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棄てられ皇子の煩悶 :不遇の皇子は運命に抗い、自らの道を切り開く!  作者: 聡明な兎
第一部 棄てられ皇子の煩悶
14/31

意識の星海と道を示す鍵

 心の深層にある無意識(イド)、その深淵(しんえん)の奥底に(ひそ)残虐(ざんぎゃく)本能的欲動(リビドー)――あたかも、暗き森の奥深くに封印(ふういん)された()まわしい(けもの)のようだった。


 その本能的欲動(リビドー)の気配を感じ取って、想到した。

 これを(おさ)えるためだけに心を閉じるのは、過剰(かじょう)反応。心の未熟さが原因で、逃げていただけだ。

 そして結局は、自らが割を食う結果を招いていた。


 (おそ)れに背を向けるのではなく、正面から対峙(たいじ)し、その(たけ)りを制御する(すべ)を探るべきだ。

 自分の欠点や(みにく)い面を見るのは(つら)いことだが、本質を理解しないことには、制御はできない。


 本能的欲動(リビドー)に関しては、意識化できたことで、ある程度は理性の力で(おさ)えられるだろう。だが、それだけでは無理だ。ずっと抑圧(よくあつ)し続ければ、いつはか爆発してしまう。発散することも必要だ。


 どう制御するか?

 おぼろげに心象は浮かぶが、一朝一夕(いっちょういっせき)にできることではない。試行錯誤(しこうさくご)しながら、最適解を探り続けるしかない。おそらく、これが死ぬまで続くのだ。


 これまでの一〇〇日間は、深く瞑想(めいそう)するために、心を()り動かす雑念をやり過ごしていた。これらも同じだ。


 例えば、リリアへの愛の不条理な喪失(そうしつ)については、どうだろう?


 何の前触れもなく噂話(うわさばなし)を耳にしたのが、不意打ちだった。それだけに、動揺(どうよう)が大きくなり、心も体も過剰(かじょう)に反応した。

 

 そのとき、何を感じていたのか?

 リリアに捨てられた。

 自分を否定された。

 それにより、暗澹(あんたん)たる感情が胸を占拠したのではなかったか……?


 なぜ?

 自分の未熟さ、自信のなさが、前提にあった――それが否定された原因だと……、

 その事実を実感させられて、衝撃(しょうげき)を受けたのだと思う。


 その時の気分は、一言で言えば、絶望だ。

 もともと生きることに違和感を持っていた僕が、生きる意味を真剣に考えさせられる羽目になったということもある。


 しかし、客観的に、かつ、冷静に思い起こしてみるとどうなのだろう?


 最初に近づいてきたのはリリアの方だ。それで彼女を、より意識するようになった。

 僕の好意は深まったし、二人きりで歩くときは、気恥ずかしい思いもした。


 さらには、プレゼントもしたし、ファーストネームで呼びあう仲にもなった。あのときは、われながら、よく勇気を出せたものだ。


 だが、互いの好意を確認しあってはいない。

 リリアは一四歳で、僕は一二歳。成長期の二歳差は大きい。

 立場を変えみれば、僕はとても頼りない存在だったように思える。

 実は彼女は、庇護欲(ひごよく)のような感情を覚えていたに過ぎないのではないか?


 そうであるならば、二人の(きずな)など、しょせんは未熟な少年少女どうしの友愛に過ぎなかったのではなかったか……?


 僕は、一方的に恋だの、愛だのと思い込んでいた。

 だが、その実、親近感のオブラートに包まれた(あこがれ)れと似た感情だったのでは……?


 ノアの存在は(はる)か高みに思えて、(あこが)れしか抱けなかった。

 一方で、リリアは、なまじ年が近い間柄だったから、錯覚(さっかく)したのかもしれない。


 そんなことを考えた僕は、心が少し軽くなった。むやみに自分を卑下(ひげ)したり、責めたりする必要はない。

 とはいえ、喪失感(そうしつかん)は薄まっても、消滅(しょうめつ)することは一生ないだろう。

 

 僕は、過去の痛みを受け入れ、自分と向き合う決断を下した。

 心の葛藤(かっとう)を制御し、うまく付き合う。それにより過剰(かじょう)な心の抑圧(よくあつ)緩和(かんわ)し、前向きに生きる力に変える。それが重要なんだとわかりかけた気がする。


