光の少女と深遠なる女神
「起きなさい……このまま堕ちたら、死んでしまうわ……目を開けるのよ……」
凛として澄み渡る少女の声が、闇の中に響く。声はどこか遠く、霧の向こうから届くようでいて、耳元ではっきりと囁くような奇妙な感覚を伴っていた。
漆黒の闇は底知れぬ深淵のように広がり、身体は宙に浮いているかのようだった。上下左右の感覚すら失い、自分が存在しているのかどうかも定かではない。ただその声だけが、暗闇の中に確かな光の糸のように感じられた。
そもそも、僕は目を開けているのだろうか……?
意識が混濁して、はっきりしない。あの声も、幻聴なのでは?
「死んではダメよ……目を覚まして……」
本能的に死の淵にあることを悟り、戦慄で背筋が寒くなった。同時に、生への執着を覚え、意識が少しはっきりした。
頼みの綱は、少女の声しかない。ひらすら声に意識を集中させる……声は、次第にクリアになっていく……。
「目を開けなさい!」
その声が耳元で響いた瞬間、何かが胸の奥で弾けた。僕の身体がビクリと震え、朦朧としていた意識が引き戻される。
意を決して、重い瞼をゆっくりと開いた――、
次の瞬間、金色の輝きが視界を満たす。光は、暗闇の中で突如咲いた一輪の花のように美しい――目に映る少女の顔が光源そのもののようだった。
「よかった! 目が覚めたのね」
金色の髪が陽光を反射して輝き、澄んだ黄金の瞳が、魂の奥を見透かすかのように僕を覗き込んでいた。
歳は、一四歳ほどだろうか?
どこか神聖さを漂わせる雰囲気の中に、幼さの残る柔らかな表情が溶け込んでいる。
彼女の姿を見ていると、思わず懐かしさに似た感情が胸をくすぐった……リリアと同年代だからだろうか……?
「君は……?」
「私は、レベッカ」
その名を耳にした瞬間、妙に懐かしい響きを感じた――まるで、ずっと昔から知っていた名前のように……。
「僕は……ルーカスだ。助けてくれてありがとう。本当に、君がいなかったら……」
「私は、母さんに様子を見てこいって言われて、来ただけよ。間に合ってよかったわ」
レベッカの柔らかなほほ笑みが、心に深い安堵をもたらした。暗闇の中で失いかけた命を、彼女の手が引き戻してくれた――そんな感覚が胸に広がる。
「それでも、君の助けがなかったら、僕は死んでいた」
「そんな、おおげさなことじゃないよ」
少し会話をして、正気に戻った。だが、状況を把握した僕は、思わず飛び起きた。
レベッカは、神秘的な光沢のある銀白のシンプルなワンピースを着ていた。スカート丈は膝上でかなり短い。僕は膝枕をされていたが、スカートがたくし上がっている。頭を乗せられていた部分は、生足だった。心地よい人肌の温もりの正体だ。
フォンターナにいたずらして後悔したことを思い出す。さすがに、初対面の美少女に、それはできない。
「どうしたのよ? 急に」と、レベッカはキョトンとした顔をしている。
「いや。何でもない……」
答えに詰まり、お茶を濁した。
帝国人女性が、ここまで足をさらすことはふしだらとされている。男の悲しい性で、無防備にさらされている生足に、チラチラと目が行ってしまう。悟られて好色だと思われるのも不本意で、気が気でない。
「まあいいわ。その元気があれば、お母様のところへいけるわね」
「その……お母さまって?」
「エレシアっていうの。名前くらいは聞いたことがあるでしょう」
「は? というと、人竜の?」
「そうとも言うわね」
思わぬ展開に、僕は呆気にとられた。しかし、この幸運には感謝せねばなるまい。
「面倒だから、空を飛んでいくわよ」
レベッカが唇を軽く突き合わせると、空気が震えるような口笛の音が辺りに響き渡った。澄み切った大気が揺れ、一瞬、時が止まったかのような静寂が訪れる。
