天狐の試練と選ばれし者(1)
エレシアとの交わりが終わり、僕は、一人でアストラリス宮殿の廊下を歩いていた。
突然、額の帝王紋が灼熱感を帯び、「ע」が赤黒く光るのを感じた。その直後、何者かの声が頭の中に響いた。
「エレシアと交はりしばかりに、汝が“選ばれき”などとな思ひそ。汝の心の闇は試練を越えたらぬ――今ここにそれを明らめよ!」
この声は……? 天狐か!
すると、アストラリス宮殿の床が崩れ、僕は暗闇に吸い込まれていった。
気づくと、そこは周囲に禍々しい赤い月が浮かぶ、かつて天狐の試練を受けた霊域。
霧がかった薄明の中、六本の尾を持つ巨大な天狐が現れ、その金色の瞳が僕を鋭く射抜いた。 これが、本性の姿なのだろう。
「来たりや。汝に真の力を授くるには、汝自ら試されざらばならず。試練を受くる覚悟やある?」
僕は気圧されながらも頷いた。それを合図に、天狐は軽やかに宙を舞い上がり、六本の尾から星光を纏ったような霊気を放つ。霊気の塊が僕を包囲した。
「来、人よ。その意志の強ぞ、見せみよ!」
嵐のような気流と鋭い霊気の波動が押し寄せる中、僕は全身を震わせながら黒鉄の剣、黒炎を握りしめた。
天狐の尾がしなるたび、空間そのものが震え、目も眩む閃光が視界を遮る。それでも、僕は一瞬の隙を狙い、天狐の尾を目がけて剣を振り抜いた。
――だが、全てが無駄だった。
天狐は、僕の攻撃を容易に見切り、その尾で軽々と僕を吹き飛ばした。全身が地面に叩きつけられ、立ち上がることすらままならない。
「汝は、いまだ未熟なり。さりとて進むや?」
天狐の声が耳元で響いた瞬間、僕の胸の中に何かが燃え上がるのを感じた。それは恐れでも屈辱でもない――純然たる「生きたい」という執念だった。
「まだ終わりじゃない……僕は、まだ前へ進む!」
その言葉とともに、額の帝王紋が熱を帯び、何かが弾けるような感覚に襲われた。視界に「ע」の紋章が輝き、瞳に世界の真実が映り込むような感覚を覚える
「ほう、めでたし。では、汝に眠る“恐れ”を直視せよ。それ受け入るるや、飲み込まるるやは、汝次第なり」
すると、僕の目の前に実父、皇帝ガイウスが姿を現した。
ガイウスは憎悪と侮蔑に輝いた目で一瞥すると、僕を非難する。
「おまえは破滅を招く存在だ。なぜ抗う? 運命を受け入れろ!」
「僕を棄てたあなたが、それを言うんですか! あなたこそ、父親の風上にも置けない。人として失格だ!」と、鬱憤を正面切って口にした。
「では、おまえは父を殺すのか? 尊属殺は、人として最も重き罪だぞ!」
最も恐れていることをズバリ指摘され、一瞬返す言葉を失った。今まで学び、経験してきたことが、次々と思い浮かび頭をループする。何より「父殺し」への恐怖に怯えた。しかし――、
――僕は決めたのだ。生きる道は自ら探るのだと!
「……例え神託の預言であろうとも、僕は自分の意志で運命に抗う!」
反論した瞬間、「ע」が光り輝き、ガイウスの幻影はかき消えた。
すると、僕自身のもう一つの人格が姿を現し、挑発する。
「おまえは、本当に“選ばれるべき存在”なのか? 欲望に支配された、ただの凡人だろう? そんな資格はないし、責任も負えないのさ」
「確かに、僕には内面的な弱さがある。だからこそ抗い、努力しなければならない……”選ばれる”かどうかは、結果論だ」
「さて、どうかな……? 結論を先送りにすれば、どうにかなるとでも? だが、おまえの周りの者はどうだ? のんびり待ってくれるものかな?」
もう一人の僕は、皮肉な笑みに顔を歪ませると、フッと消えた。
入れ替わりに、リリアが姿を現した。彼女は、僕にとってのトラウマだ。見ているだけで、胸が絞めつけられて苦しい。
「私を助けずに見捨てた若様なんて、誰の役にも立たない。不要な存在よ」と、彼女は冷淡に非難した。
凍りついたように感情に乏しい表情の中、冷やかな侮蔑が浮かんだ目だけが、強烈な印象を僕の胸に刻み込む。
「君には、本当にすまないと思っている。僕は未熟で、引っ込み思案だった。だから、待つことしかできなかったんだ」
戻ってこない過去に対しては、謝罪しかできない。
「そんな人が努力したところで、今さら何とかなるものかしら? 生まれつきの臆病者は、しょせんは死ぬまで臆病者なのよ」
Quod natura dat, nemo potestadimere(自然が与えたものを、誰も奪い去ることはできない)