「オン コミムタノス アハルラ フナオ メッカ ボデルラ ハンダマ ジンバルラ ハラルブリティア オン」(コミモテノスの神よ、無限の知恵と慈悲(じひ)をもって、(われ)に無限の知恵を与え、(われ)(さと)らせ、光明(こうみょう)をもたらし(たま)え)


 聡明法(そうめいほう)を続けながら、心の内面を見つめ続ける。


 言語には、もともと魔術(まじゅつ)的力がある。これを口に出して発音することで、言霊(ことだま)が宿り、その力が増す。それは己の外面の大宇宙(マクロコスモス)と内面の小宇宙(ミクロコスモス)双方向(そうほうこう)に作用するのだと感得した。


 毎日一〇〇万回を一〇〇日以上。都合一億回以上唱えているのだ。もはや、真言は自己と一体不可分に思えるし、日々、魔術(まじゅつ)的力が増しているように感じる。


 葛藤(かっとう)が薄まり、心の内面が(おだ)やかになった。これに(ともない)い、瞑想(めいそう)も深さを増していく。本能のその先へと……。

 自我の境界線が薄まっていく……そのことに恐怖を覚えた。


 ――このまま、悠久(ゆうきゅう)(やみ)をさまよい続けるのでは? (もど)れるのか? 現実へ……。

 

 しかし、引き返すのも、今さらだ。


 何百日も続けた日々の瞑想(めいそう)により、心の奥底に巣食う葛藤(かっとう)は、静かに落ち着きつつある。

 代わりに訪れたのは、水鏡となった湖面のような静寂(せいじゃく)安寧(あんねい)――その感覚が次第に深まっていく……、

 やがて、ふと巨大な森林に抱かれて、これと溶け合っていくような感覚が訪れた。

 

 視界が明滅(めいめつ)するような感覚の中、心の底から支離滅裂(しりめつれつ)な言葉や画像の洪水(こうずい)が流れ込んでくる。縁もゆかりもない大都会の雑踏へ、突然放り込まれたようなものだ。


 取捨選択(しゅしゃせんたく)して理解しようと試みるが、モヤモヤとしていて、つかみどころがない。言語というには不明瞭(ふめいりょう)。目に映る画像というには現実味がない。あえていえば、概念(がいねん)のようなものか……?

 論理的に理解するものではなく、直感で感じ取るのが正解なのだろう。


 表現は難しいが、男=父=家長=権威……といった概念(がいねん)の原型となる心象といったところのもの。


「集合的無意識」というものだろうか……? 図書館にあった年代物の哲学(てつがくしょ)書で読んだことがある。そのときは、まったく理解が及ばなかったが……。


 それは、意味を成す言葉や画像ではないが、どこか(なつ)かしく、原初から自分に寄り添っていたような……何ものか──意識化不能な……?


 やがて……わずかばかり直感した。

 本能的欲動(リビドー)とは方向性が違うが、これもまた無意識(イド)の根底にあって、僕の心を制約している――、


 その瞬間、意識が広がり、星々の海を旅するような無限の空間へと(いざな)われる感覚を覚える。

 これが「その先」なのかと、自ら問いかける間もなく、光と(やみ)表裏一体(ひょうりいったい)融合(ゆうごう)している無垢(むく)な世界が広がっていった。


 ――これは⁉ 光と(やみ)、善と悪が未分化な世界……なのか?


 まさか、大宇宙(マクロコスモス)の創成()()()()の世界だと?


 いや、ここまで深い領域になると、時間の流れの秩序(ちつじょ)すら(あや)しい。なにも、僕が宇宙誕生の百数十億年より昔にタイムスリップしたわけではあるまい。

 おそらくは、現実世界は、このような未分化で曖昧(あいまい)なミクロの世界をも内包しているのだ。人は、それを認識できない、あるいは意識上に(のぼ)らないに過ぎない。


 そんなことを考えていると、僕の意識は覚醒(かくせい)した。二〇〇日が経過していた。


 ――これで終わり?

