天狐の試練と選ばれし者(2)
そんな思いに耽っていると、再び天狐の声が響いた。
「力は手に入れき。されど、その力を何がために使ふ?」
突然、周囲の景色が変わる。
夢の中に送り込まれたような感覚があった。夢だと自覚しながら見る夢、明晰夢に近い。夢をある程度コントロールできるというが、そこは違う。いわば、自分が主人公の夢演劇か。
そこでは、圧倒的な力を手にした僕は、無双状態だった。敵対する者は武力で屈服させ、それでも抵抗する者は、残虐に抹殺して見せしめにする。そして、恐怖政治を敷いて皇帝となった。
選り抜きの美女を侍らせ、美食の限りを尽くし、多くの芸術家のパトロンとなり、贅沢、放蕩の限りを尽くす。文明は爛熟し、帝国は栄光の絶頂に至った」。自らの欲望のままに生きている未来だった。
Cras amet qui nunquam amavit, quique amavit cras amet.(愛したことがない者は明日愛し、愛した者も明日愛せ)
古代に書かれた美と愛の女神 エリスの賛歌の一節を思い出した。この詩は、春の訪れや自然の豊かさ、愛のエネルギーを表現したものだ。愛の普遍性、 季節の循環や自然の再生への希望、愛や感情の解放を象徴している。
しかし、実際にやっていることは、力――暴力に物を言わせた、いわば暴政だ。父、皇帝ガイウスと大差はない。
けれども、僕の目には、とても魅力的に映った。まさに、「愛の永遠性」を象徴する理想世界……。
続いて、また景色が変わる。
今度は力を制御し、守る道を歩む未来だった。
力を節度を持って使い、愛する人々を守り抜こうとする。
直接愛する家族・親戚だけではない。
近隣の人たち、エレシュポロンの町の人たち、ダキア管区の人たちと広がっていく。
そして、この夢でも、僕は皇帝になった。
守ることは難しい。武力で相手を従わせても、恨みを買う。それは、いつか復讐の火種となる。
やられれば、やり返す。抗いがたい人間の性だ。こうして復讐の連鎖が生じ、世は乱れる。
統一できるのは、圧倒的強者だけだ。
国の強さは、君主のカリスマによるところが大きい。ところが、君主が安定して権力を振るえるのは、たかだか数十年。
結局、国は離合集散を繰り返し、戦乱と平和の波が交互にやってくる。
僕個人が力を振るっても、寿命が尽きたときには、あっという間に帝国は縮小するだろう。滅びることだってあり得る。
そこで、夢から覚めた。そこは試練の空間だった。
天狐は厳かに語る。
「強き者は、弱き者を従ふる免許あり。それもまた真。されど、汝が何を選ぶやは自在なり――」
一瞬、父のように力で全てを支配する夢に心を動かされた。
守ることは難しい。他者を傷つけないことと表裏一体だ。だが、Ignem |extinguendum antequam ardeat(燃え上がる前に火を消さなければならない)、ということもある。
だが、力による支配は、圧倒的多数の奴隷や農奴の労働力や富の搾取を前提に成り立っていることに気づく。貴族や第二階級の平民は少数だ。重労働だけをするのが奴隷ではない。先祖代々知的労働に携わっている奴隷などもいる。
対外戦争で領地を獲得し、住民を拉致して奴隷を補充することもしばしばだ。身体的特徴が異なる異邦人は差別の対象とされ、奴隷として重宝された。そもそも人間で亜人種は言わずもがなだ。
他人の痛みを顧みない限り、これはあり得ない。
結局、その道は最後には、大きな混乱を呼ぶだろう。
仲間やエレシア、リリアの存在が頭に浮かぶ。このうちの誰かが犠牲になったとしたら……、
想像しただけで冷汗が出る。
性格的に僕が傲慢になれないだけじゃない。
守る力の方が、より良き社会を産み、愛する人をも守れるのだ。
――それこそが真の力だ!
