霧の中の審判者
より清浄な地を求めて、再び山を登る。体が衰弱し、黒炎がやたらと思い。
そんな僕の前にある大きなフキの葉の上に、ナンフがふわりと姿を現した。陽気で好奇心旺盛な性格なので、僕に興味を持ったのだろう。
彼女は、憐れむような眼差しを僕に向けている。
「あんた、だいじょうぶなの? 今にも死にそうだけど……」
「山の清浄な霊気が僕を癒してくれる。僕は、死んだりしないよ」
「ふ~ん。ま、それも、そう……か……」
久しぶりに誰かと言葉を交わして、心が軽くなった。ナンフのかわいらしい姿も癒しだ。
不意に、マンティコアが襲いかかってきた。尾の毒針が風を切って飛んでくる。
既のところで回避すると、反射的に黒炎を抜刀して構えた。
マンティコアは、碧眼で人のような耳を持つ四足の人面獣だ。
赤土のような丹色の毛並みのライオンのような体で、足には肉食獣らしい湾曲した鋭い爪がある。
大きな口には、サメのような内向きの歯が三列あり、一度嚙みついたら逃さない。
最大の特徴は、蠍のような尾で、尖端の二股の刺し針は腕以上の長さはあり、尾の背には足ほどの長さの刺し針が二列に幾つも連なっている。この針を発射すると、射程距離は教会の尖塔の高さほどもある。
グァォォッ! と、大きく咆哮し、マンティコアは僕を威嚇した。その個体は異常な巨躯だった。ライオンどころか、頭胴長だけで僕の身長の倍以上ある。
大きく開けた口で唾液が糸を引く。生きている肉食獣の剥き出しの食欲が感じられて、現実感が弥増し、恐怖をそそる。狩の獲物は、紛れもなく僕なのだ。
正直、衰弱した体で肉弾戦はきつい。
自ずと魔術主体の攻撃を試みようと、風精霊のセレスティアを呼び出すよう念じた。
すると、マンティコアは即時に危機を察し、突進してきた。
――速いっ!
面食らった僕は、咄嗟に簡易詠唱で魔術を放つ。
「風刀!」
風刀がマンティコアを襲ったとき、すでに長槍の長さほどまで接近されていた。しかも――、
グァォォッ! と、マンティコアが再び吠えると、風刀はかき消されてしまった。
「まさかっ! 山の霊気で進化したのか……?」
マンティコアは咆哮に魔力を込め、蠟燭を吹き消すように、風刀をかき消したのだ。通常のマンティコアにはできない芸当だ。
想像もできなかった事態に、僕は驚きを隠せない。
だが、それで呆けている暇はない。
次の瞬間、マンティコアが高く跳躍すると、僕へ躍りかかる。
前足の鋭い爪の一撃を黒炎で何とか受け止めたが、あまりの威力に後方へ弾き飛ばされてしまう。
無様に地面を転がったが、すぐに体制を立て直して戦闘態勢をとった――と、同時に従魔を呼び出す。
「来い、マグナス! フェロックス!」
二頭とその率いる群が影から姿を現し、マンティコアの左右から挟撃しようと狙いをつける。
そのとき、またしても想定外のことが起きた。
仲間のマンティコアが追加で四頭、姿を現したのだ。最初の咆哮は威嚇だけではなく、仲間を呼び出す知らせでもあったということか……?
マグナスとフェロックスは、追加で出現したマンティコアの応戦に回る。
戦況次第だが、この個体は僕が応援せねばなるまい。
「風刀…風刀……」
近接戦闘は不利なので、魔術を連発する。
しかし、ことごとくが素早く避けられてしまう。
マンティコアが走る速さに、詠唱のキャストタイムが惜しい。しかし――、
しばらく交戦してみて、魔術行使の際、前駆物質の操作が、断然に上達していることに気づく。聡明法を通じて、意識より深い前意識や無意識の扱いに長けてきたのだろう。
これまでも簡易詠唱はできていた。それなら――、
頭にイメージを描くだけで、詠唱を破棄しても魔術を発動できた。
それでも、当たりそうになると咆哮でかき消されてしまう。ならば――、
試してみると、詠唱破棄なら風刀を二つ同時に操れる。これは、言葉を口に出していてはできないことだ。
それに、複眼思考も加速しているようだ。
然しものマンティコアも、一回の咆哮で二つの風刀は消せない。
攻撃の度に、傷が増えていく。
マンティコアは、足でかき乱し、ときに毒針を放ってくる。反撃の隙を見つけようと必死だ。
片や、対照的に僕は冷静になっていた。
「ここは、練習台になってもらおうか」
なんだか、捕らえた獲物をいたぶる猫の気分だ。
上達するにつれ、操れる数は増えていき、六つ同時も可能になった――これが限界か?