 

 僕は拍子(ひょうし)抜けした。あまりの静謐(せいひつ)さに、肩透かしを食らった心地がする。

 聡明法(そうめいほう)完遂(かんすい)したから、一挙に無限の知恵を得た完全無欠な人間になれる、というのも虫のいい話だが……。


 簡潔に言えば、よりよく生きるための(すべ)の手がかりを得た、といったところ。赤子(あかご)がよちよち歩きできるようになったようなものだ。


 だが、歩めない者。歩まない者。これと比べて、歩み続ける者の差は大きい。遅くとも、時とともに差は確実に広がっていく。

 そう考えるだけでも、聡明法(そうめいほう)(おさ)めた意味は見いだせる。


 一区切りがついたら、空腹を覚えた。

 食料調達のために森を探索(たんさく)する。季節が秋へ移り変わったことで、林檎(りんご)、野イチゴ、(くり)、ヘーゼルナッツなど、木の実や果実が多く収穫(しゅうかく)できた。


 程よく熟した林檎(りんご)の実で腹を満たすと、収穫物(しゅうかくぶつ)をいったん木の(うろ)に置いてきた。

 せっかく二〇〇日が過ぎたのだ。できれば、タンパク質も欲しい。


 密集する森の木々をかき分け、薄闇(うすやみ)の中を進むと、突如(とつじょ)、一帯だけ陽光が射し込む場所があった。その中心に、()ちて(こけ)むした(ほこら)が、ぽつんと(たたず)んでいる。


 (ほこら)の表面は風雨の浸食で(けず)られた跡が深く刻まれ、途方もない歳月を彷彿(ほうふつ)とさせる。


 内部には、一体の石像が()えられている。その顔は、雨風に削られて今や判別もつかないが、どこか見る者の心に不思議な静けさを与える。


 辺りには、古びた石の(にお)いや湿(しめ)り気が(ただよ)い、(ほこら)の周囲を包む空気は、まるでこの場所だけが時間が止まっているかのようだった。


 (ほこら)の前面は森の木々が途切れ、目の前が開けている。山裾(やますそ)まで広がる翠緑(すいりょく)の森を上から見渡すことができる。何と雄大な景色なのか……。


 地形から見て、(ほこら)は、聖エレシア神殿と山頂を結んだ線上に位置している。そうすると、神殿の奥社みたいなものなのだろうか?


 そう思えば親近感を感じる。ただ立ち去るのも失礼なので、石像へ祈りを(ささ)げる。そのとき――、


「こは? 人とはあり難し。千年ぶり二回目といひしところで負ふや……」


 その声に振り向くと、そこには純白の貫頭衣(かんとうい)(まと)った妖美(ようび)な女性が立っていた。

 風にそよぐ衣は、月光を宿したように淡く輝き、見る者を惑わせるかのように(あや)しく美装されている。


 だが、彼女の姿には、言い知れぬ違和感があった。

 人のようでありながら、人ではない何か──その金色の(ひとみ)には、(けもの)を思わせる鋭さが宿っている。

 耳元からは白銀の(きつね)の尾のようなイヤー・カフが()れていた――あれは本当に装飾なのか、それとも……。

 

