獣の心、英雄の刃
黒炎を抜刀すると、僕の魔力に反応して、刀身が暗赤色の光を放ち始めた。さらに魔力を込めると熱を帯び、微かな振動が手の中で脈動している。
闘気を練り、身体能力を強化すると、フェロックスらが三頭がかりで噛みついているギガントサーペントを、大上段から切りつけた。
黒炎で斬撃を放つ度に灼熱の残像が広がった扇のように見える。それは、ギガントサーペントの分厚い鱗を難なく切り裂いていく。熱せられた血が噴霧し、赤い霧が周囲に漂う。
だが、蛇の生命力は凄まじい。
巨蛇は頭を斬り落とされてもなお、分離した下半身がバタバタと大地を激しく叩きつけ、死に物狂いで抵抗を続ける。その動きには、呪われた生命力の執念すら感じられた。
頭のある上半身は、動きは鈍っても、戦意が衰える様子はない。切り口からは、ドクドクと大量に出血しているというのに……。
やはり、やつらは山の霊気で進化した個体なのだ。
その巨体、鱗の頑丈さ、力の強さ、牙が持つ猛毒……どれ一つをとっても並のギガントサーペントの比ではない。
剣を振るう傍ら、並行して風刀で切りつける。こちらは両断するほどの威力はない。今の精神状態では、万全な状態の半分の三つを操るのが精一杯だ。
ギリギリの極限での命のやり取りが続く中、ふと何かが胸の奥で弾けたように感じた。その瞬間、僕は嗤っていた。
最初は静かな嗤いだったが、次第に抑えきれなくなり、腹の底から湧き上がる嗤いが戦場に響き渡る。
「はっはっはっ……!」
自分が本能的欲動に飲み込まれていくのを感じつつも、もはや止めることはできなかった。
暗赤色に輝く黒鉄の剣を振りかざし、蛇を切り刻むたびに胸の中に湧き上がる悦楽――それを抑え込んでいた何かから解放される感覚だった。
「もっと……もっとだ……!」
口をついて出る声が、まるで悪魔のようだ。
止まらぬ笑いの中で、自分がすでに境界を越えていることを、どこか冷静に理解していた。
刀身を振るうたび、視界が滲み、世界がゆがんで見える。
蛇のうねる姿が、次第に何か別のもの――黒い影のような抽象的な存在に変わっていく。幻覚なのか……?
頭の奥で、何かが囁く声が聞こえた。
「もっと……力を……解き放て……」
声の正体は自分の内なる「本能的欲動」だと気づいていながらも、抵抗する術がない。
感覚が壊れ始め、自分がどこにいるのかさえわからない。
刀身を握る手に力がこもりすぎて、指先が白くなる。
黒鉄の剣黒炎が暗赤色に光を放つたび、胸の中に熱い高揚感が湧き上がる。
「足りない……もっとだ……!」
人間離れした野生のごとき笑い声が漏れ、意識が黒い泥沼の中に沈み込んでいく。
切り裂いた蛇の断末魔や飛び散る赤い霧が、まるで祝福の花火のようだ。
だが、その快楽の裏で、上空から冷静に戦況を見つめる、もう一人の自分のような存在を感じた――彼が囁く。
「このままでは、戻れなくなるぞ……本能的欲動にのみ込まれたら終わりだ……」
警告を理解しながらも、僕は狂戦士のようにギガントサーペントを切り刻み続ける。荒ぶる神か凶悪な悪魔にでも憑かれたように……朦朧とする中で、自我が薄れていく……。
もはや、僕の戦い方は、本能と反射神経で動く木偶人形のようだ。
戦術も何もあったものではない。剣と魔術を併用する複眼思考もできていない。
ギャン! と、野太い犬の悲鳴が聞こえた。マグナスだ。
著しく戦闘力が低下した僕をかばい、ギガントサーペントに噛みつかれたのだ。
「マグナス!」
反射的にギガントサーペントの脳天を、黒炎で突き刺した。
それでマグナスはなんとか解放されたが、もはや傷だらけで、完全に動きが鈍っている。
その傍らでは、フェロックスが僕たちを守って奮戦しているが、やはり満身創痍だった。
「フェロックス……くそっ!」
従魔たちは、僕を信じて戦ってくれているというのに……。
危機感が募るが、精神は崩壊寸前だ。
いったい、どうすれば……?
そればかりか、霊力の消耗で、喚起したアンデッドが一人、また一人と消滅していく。
戦力の減少に肝を冷やした。事態は深刻だ。
――このまま終わってしまうのか……?
僕は、深刻な虚無感に直面した。
その隙に、僕は、ギガントサーペントに巻きつかれた。容赦なく絞め上げられて、呼吸もままならない。
意識が混濁していて、これが現実なのか、無意識の中の夢なのか……もはや……何が何だか……。
意識が薄れて行く中……ギガントサーペントの姿は、僕の恐れが実体化したものではないか? と、閃めく感覚を覚える。
胸の奥に残る微かな理性が、僕を呼び覚ました。
息が荒れ、視界は血の色で染まっていた。
手の中の黒鉄の剣が冷たく感じられた。狂気に染まった自分を拒むように――。
手の甲に刻まれた古代文字「ע」がうずく。額の帝王紋が熱を帯び始めた。
恐れるもの――残虐な本能的欲動は、姿も知らない実父の象徴だ。僕を棄てて、殺そうとした実父の。僕が殺す運命にある実父の……。
この絡み合った解決不能なトリレンマ――恐れの元凶であり、ずっと避け続けてきたもの。これが僕の心を歪めてきた核で……弱い自分と表裏一体。分離不可能なのだ。
ならば、弱い自分と同様、自分の一部と認め、赦すしか道はないのではないか?
