意識の星海と道を示す鍵
心の深層にある無意識、その深淵の奥底に潜む残虐な本能的欲動――あたかも、暗き森の奥深くに封印された忌まわしい獣のようだった。
その本能的欲動の気配を感じ取って、想到した。
これを抑えるためだけに心を閉じるのは、過剰反応。心の未熟さが原因で、逃げていただけだ。
そして結局は、自らが割を食う結果を招いていた。
畏れに背を向けるのではなく、正面から対峙し、その猛りを制御する術を探るべきだ。
自分の欠点や醜い面を見るのは辛いことだが、本質を理解しないことには、制御はできない。
本能的欲動に関しては、意識化できたことで、ある程度は理性の力で抑えられるだろう。だが、それだけでは無理だ。ずっと抑圧し続ければ、いつはか爆発してしまう。発散することも必要だ。
どう制御するか?
おぼろげに心象は浮かぶが、一朝一夕にできることではない。試行錯誤しながら、最適解を探り続けるしかない。おそらく、これが死ぬまで続くのだ。
これまでの一〇〇日間は、深く瞑想するために、心を揺り動かす雑念をやり過ごしていた。これらも同じだ。
例えば、リリアへの愛の不条理な喪失については、どうだろう?
何の前触れもなく噂話を耳にしたのが、不意打ちだった。それだけに、動揺が大きくなり、心も体も過剰に反応した。
そのとき、何を感じていたのか?
リリアに捨てられた。
自分を否定された。
それにより、暗澹たる感情が胸を占拠したのではなかったか……?
なぜ?
自分の未熟さ、自信のなさが、前提にあった――それが否定された原因だと……、
その事実を実感させられて、衝撃を受けたのだと思う。
その時の気分は、一言で言えば、絶望だ。
もともと生きることに違和感を持っていた僕が、生きる意味を真剣に考えさせられる羽目になったということもある。
しかし、客観的に、かつ、冷静に思い起こしてみるとどうなのだろう?
最初に近づいてきたのはリリアの方だ。それで彼女を、より意識するようになった。
僕の好意は深まったし、二人きりで歩くときは、気恥ずかしい思いもした。
さらには、プレゼントもしたし、ファーストネームで呼びあう仲にもなった。あのときは、われながら、よく勇気を出せたものだ。
だが、互いの好意を確認しあってはいない。
リリアは一四歳で、僕は一二歳。成長期の二歳差は大きい。
立場を変えみれば、僕はとても頼りない存在だったように思える。
実は彼女は、庇護欲のような感情を覚えていたに過ぎないのではないか?
そうであるならば、二人の絆など、しょせんは未熟な少年少女どうしの友愛に過ぎなかったのではなかったか……?
僕は、一方的に恋だの、愛だのと思い込んでいた。
だが、その実、親近感のオブラートに包まれた憧れと似た感情だったのでは……?
ノアの存在は遥か高みに思えて、憧れしか抱けなかった。
一方で、リリアは、なまじ年が近い間柄だったから、錯覚したのかもしれない。
そんなことを考えた僕は、心が少し軽くなった。むやみに自分を卑下したり、責めたりする必要はない。
とはいえ、喪失感は薄まっても、消滅することは一生ないだろう。
僕は、過去の痛みを受け入れ、自分と向き合う決断を下した。
心の葛藤を制御し、うまく付き合う。それにより過剰な心の抑圧を緩和し、前向きに生きる力に変える。それが重要なんだとわかりかけた気がする。
「オン コミムタノス アハルラ フナオ メッカ ボデルラ ハンダマ ジンバルラ ハラルブリティア オン」(コミモテノスの神よ、無限の知恵と慈悲をもって、我に無限の知恵を与え、我を悟らせ、光明をもたらし給え)
聡明法を続けながら、心の内面を見つめ続ける。
言語には、もともと魔術的力がある。これを口に出して発音することで、言霊が宿り、その力が増す。それは己の外面の大宇宙と内面の小宇宙の双方向に作用するのだと感得した。
毎日一〇〇万回を一〇〇日以上。都合一億回以上唱えているのだ。もはや、真言は自己と一体不可分に思えるし、日々、魔術的力が増しているように感じる。
葛藤が薄まり、心の内面が穏やかになった。これに伴い、瞑想も深さを増していく。本能のその先へと……。
自我の境界線が薄まっていく……そのことに恐怖を覚えた。
――このまま、悠久の闇をさまよい続けるのでは? 戻れるのか? 現実へ……。
しかし、引き返すのも、今さらだ。
何百日も続けた日々の瞑想により、心の奥底に巣食う葛藤は、静かに落ち着きつつある。
代わりに訪れたのは、水鏡となった湖面のような静寂と安寧――その感覚が次第に深まっていく……、
やがて、ふと巨大な森林に抱かれて、これと溶け合っていくような感覚が訪れた。
視界が明滅するような感覚の中、心の底から支離滅裂な言葉や画像の洪水が流れ込んでくる。縁もゆかりもない大都会の雑踏へ、突然放り込まれたようなものだ。
取捨選択して理解しようと試みるが、モヤモヤとしていて、つかみどころがない。言語というには不明瞭。目に映る画像というには現実味がない。あえていえば、概念のようなものか……?