僕が「守る道」を選んだ瞬間、天狐はほほ笑みを浮かべた。
「汝つきづきしき力を授けむ――調和と破壊、全てを見通す智慧の力を」
そして、「ע」が完全に輝きを放ち、新たな力が宿ったことを理解した。
「されど、この力を得しためしに、汝は宿世を越ゆる宿世を背負ひき。真の戦ひはいまだ始まりたらぬ――」
そう予言めいた言葉を残して天狐は去っていった。
ふと気づくと、僕は、もといた廊下に立っていた。
試練を乗り越えた後、不覚にも僕はエレシアに溺れた。未熟で、欲望をコントロールできなかったこともある。
交わったことで、僕の欲望が増した。それは、あらゆる欲望に及んでいく。それは、僕の霊力=生命エネルギーが格段に増した結果のようだ。
その疑問をぶつけてみる。
「エレシア様。僕は、エレシア様から霊力を与えられているのですか?」
「何もわかれるまじきにはぞ。天下は、陰陽の理に支配されたり。雌は陰に雄は陽。雄の種は霊力の塊ぞ。もらへるは此方の方ぞ」
「そんなことが! しかし、それでは僕の霊力なんて、あっという間に枯れてしまうのでは?」
「其方の体は、此方に種付けするために、天より懸命に霊力を集めたるにはろう。此方と交はり通じ、その才が底上げせられしぞ」
「本当に、そんなことが?」
「其方は皇帝の血筋。人は階級とやら作り、皇帝の血の入りし上位貴族はそれどうしのほかに交はらぬ。
此方が一人目の人と交はりたりより千年より上経れど、その間、すがらに近親婚続けおったわけぞ。
先祖返りは奇しくはあれど、起こるべくし起こりきとひふかむと。其方の額のオウムがそのしるしぞ。そは、天に選ばれし者なる証なるかな。
こは、並の血筋には持ち得ぬもの。しかとその宿世を受け入れよ」
「天に……選ばれる?」
エレシアの瞳が、真っすぐ僕を見据える。そこには、何かを見透かしているような重みがあった。
さらに、エレシアは僕の手を見つめ、静かに呟いた。
「その手の甲のעは、天狐の試練乗り越えしものかな。
長き血の史によりたどり着きしオウムは、天や色につきての深き心得を示す一つのいらへ。それに絶対の真理はなく、私の超越の見聞をもちて得られ、言の葉を越えし領域にあり。
עは、すべてのものの根源、真を見る智慧の瞳、再生や浄化の源なり。そは、霊と肉体の試練通じ、潜在才を引き出す助けとならん。
二つを具せし其方は、やがてオウムの境地に至る。
其方の色そのものが、この天下の宿世に関はるものとならむ」
彼女の言葉に、僕の中で眠っていた恐れと好奇心が同時に目を覚ました。額のオウムに刻まれた力、そして、天狐から託された「ע」――僕が選ばれた理由を、いずれ理解する日が来るのだろうか?
「そういうことなのでしょうか……?」
思案顔の僕をよそに、エレシアは話題を戻す。
「種は肉体やうに注ぐばかりならず。魂のつながり伴ひ、かたみの霊格高め合ふものぞ。それに、其方は此方の心ばへ濃く受け継ぎて資質ありしのう」
確かに、僕にはエレシアの血が濃く出ているのだろう。
「そうですか……」と、言わざるを得ない。
「並の雄は、此方の霊力に忍ばれず、一晩に去にゆく。其方は、此方の霊力によほどならはむには。其方の一物も凶悪なるにはし、此方も飽けり。ここまで多く交はりしこそ初めてなれ」
そんなことが僕に起きているとは、驚きだった。
干乾びたミイラになっていない以上、それは本当のことなのだろう。
そのまま冬に突入し、下山は難しくなった。
皆の心配を思うと心苦しいが、下山は雪解けの時期まで待つしかあるまい。