僕の理性と悟性は、本能的欲動を制御できないほど柔じゃないと信じたい……ほかに、生きる道はないのだから……。
そう覚悟を決めたとき、僕を絞めつけていた巨蛇がふっと消え、意識がクリアになった。どうやら夢だったようだ。
麻薬による意識の脈動はほぼ収まり、ようやく気分が落ち着いてきている。
しかし、ギガントサーペントは、まだ半数近くが生き残っている。
まずは、残った仲間たちの戦力を整えることが先決だ。治癒魔術の詠唱を始める。
「風を司る者にして、慈愛に満ちし風精霊セレスティアよ。我の声を聞け! ――」
セレスティアが中空に姿を現した。
白いドレスを纏った白い髪に青い瞳の美少女は、慈愛に満ちたほほ笑みを浮かべている。白く透きとおった肌の身体は細くて軽やかで、まるで天使のようだ。
「――満々の霊力を湛えたる天空より生命の息吹を宿した風を送り、かの者らの傷を癒し、安らぎを与え、気力を回復させよ! ――」
セレスティアは、両手を天に向けて広げる。大宇宙に漂う生命エネルギーを集めると、その身が暖かい光に包まれていく。
「――世々限りなきエレシアと神々の統合のもと、実存し、君臨する風と空の神カイラを通じ、ルーカスが命ずる。風の癒やし!」
命を芽吹かせるかのような穏やかな春風が吹き渡る。風を受けた従魔たちの傷が、みるみるうちに塞がり、目には活力が戻ってきた。
元気をもらった僕は、従魔と残る不死の軍団へ檄を飛ばす。
「我が忠勇なる配下たちよ! 恐れるな――あの蛇どもは、見かけ倒しの蠢く鉄屑に過ぎぬ!
やつらの弱点は頭だ。鋭き牙と爪でその首を砕き、息の根を止めろ!
おまえたちの猛威で、この戦場に勝利を刻むのだ!
さあ行け! その先には、我らの勝利と栄光が待っている!」
オォォォォッ! ガルゥゥッ!
雄叫びと獣の唸り声による不穏な轟音が、再び戦場を支配する。
上空に感じるもう一人の自分を見失わないよう集中した。
味方の勢力が減った今、冷静に戦況を見極め、常に最適な戦術を選び続けなければ、正気はない。
まずは、ギガントサーペントの体温を下げる攻撃だ。蛇は変温動物だから、確実に動きが鈍るはずだ。
今度は、水の魔術を詠唱する。
「水の精霊フォンターナよ、我に力を貸せ――」
中空にフォンターナが姿を現した。
青いドレスを纏った青い髪に紫の瞳の美少女は、優しく穏やかな性格だが、今日ばかりは瞳から感情が消えている。冷酷な刑の執行者のようだ。
「――極寒の虚空から、数多の氷の投槍を呼び寄せん!
我が敵を、凍てつく投槍の鋭鋒により穿ち、その身を凍りつかせ、極寒の熱的死をもたらせ! ――」
フォンターナが右手をたかだかと天へ向けると、数多の氷の投げ槍が虚空から現れた。空中で静止し、射出されることを待ち受けている。
あまりの冷たさに、周囲の空気が凝結した白い煙が滝のように流れ落ちていく。
「――世々限りなきエレシアと神々の統合のもと、実存し、君臨する水と氷の神べリスを通じ、ルーカスが命ずる。氷投槍!」
氷投槍が、一斉にギガントサーペントへ疾風の如く襲い掛かる。
フォンターナの長くてサラサラな青い髪が、攻撃の余勢で吹いた風になびく。まるで、水が流れているようだ。
氷投槍の第二派、第二派……と、次々にギガントサーペントに突き刺さる。
あまりの巨体に、凍結させるにはいかないまでも、確実に体温を下げていく。
ある程度のところで見切りをつけ、黒炎を抜刀すると、直接戦闘に加わる。
氷投槍の効果は劇的だった。明らかに、敵の反撃に勢いがない。
戦況は僕たち優位に進み、敵はじりじりと数を減らしていく。
もはや、僕が相手をしている個体が最後だ。
黒炎をギガントサーペントの頭頂部へ一気に突き立てた。それでもなお、ギガントサーペントはモゾモゾと動きを止めない。
しかし、それも時間の問題。ここから復活することはあり得ない。
そう思ったとき、緊張の糸がプッツリと切れた。
辺りを包んでいた喧騒が嘘のように消えた。耳に残るのは、激闘の余韻のように響く自分の荒い息遣いだけだ。
森の中には静寂が戻り、倒れた蛇の死骸から漂う鉄錆に似た匂いが鼻を突く。
沈みかけた夕陽が血のように赤い光を落とし、戦場の跡を陰影深く照らし出している。
戦いの興奮が遠のき、どこか現実味のない虚無感が胸を満たす中、僕は地面に膝を突いた。
もはや、僕の体は限界を超え、精も根も尽き果てた。
視界が暗転し、全身から力が抜けると、僕は荒れた大地の上にドサリと崩れ落ちた。