突如として、遥か空から風が巻き起こり、その風に乗るように純白の天馬が滑るように舞い降りてくる。翼を大きく広げ、星明かりを浴びて淡い虹色の輝きを纏ったその姿は、天から遣わされた神獣のようだった。
彼女は、まるで僕の体重など気にするそぶりもなく、驚くべき力で僕を軽々と抱え上げ、天馬の背に乗せる。
天馬は大きく翼を広げ、風を切る音が耳元で鋭く響いた。
「しっかり掴まって!」
レベッカの声が聞こえた次の瞬間、体がふわりと浮き、ペガサスは天空へと駆け上がった。風が頬を強く叩きき、全身が宙に浮いているような感覚に陥る。見下ろせば、山の稜線が遠ざかり、雲が足元に広がる。
翼の羽ばたきに合わせて、上下に揺れる背中の感触が頼りない。それでも、レベッカの小さな背中にしがみつくことで、なんとか落下への恐怖を抑えていた――男女逆だ……かなり恥ずかしい。
「すごい……」
空から見下ろす風景は圧巻だった。
山頂付近は外輪山に囲まれている。内部の窪地には、大小の山が不規則に点在している。聖エレシア山は、古いカルデラ火山だったのだ。
眼下に広がる外輪山は、巨大な竜の背骨のように鋭く連なり、その中心にぽっかりと口を開けた窪地が現れた。
外輪山の内側に入ると、突然、気候が変わった。春のような程よい暖かさで、空気も地上と同様に濃い。呼吸が楽になり、人心地ついた。
内部の窪地に広がる平原には、色とりどりの花が咲き誇る。木は灌木がポツポツと生えているが、高木も混ざっている。まるで桃源郷のような風景だ。
ふと気づくと、中央に想像を絶する太さと高さの大樹が生えていた。遠近感が狂ってしまったような奇妙な感じだ。あれはトネリコの木……おそらく世界樹というやつに違いない。
ペガサスが静かに翼を折りたたむと、僕は目の前の光景に圧倒された。
聳え立つのは、漆黒の夜空を貫くような純白の尖塔。その表面には銀色の紋様が絡み合い、月光にも似た淡い光を放っている。
「これが……アストラリス宮殿……?」
その神秘的な姿は、伝説そのものだった。いなか町しか知らない僕には、その荘厳さと美しさが夢の中の光景のように感じられ、圧倒された。
「ここが、私のおうちよ。さあ、母さんへ会いに行きましょう」
「は、はい……」
事がとんとん拍子に進み、心の準備が追い付かない。
おかまいなしに、レベッカは、宮殿の中をどんどん歩いていく。僕は、離されないように、これを追った。
廊下は長く、無音の中で二人の足音だけが響いていた。壁には精緻な装飾が施され、ところどころに輝く水晶の灯火が置かれている。それらはただの光ではなく、魔法の力で生み出されたもののように、柔らかな輝きとともに周囲に霊的な静謐を漂わせていた。
途中ですれ違った女性たちは、月光のように輝く白いローブを纏い、純白の花々で作られた花冠を頭に頂いていた。巫女のように清廉な佇まいには、神聖な力に守られた者だけが持つ威厳と清浄さが宿っていた。
その姿は、どこか幻想的で清らかさに満ち、近づくだけで聖域に足を踏み入れた感覚を覚えさせる。
彼女たちの動きは滑らかで、歩くたびにローブの裾が光を反射し、穏やかな音が石畳の廊下に響く。その優雅で清潔な佇まいが、この宮殿全体の荘厳さをさらに引き立てているようだった。
彼女たちは、好奇の視線を向けてくるが、悪意は微塵も感じられない。しかし、注目されているには違いなく、気恥ずかしさが先に立つ。胸を張って見つめ返すくらいできたらいいのだが、今の僕では無理だ。
案内されたのは、崇高な静寂が漂う広間だった。天井は果てしなく高く、壁には星空を模した装飾が施されている。広間の中心には、まばゆい光に包まれた女性が座っていた。
幅広い豪奢な椅子に優雅に腰かけ、艶然と柔らかな笑みを浮かべている。その笑みは慈愛と威厳が絶妙に調和しており、見る者を無言のうちに恐惶させる。
――彼女が聖エレシアなのか?
