当たる。
コームルス帝国には、その誇りたる聖エレシア山がある。周辺の山々を圧倒する高さで、山頂には宇宙の創成とともに生まれたとされる人竜エレシアが住まうと信じられている。
人竜は、普段は人の姿を保っているが、必要に応じて真の姿である巨大な竜へと変化する。その強大な力は計り知れず、神すらも凌駕するとも言われている。
山麓には荘厳な聖エレシア大神殿があり、帝国の国教であるエレシア教では、最高位の格付けとされている。
神殿の背後に「王家の谷」があり、そこに歴代皇帝の陵墓がある。
陵墓に納められた豪華な副葬品は、盗賊や、戦乱期においては軍隊にすら狙われる。
墓戸の一族は、これを死守しなければならない。
このため、墓戸の一族は、寡兵をもって敵を打ち破る武術・魔法や戦略を発達させてきた。
魔法には、禁忌とされ、他家には許されていない死霊魔術も含まれている。
これにより、歴代皇帝とともに殉死した兵の霊などを召喚し、戦いのために使役するのだ。
メルラ家は、聖エレシア大神殿を抱えるエレシュポロンの町を含むエグラティア地域を統治する司令官の職を中央政府から任されている。