 彼女が一歩近づくたび、空気がわずかに(ふる)え、(ほこら)の周囲に(ただよ)っていた湿(しめ)り気が霧散(むさん)していく……。

 場を支配する威厳(いげん)は、まさにこの地の守護者たることを示している。


 敵対する意思は感じられない。とはいえ、いざ戦闘となれば一筋縄(ひとすじなわ)ではいかないことは、その存在感が示している。

 無用な感情を押さえて、慎重に口を開く。


「失礼ですが、あなたは?」

(われ)は、(ほこら)の番人せる天狐(てんこ)なり」


 天狐(てんこ)は、千年以上も生きて天にも通ずる存在となった(きつね)だ。ならば、あの姿も納得ができる。


「それはお見逸(みそ)れいたしました。ところで、そこの像は、どなたをお(まう)りしたものなのですか?」

「聖エレシア様にあらせらる」


「……というと、原初の人竜(じんりゅう)の?」

「聖エレシア様は、双無(そうな)き神の中の神。(あに)他の(だれ)あらむや……」


 ――人竜(じんりゅう)エレシアは、本当に存在していたのか! 神話上の想像の産物ではなく……。


「ぜひお会いしてみたいのですが、無理でしょうか?」

「そは(かた)きやと。(われ)にも、めったに会ひえぬ至高の御方(おんかた)なれば。

 聖エレシア様の面識を求むといはば、(なんじ)覚悟(かくご)を示さざらばならぬ」

 と、天狐(てんこ)は厳かな声で告げた。金色の(ひとみ)が心を見透かすかのように鋭く光る。


 可能なら口利(くちき)きを、と考えたのだが、そう甘くなかったか……。


「そうですか……では、その覚悟(かくご)というのは?」

「心に(ぎょ)(がた)(やみ)(かか)ふる者は、(まか)りならず。

 聖エレシアの面識を()るには、己の心の(やみ)と向き合はざらばならず。(なんじ)の逃ぐることなく試練を受け入れば、道は開くべし」


 ――まるで卒業試験だな……。


 心の(やみ)と向き合い克己(こっき)した姿を見せよ、という趣旨なのだろう。できない者は、会う資格がないと……。


 (やみ)がどういうものかは、おおむね自覚した。自信はないが、それを制御できるなら……試練は、いい機会になりそうだ。


「わかりました。その試練を乗り越えてみたいです」


 答えを聞いて、天狐(てんこ)は、僕の本質を洞見(どうけん)するかのように目を細めた。荘重(そうちょう)として口を開く。


「ならば、(なんじ)覚悟(かくご)を示したまへ」


 天狐(てんこ)(ほこら)の中心に立ち、片手を空に(かか)げた。

 その(てのひら)から光が放たれ、(ほこら)の床に刻まれていた古代文字が(まばゆい)い輝きを放つ。

 すると、床の中央に小さな()け目が現れ、そこから漆黒(しっこく)(きり)が立ち(のぼ)った。


「ここより先は、ただの(やみ)ならず。そこに広ごるは、(なんじ)の心の奥底に眠る影。飲み込まれぬやう(こは)くあれ。それに(しの)びきられぬ者は、この試練に己失ひ、永久(とこしへ)(もど)られぬ宿世(すくせ)()ちむ……」


 天狐(てんこ)の警告が胸に響く。黒い(きり)にただならぬ気配を感じながらも、自らの成長のため、静かに()け目へと足を踏み入れる。


 ()け目をくぐると、そこには白い(きり)が立ち込めた空間が果てしなく広がっていた。音もなく、温度も感じないその場所は、現実とも夢ともつかない不可思議な雰囲気(ふんいき)(ただよ)わせている。


 (きり)が次第に晴れると、僕の前に現れたのはリリアの幻影(げんえい)だった。


「倒れたといっても、重い病気じゃないみたい。一カ月もしたら帰ってこれると思うの」

 と、リリアの幻影(げんえい)は、寂しげにほほ笑んだ。


 ――あの寂しさは、本物だ……。


 そう思うと、胸がズキリと痛んだ。


 リリアの幻影(げんえい)は、無感情に淡々と問いかける。

「なぜ、助けに来てくれなかったの? 若様だけが頼みの(つな)だったのに、何カ月も放っておかれた。

 あのときの若様は、ただ目を()らして見ないふりをしていたただけだったのよ。結局、私のことなんか、どうでもよかったのね」


 その言葉に続き、過去の「幼い自分」の幻影(げんえい)が姿を現すと、大人びた口調で嘲笑(ちょうしょう)しながら告げる。

「ただ自分が愛されれば、それで良かっただけなんだ。リリアの気持ちなんて、本当はどうでもよかった。そうだろう?」


 あまりにも(まと)を射た言葉に、心の安定が地すべり的に(くず)れる思いがした。

 

「リリアの気持ちは、本気の愛なんかじゃなかった」と、幼さを理由に勝手な想像をして、自分に言い聞かせて……それで罪悪感を軽くしていた。

 

 ――なんて厚かましく、思い上がった考えなんだ!


 何もしない不作為(ふさくい)も、ときには罪になる。

 リリアが一ヵ月たっても帰ってこなかったとき、何らかの形で行動を起こしていれば……リリアは……。


 周囲の景色がゆがみ、幻影(げんえい)たちが醜悪(しゅうあく)な姿へと変貌(へんぼう)していく。

 リリアは目から黒い涙を流し、幼い自分は影のような怪物(かいぶつ)に変わって僕に(おそ)いかかる――、


 が、胸が(つぶ)れる思いで抵抗できない。

 たちまち幻影(げんえい)たちに追い詰められ、僕は(ひざ)を突いた。

 周囲の空間は暗黒に包まれ、重圧が全身を押し(つぶ)さんばかりだ。


「僕は……僕は、どうして……」

 

 心の中では、「逃げたい」という衝動(しょうどう)と、「自分を責める声」がせめぎ合う。体が(こお)りつき、身動きが取れない。


「逃げるな。恐れるな。それは(なんじ)自身の一部……(ゆる)すのだ。そして、全てを受け入れよ、それが唯一(ゆいいつ)の道だ」

 と、どこからともなく声が聞こえる。

 天狐(てんこ)の声か? それと僕自身の心の声なのか……?