そう思うと感無量となり、胸に熱いものが込み上げた。
椅子は、玉座のように高い位置にあるわけではなかった。彼女は他者を見下ろすのではなく、対等に向き合うことを選ぶのだろう。その意外性が、彼女の器の大きさを物語っているようだった。
彼女の姿は、眩いばかりの光に包まれていた。白のドレスは、単なる布地ではなく、光そのものを編み込んだかのように輝いていた。彼女の金髪は、まるで陽光が糸となり流れ落ちたようで、その眩さに目が眩むほどだった。
蒼い瞳は深海のように神秘的で、目が合った瞬間、全てを見透かされたかのような錯覚に陥った。その瞳の奥には、過去も未来も全てが映し出されているかのようだ――まさしく人の範疇を越えた存在に思えた。
彼女の周囲には、花びらや微かな星明かりが舞い踊り、見る者の心を魅了してやまない。さらに、その身を包む極彩色のオーラは、万物の調和を象徴するかのようだ。その中にいると、魂が浄化されるような気さえした。
何より、エレシアの容姿に見惚れて我を忘れた。僕は、そこに理想的な大人の女性像を見た。
彼女には、僕が勝手に想像していた実母アリアや養母エレナの面影があり、そして僕自身にも似ているようにも感じる。
マザコンでナルシストのような気もするが、理想の女性像は人それぞれ。しょせんは、そんなものなのではないか?
なによりも一番印象的だったのは、彼女の額にオウムの表徴がくっきりと浮かび上がっていたことだ。僕のような薄ぼけた赤ではなく、灼熱色をした情熱的な赤だ。
そこから彼女の桁違いば霊力が、滾るように流れ込んでくるかのようだ。
思わず、額の帝王紋に手を当てた。エレシアのオウムに感応して熱く熱を帯びている――過ぎ去った「天狐の試練」の記憶が脳裏をかすめた。
「母さん。今、戻りました」
「ご苦労じゃった。ともかくも、生きたらむにはのう」
いきなりの古語には面食らったものの、エレシアの声はアルトボイスで、まるで歌っているかのように豊かな響きがある。何物にも動かしがたい安定感があって、頼れる感じだ。
「命を救っていただきましたこと、心から感謝申し上げます」
「礼は無用ぞ。アストラリス宮殿は、等しく誰にも開かれたり」
「それは、恐れ入ります」
「さるほどに、其方は、とにもかくにも、ここへたどり着きき。ここへ来し雄には、此方と交はる権利あり」
「は? それは、どういう……」
「なにぞと! 其方は、此方に種を授けに来ずや?」
「雄というのは、人竜のことですよね。僕は、人間ですが……」
「人竜の多きは確かなれど、種族は縁なし。千年前にも一人、人と交はりしところぞ」
「そうですか……」
帝国の初代皇帝の父親ということか……まさか、それも事実だったとは!
それにしても、人竜の性的な倫理観は、人間とは全く異なるようだ。しかし、それを一概に否定し、忌避するのもいかがなものか……?
「よも、其方は此方に欲情せずといふことか?」
どうやら、こうなってしまった以上、僕に拒否権はないようだ。
そもそも、僕に、そういった欲望がないと言えば嘘になる。これは、いつかは経験にしなければならないこと。ここは、素直に彼女の慈愛に甘え、無償の愛に従うべきか……。
「いえ! 決してそのようなことは……」
「そは重畳。其方はらうのなからむにはし、此方が男にせむぞ」
「それは光栄の至りに存じます。感謝の言葉もございません」
そして、その夜……、
僕は男になった――はずだ。
ところが、夢ごこちの中にあって、肉体的にどのような行為をしたのか――それが人の男女の交合と同じなのか? ちっとも記憶にない。
その夜、彼女との魂の交感は、まるで永遠に続く天上の舞踏のようだった。その感覚は、現実を遥かに越えた世界に僕を誘い、時間の感覚すら失わせるほどだった。
全身を包み込む暖かな光とともに、胸の奥から恍惚とした法悦境が湧き上がった。極致感とともに精を放った心地よい虚無感が全身を満たす中、気が付けばすべてが静寂に戻っていた――まるで、夢から覚めたかのような不思議な感覚だった。