論理的に理解するものではなく、直感で感じ取るのが正解なのだろう。
表現は難しいが、男=父=家長=権威……といった概念の原型となる心象といったところのもの。
「集合的無意識」というものだろうか……? 図書館にあった年代物の哲学書で読んだことがある。そのときは、まったく理解が及ばなかったが……。
それは、意味を成す言葉や画像ではないが、どこか懐かしく、原初から自分に寄り添っていたような……何ものか──意識化不能な……?
やがて……わずかばかり直感した。
本能的欲動とは方向性が違うが、これもまた無意識の根底にあって、僕の心を制約している――、
その瞬間、意識が広がり、星々の海を旅するような無限の空間へと誘われる感覚を覚える。
これが「その先」なのかと、自ら問いかける間もなく、光と闇が表裏一体で融合している無垢な世界が広がっていった。
――これは⁉ 光と闇、善と悪が未分化な世界……なのか?
まさか、大宇宙の創成よりも前の世界だと?
いや、ここまで深い領域になると、時間の流れの秩序すら怪しい。なにも、僕が宇宙誕生の百数十億年より昔にタイムスリップしたわけではあるまい。
おそらくは、現実世界は、このような未分化で曖昧なミクロの世界をも内包しているのだ。人は、それを認識できない、あるいは意識上に上らないに過ぎない。
そんなことを考えていると、僕の意識は覚醒した。二〇〇日が経過していた。
――これで終わり?
僕は拍子抜けした。あまりの静謐さに、肩透かしを食らった心地がする。
聡明法を完遂したから、一挙に無限の知恵を得た完全無欠な人間になれる、というのも虫のいい話だが……。
簡潔に言えば、よりよく生きるための術の手がかりを得た、といったところ。赤子がよちよち歩きできるようになったようなものだ。
だが、歩めない者。歩まない者。これと比べて、歩み続ける者の差は大きい。遅くとも、時とともに差は確実に広がっていく。
そう考えるだけでも、聡明法を修めた意味は見いだせる。
一区切りがついたら、空腹を覚えた。
食料調達のために森を探索する。季節が秋へ移り変わったことで、林檎、野イチゴ、栗、ヘーゼルナッツなど、木の実や果実が多く収穫できた。
程よく熟した林檎の実で腹を満たすと、収穫物をいったん木の洞に置いてきた。
せっかく二〇〇日が過ぎたのだ。できれば、タンパク質も欲しい。
密集する森の木々をかき分け、薄闇の中を進むと、突如、一帯だけ陽光が射し込む場所があった。その中心に、朽ちて苔むした祠が、ぽつんと佇んでいる。
祠の表面は風雨の浸食で削られた跡が深く刻まれ、途方もない歳月を彷彿とさせる。
内部には、一体の石像が据えられている。その顔は、雨風に削られて今や判別もつかないが、どこか見る者の心に不思議な静けさを与える。
辺りには、古びた石の匂いや湿り気が漂い、祠の周囲を包む空気は、まるでこの場所だけが時間が止まっているかのようだった。
祠の前面は森の木々が途切れ、目の前が開けている。山裾まで広がる翠緑の森を上から見渡すことができる。何と雄大な景色なのか……。
地形から見て、祠は、聖エレシア神殿と山頂を結んだ線上に位置している。そうすると、神殿の奥社みたいなものなのだろうか?