そして、遂にマンティコアの巨躯を地面に沈めた。
マグナスとフェロックスは奮闘していたが、敵もしぶとい。群の中には、毒針の犠牲も出ている。
敢えて急所を少し避けて攻撃し、援護する。
それで弱ったところを、二頭の群がなぶり殺し、憂さを晴らしていた。
その後、鷲の翼と頭、獅子の体を持つグリフォンにも襲われた。知らずに縄張りを侵してしまったようだ。
だが、六枚の風刀の敵ではなかった。
一つ目巨人のサイクロプスの仲間にも遭遇したが、体が巨大なだけだ。難敵とまでは言えなかった。
これらは、いずれも進化した個体で、以前の僕なら苦戦したことだろう。
さらに山を登っていくと、突然、辺りが霧に覆われ、空気が凍りついた。まるでその場の霊気が全て吸い取られ、冷たい闇に包まれたかのようだった。
霧の向こうからゆっくりと現れたのは、漆黒の瞳と漆黒の髪を持つ一人の女性――ノア。
その薄いほほ笑みが、まるでこちらの命運を掌握しているかのような冷酷さで、僕を見つめていた。
「ルーカス。こんな小手先の修行で、”博覧強記”を得られるとでも思っているのかしら?」
ノアの声は、低く冷たい響きを帯びている。
「僕は、エルフの長老たちの教えを信じます。それに、”博覧強記”は、心の深淵に潜む真実に迫る手段の一つに過ぎません」
天狗になるために”博覧強記”を求めているわけじゃない。それは、あくまでも過程の一つだ。それは、心得ているつもりだ。
「真実を見つけたいの? あなたはただ、過酷な山中で苦しんで、苦しみを努力だと勘違いしているだけじゃないの? そんなもの、何の意味も持たないわ」
辛くても努力をすれば報われる――それは、確固たる効果の裏付けがある信念なのか? 根拠に乏しい妄想に基づく願望なのでは……?
心の中で、静かに積み上げてきた信念が揺らぐのを感じた。
それでも――、
「僕は、自分のためにやっているんだ。誰に何と言われようと、これは僕の道だ」と、反論しようとした……、
が、それはノアの言葉で遮られる。
「知っているわ、ルーカス。あなたの中には父の血が流れている。残虐で残忍な猛獣のごとき本能を持つ血が……。
あなたがどんなに否定しようと、それがあなたの本質なのよ」と、ノアは冷笑を浮かべて断定する。
感じたことをズバリと言い当てられ、返す言葉がない。
「あなたが“博覧強記”になりたいと思うのも、結局はその呪われた血を払拭したいだけなんでしょう?」
僕は絶句した。内なる恐れを、ノアはまるで見透かしたように語り続ける……。
「でも無駄だわ。あなたは父親と同じ道を辿るのよ。殺し、奪い、そして自らの欲望に溺れて破滅する。それが、あなたの運命なのだから」
「僕は……そんな人間じゃない!」
と、我慢ならずに声を張り上げたが、動揺のあまり声が震えていることに気づく。
ノアの言葉が心の奥に刺さり、かつて自分が見ないふりをしてきた恐怖が、頭の中で渦巻く……。
「もし、ノアの言うとおりだとしたら? 僕はこのまま……」
内なる声が囁きかける。信じてきた修行の道すらも、その瞬間には何の意味もないものに思えた。
「こんな絶望の淵にあっても、やっぱり僕は、一人ぼっちだ……」と、僕は嘆息した。
無常感に打ちひしがれ、思考する気力も底を突こうとしている……このまま闇に沈むのだろうか……? 行き着く先は……「死」なのだろうな……。
そう考えたとき……、頬に熱いものが伝った。僕は泣いていた。
それが、イリスの哀しげな涙を想起させた……。
「そうだ……僕は、一人じゃない」
僕の頭に、イリスのほほ笑みが浮かぶ。彼女の存在は、いつも冷たい風の中で心を温めてくれた。
「僕は……イリスのためにも、諦めて死ぬわけにはいかない。成し遂げなければならないんだ!」
僕はゆっくりと顔を上げ、ノアを真剣に見つめ返した。
「たとえ父の血が僕の中に流れていようとも、それが僕のすべてじゃない。僕は僕で、父とは違う人間だ。人は、自分の選んだ道を進んで生き方を定めるべきだ。それが茨の道であろうとも」
「……ようやく、本当の意味で立ち上がれたのね」と、ノアが言った。その言葉は冷笑ではなく、どこか優しさが含まれている。
「ノアさん……?」
「私もまた、あなたの力となるわ」
戸惑いながらも、彼女の手を取る。
「僕のことを試していたんですか……?」
「そうよ、ルーカス。私が試練となり、そして支えにもなるわ。行きなさい、この先のさらなる高みへ……」と、ノアはほほ笑む。
「ありがとう、ノアさん」
「私を信じて。いつでも……あなたを見守っているから……」
そう言い残して、ノアは霧の薄暗闇の中へと姿を消した。
そこからかなり登ったところで、太い古木を見つけた。高いところの枝の付け根に、いい感じの洞がある。
そこを第二の修行場にして、聡明法を再開することにした。