 声に(はげ)まされ、(ふる)える手でリリアの幻影(げんえい)と向き合い、語りかける。

「そうだ。僕は未熟で弱かった……。リリアさんのことを守れなかったし、独りよがりでりりアさんの気持ちを思いやることもできなかった。

 でも、そんな自分を否定して、切り捨てることはできない。過去の弱い僕も含めての僕なんだ。それを全部引き受けたうえで、僕は前に進みたい!

 いや、そうじゃないと進めない。(いつわ)りの自分ではダメなんだ!」


 その瞬間、リリアの幻影(げんえい)(おだ)やかな表情を見せ、影が光に変わる。

「僕は、まだこれからだ」……と、(つぶや)きながら幼い自分の幻影(げんえい)も、(きり)のように消え去った。


 すると、空間が輝き始め、僕の周囲に無数の光の文字が浮かび上がった。

 光の文字が身体を包み込むと、その一部が手の(こう)に刻まれた。


「よくやりき。(なんじ)は己の影受け入れ、その力を内なる(かて)とせり。この文字は、道を示す(かぎ)なり」

 と、天狐(てんこ)の声が聞こえた。

 気づけば、(きり)は晴れて(ほこら)の中に(もど)っていた。


 手をかざして、手の(こう)に刻まれた古代文字「ע(アイン)」を見つめる。


 「ע(アイン)」――それは古代文字アルファベットの一六番目の文字。今では対応する文字はないが、「(オー)」に近い。もともと「目」という意味があるが、派生して「視線」、「邪視(じゃし)魔眼(まがん))」などの多様な意味を持つ。

 

 ――これが(かぎ)……か?


 天狐(てんこ)は、「道を示す(かぎ)」としか言わなかった。

 経緯からいって、聖エレシアへ会うための(かぎ)なことは違いない。

 だが、生きる道を示す(かぎ)でもあるのではないか? そんな気がする。


 ふと、試練のことが頭を(よぎ)り、(つぶや)きが()れた。

「僕は、自分を(ゆる)せたのだろうか……? いや、一度(ゆる)して終わりというような、単純なものじゃない」


 試練を終えたことで、心にわずかな安堵(あんど)が生じた。同時に、これで終わりではないと、思いを新たにする。


 天狐(てんこ)に一礼して(ほこら)を出ると、夕暮れの光が森の木々を照らしていた。

 冷たい秋風が(ほお)()で、深呼吸すると空気が澄んでいることに気づく。


 その場で立ち止まり、これまでの二〇〇日間の修行の日々を思い返す。完遂(かんすい)した達成感を覚えて、微かなほほ笑みみが浮かぶ。そのとき――、


 (ほこら)の背後で、ひびに(おおわ)われた岩壁が突如(とつじょ)として光を放ち始めた。

 その光は初め、夜明け前の星明かりのように淡かったが、次第に力を増し、黄金の輝きへと変わっていく。

 

 岩壁に浮かび上がったのは、見たこともない古代文字の列。文字はまるで生き物のように脈動(みゃくどう)し、光の粒が岩肌(いわはだ)()うように()らめいていた。

 その輝きは僕の目を(うば)い、見つめるほどに胸の奥が高鳴り、血潮(ちしお)が熱く(わき)き立つのを感じる。

 

 光に照らされた(ほこら)の内部もまた、いっそう神々(こうごう)しさを増し、辺りの空気は静寂(せいじゃく)の中に不思議な高揚感(こうようかん)を帯びていく。


 僕は、驚きながらも、次第にその文字を理解し始めた。

 宇宙のごとき無限の知恵と慈悲(じひ)の神コミモテノスからの贈りもの――無限の知恵を切り開く(とびら)を開ける力を得た、と直感した。


 「ע(アイン)」は、その(かぎ)でもあったのかもしれない。

 そして、額の帝王紋(ていおうもん)もまた、熱を帯びていた。


 僕の前には、果てしない未知の領域が広がり、無限の可能性を見いだした。

 聡明法(そうめいほう)は成功したのだ、と実感した瞬間だった。

 

「これで終わりじゃない。これは……新たな旅の始まりだ」


 秋の葉が風に舞う中、僕は再び森の奥へと歩き始める。

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