そう思えば親近感を感じる。ただ立ち去るのも失礼なので、石像へ祈りを捧げる。そのとき――、
「こは? 人とはあり難し。千年ぶり二回目といひしところで負ふや……」
その声に振り向くと、そこには純白の貫頭衣を纏った妖美な女性が立っていた。
風にそよぐ衣は、月光を宿したように淡く輝き、見る者を惑わせるかのように妖しく美装されている。
だが、彼女の姿には、言い知れぬ違和感があった。
人のようでありながら、人ではない何か──その金色の瞳には、獣を思わせる鋭さが宿っている。
耳元からは白銀の狐の尾のようなイヤー・カフが揺れていた――あれは本当に装飾なのか、それとも……。
彼女が一歩近づくたび、空気がわずかに震え、祠の周囲に漂っていた湿り気が霧散していく……。
場を支配する威厳は、まさにこの地の守護者たることを示している。
敵対する意思は感じられない。とはいえ、いざ戦闘となれば一筋縄ではいかないことは、その存在感が示している。
無用な感情を押さえて、慎重に口を開く。
「失礼ですが、あなたは?」
「我は、祠の番人せる天狐なり」
天狐は、千年以上も生きて天にも通ずる存在となった狐だ。ならば、あの姿も納得ができる。
「それはお見逸れいたしました。ところで、そこの像は、どなたをお祀りしたものなのですか?」
「聖エレシア様にあらせらる」
「……というと、原初の人竜の?」
「聖エレシア様は、双無き神の中の神。豈他の誰あらむや……」
――人竜エレシアは、本当に存在していたのか! 神話上の想像の産物ではなく……。
「ぜひお会いしてみたいのですが、無理でしょうか?」
「そは難きやと。我にも、めったに会ひえぬ至高の御方なれば。
聖エレシア様の面識を求むといはば、汝の覚悟を示さざらばならぬ」
と、天狐は厳かな声で告げた。金色の瞳が心を見透かすかのように鋭く光る。
可能なら口利きを、と考えたのだが、そう甘くなかったか……。
「そうですか……では、その覚悟というのは?」
「心に御し難き闇を抱ふる者は、罷りならず。
聖エレシアの面識を得るには、己の心の闇と向き合はざらばならず。汝の逃ぐることなく試練を受け入れば、道は開くべし」
――まるで卒業試験だな……。
心の闇と向き合い克己した姿を見せよ、という趣旨なのだろう。できない者は、会う資格がないと……。
闇がどういうものかは、おおむね自覚した。自信はないが、それを制御できるなら……試練は、いい機会になりそうだ。
「わかりました。その試練を乗り越えてみたいです」
答えを聞いて、天狐は、僕の本質を洞見するかのように目を細めた。荘重として口を開く。
「ならば、汝の覚悟を示したまへ」
天狐は祠の中心に立ち、片手を空に掲げた。
その掌から光が放たれ、祠の床に刻まれていた古代文字が眩い輝きを放つ。
すると、床の中央に小さな裂け目が現れ、そこから漆黒の霧が立ち昇った。
「ここより先は、ただの闇ならず。そこに広ごるは、汝の心の奥底に眠る影。飲み込まれぬやう強くあれ。それに忍びきられぬ者は、この試練に己失ひ、永久に戻られぬ宿世に堕ちむ……」
天狐の警告が胸に響く。黒い霧にただならぬ気配を感じながらも、自らの成長のため、静かに裂け目へと足を踏み入れる。
裂け目をくぐると、そこには白い霧が立ち込めた空間が果てしなく広がっていた。音もなく、温度も感じないその場所は、現実とも夢ともつかない不可思議な雰囲気を漂わせている。
霧が次第に晴れると、僕の前に現れたのはリリアの幻影だった。
「倒れたといっても、重い病気じゃないみたい。一カ月もしたら帰ってこれると思うの」
と、リリアの幻影は、寂しげにほほ笑んだ。
――あの寂しさは、本物だ……。
そう思うと、胸がズキリと痛んだ。
リリアの幻影は、無感情に淡々と問いかける。
「なぜ、助けに来てくれなかったの? 若様だけが頼みの綱だったのに、何カ月も放っておかれた。
あのときの若様は、ただ目を逸らして見ないふりをしていたただけだったのよ。結局、私のことなんか、どうでもよかったのね」
その言葉に続き、過去の「幼い自分」の幻影が姿を現すと、大人びた口調で嘲笑しながら告げる。
「ただ自分が愛されれば、それで良かっただけなんだ。リリアの気持ちなんて、本当はどうでもよかった。そうだろう?」
あまりにも的を射た言葉に、心の安定が地すべり的に崩れる思いがした。
「リリアの気持ちは、本気の愛なんかじゃなかった」と、幼さを理由に勝手な想像をして、自分に言い聞かせて……それで罪悪感を軽くしていた。
――なんて厚かましく、思い上がった考えなんだ!