倫理や信条の上では認めたくないが、犯罪者になるべくしてなった者の存在は、全面的には否定できない。例えば、生まれつき暴漢気質を持った者が、それだ。
一歩間違えば、その仲間入りをしかねないことに、僕は気づいた。
先祖から受け継いだ天賦の才の難点を、後天的な努力で矯正するには、さぞかし骨が折れるだろう。おそらく、不断の努力によってのみ可能だろうし、怠れば元に戻るに違いない。それでも――、
「僕は、自分の努力と可能性を信じたい。それが無駄かどうかは、結果を見なければわからない」
だが、リリアの表情は凍りついたまま。むしろ、気分を害したようだ。怪訝そうに目をすがめている。
「そうして若様は、また先送りにするのね。私のときのように。でも、それでダメだったときは? また、先送りにするのかしら? もうお爺さんになって、衰えていくばかりなんじゃあ?」
「そのときは、好きなだけ罵ればいいさ。もちろん、可能な限りの償いはするつもりだ。どんなに無能でも、人としての誠意だけは、捨てるつもりはない」
それを聞くと、リリアの姿が消えた。その間際――、
ふっ――と、笑ったようにも見えた。
それもつかの間、義母エレナが姿を現す。
彼女は、蔑むように見下げている。今まで見たこともない表情に、僕は心に痛撃を受けた。
「ルーカス。あなたは、もう不要な存在なの。メルラ家の後継ぎにはマルスがいるし、本当の子ではないあなたは、正直迷惑なのよ。まして、皇帝の恨みを買っている人間なんて、疫病神でしかない。
心の隙間を埋めてくれたことには、感謝するわ。でも、今の私には、お腹を痛めて産んだ本当の子どもたちがいる。だから、もう大丈夫。あなたを『ルーちゃん』と呼ぶことは、もう二度とないわ。あなたも嫌がっていたから、ちょうどいいわよね……そうでしょう?」と、畳みかける。
その猫なで声は、あざとい媚態を示して阿諛する傾城であるかのようだ。
(これは……母さんじゃない)
明らかな違和感に、僕の心は拒絶反応を示している。
天狐が悪意を持って創り出した虚像だ――と、思いたい。
だが女は、どこか男をたぶらかす気質を持っているものだ、ともいう。
エレナとて、一点の曇りもない聖女であろうはずもない。
本当に、全部が噓だと言い切れるのだろうか?
「母」とはこういう存在だ、という理想を、僕が一方的に貼りつけていた面もあるだろう。
そう思うと、急にわからなくなった。とはいえ――、
「どう言われようとも、あなたを母として尊敬し、感謝する気持ちに変わりはありません。メルラ家に迷惑をかけるつもりもありません。必要なら、いつでも家を出る覚悟はあります。それに……いつか、育ててもらった恩が返せるなら返したい」
「ただ言葉にするだけなら、どうとでも言えるわ。あなたは、頭がいいから」と、エレナはつまらなそうに吐き捨てた。
「これ以上は、信じてくださいとしか言いようがありません。それで足りないなら、担保として金目のものでも差し出すしか……」
「いらないわよ! そんなもの。貴族の誇りをバカにするもいいかげんになさい。平民とは違うのよ」と、エレナは怒声を張り上げて発言を遮った。
「失礼いたしました」と、僕は頭を下げる。
「とにかく、あなたは不要なの。恩返しも期待していないわ。その程度の存在ということ。わかった?」
「母さんの気持ちは、理解したつもりです」
「気持ち悪いから、『母さん』なんて呼ばないで」
エレナは、嫌そうに顔を背けながら、手をひらひらと振って拒否の意思を示す。
それには辟易したが、つき合ってあげるのも子の務めかと思い直す。
すると、義母エレナの姿は、かき消えた。
「よくぞ自らの闇に潜む弱ぞ、畏さを直視せり。恐れを超えし者にのみ、“ע”の力は覚醒ずる」と、天狐の声が脳内に響く。
手の甲の”ע”の紋様が輝きを増した。
「これこそ、汝の持つべき“調和”の力なり」
感慨深く、その紋章を見つめる。
”ע”の意味は多義的だ。「調和」を見極める広い意味での目の力、すなわち分別の力と言った方が近いのだろう。
大宇宙にける調和、小宇宙における調和、そして両者が交わるところの調和。これらの一端は、音楽の研鑽を通じて権天使メバヒアから教わった。そして、それは言語により理性で考察するよりも、ときとして感性により感じ取る方が有用であることも。