何もしない不作為も、ときには罪になる。
リリアが一ヵ月たっても帰ってこなかったとき、何らかの形で行動を起こしていれば……リリアは……。
周囲の景色がゆがみ、幻影たちが醜悪な姿へと変貌していく。
リリアは目から黒い涙を流し、幼い自分は影のような怪物に変わって僕に襲いかかる――、
が、胸が潰れる思いで抵抗できない。
たちまち幻影たちに追い詰められ、僕は膝を突いた。
周囲の空間は暗黒に包まれ、重圧が全身を押し潰さんばかりだ。
「僕は……僕は、どうして……」
心の中では、「逃げたい」という衝動と、「自分を責める声」がせめぎ合う。体が凍りつき、身動きが取れない。
「逃げるな。恐れるな。それは汝自身の一部……赦すのだ。そして、全てを受け入れよ、それが唯一の道だ」
と、どこからともなく声が聞こえる。
天狐の声か? それと僕自身の心の声なのか……?
声に励まされ、震える手でリリアの幻影と向き合い、語りかける。
「そうだ。僕は未熟で弱かった……。リリアさんのことを守れなかったし、独りよがりでりりアさんの気持ちを思いやることもできなかった。
でも、そんな自分を否定して、切り捨てることはできない。過去の弱い僕も含めての僕なんだ。それを全部引き受けたうえで、僕は前に進みたい!
いや、そうじゃないと進めない。偽りの自分ではダメなんだ!」
その瞬間、リリアの幻影が穏やかな表情を見せ、影が光に変わる。
「僕は、まだこれからだ」……と、呟きながら幼い自分の幻影も、霧のように消え去った。
すると、空間が輝き始め、僕の周囲に無数の光の文字が浮かび上がった。
光の文字が身体を包み込むと、その一部が手の甲に刻まれた。
「よくやりき。汝は己の影受け入れ、その力を内なる糧とせり。この文字は、道を示す鍵なり」
と、天狐の声が聞こえた。
気づけば、霧は晴れて祠の中に戻っていた。
手をかざして、手の甲に刻まれた古代文字「ע」を見つめる。
「ע」――それは古代文字アルファベットの一六番目の文字。今では対応する文字はないが、「o」に近い。もともと「目」という意味があるが、派生して「視線」、「邪視(魔眼)」などの多様な意味を持つ。
――これが鍵……か?
天狐は、「道を示す鍵」としか言わなかった。
経緯からいって、聖エレシアへ会うための鍵なことは違いない。
だが、生きる道を示す鍵でもあるのではないか? そんな気がする。
ふと、試練のことが頭を過り、呟きが漏れた。
「僕は、自分を赦せたのだろうか……? いや、一度赦して終わりというような、単純なものじゃない」
試練を終えたことで、心にわずかな安堵が生じた。同時に、これで終わりではないと、思いを新たにする。
天狐に一礼して祠を出ると、夕暮れの光が森の木々を照らしていた。
冷たい秋風が頬を撫で、深呼吸すると空気が澄んでいることに気づく。
その場で立ち止まり、これまでの二〇〇日間の修行の日々を思い返す。完遂した達成感を覚えて、微かなほほ笑みみが浮かぶ。そのとき――、
祠の背後で、ひびに覆われた岩壁が突如として光を放ち始めた。
その光は初め、夜明け前の星明かりのように淡かったが、次第に力を増し、黄金の輝きへと変わっていく。
岩壁に浮かび上がったのは、見たこともない古代文字の列。文字はまるで生き物のように脈動し、光の粒が岩肌を這うように揺らめいていた。
その輝きは僕の目を奪い、見つめるほどに胸の奥が高鳴り、血潮が熱く沸き立つのを感じる。
光に照らされた祠の内部もまた、いっそう神々しさを増し、辺りの空気は静寂の中に不思議な高揚感を帯びていく。
僕は、驚きながらも、次第にその文字を理解し始めた。
宇宙のごとき無限の知恵と慈悲の神コミモテノスからの贈りもの――無限の知恵を切り開く扉を開ける力を得た、と直感した。
「ע」は、その鍵でもあったのかもしれない。
そして、額の帝王紋もまた、熱を帯びていた。
僕の前には、果てしない未知の領域が広がり、無限の可能性を見いだした。
聡明法は成功したのだ、と実感した瞬間だった。
「これで終わりじゃない。これは……新たな旅の始まりだ」
秋の葉が風に舞う中、僕は再び森の奥へと歩き始める。