禁忌の森と聡明の道
聖エレシア山は、山頂へ近づくほどに霊気が濃密になる。山上から吹き降ろす冷気と相まって、早暁の空気のような清涼さが感じられる。
伝説によれば、山頂には、この世の創世とともに誕生したとされる原初の人竜「エレシア」の住まう荘厳な大神殿が聳えているという。名を「アストラリス宮殿」という。
周囲の山肌を満たす霊気の源泉は、この神殿だと信じられている。
聡明法は、清浄な地で修めることが求められる。
僕は、霊気の源の山頂へ近づこうと、茨と岩の険しい斜面を登り、鬱蒼とした翠緑の森をかき分けて道なき道を登坂する。
そのとき、準備の修行を通じて感覚が鋭敏になっていた僕は、気付いた。森の木々に隠れながら、ひそかに僕を追尾する不審な影の気配がする。
――一人……二人……三人? あるいは、それ以上か?
ここは禁忌の領域。
一般人が立ち入るはずがない。村の住人が、僕を売ったとも思えない。
修行の件は、ことさらに秘密にしていなかったし、「人の口に戸は立てられぬ」といことか……?
想定が甘かったと言わざるを得ない。
目的は、僕がコミモテノス聡明法により力を得ることの阻止か?
だとすれば、ワトラム幽世領邦連合の手の者か? コームルス帝国を盟主とするアデラム同盟と緊張関係にあるから、おおいにあり得る。
あるいは、エレシア教に反発する邪教集団?
皇帝が僕に脅威を感じ、排除しにきたとは考えたくないが……。
数的不利があるので、戦術理論的には先制攻撃が常套手段だ。
だが、手出しをしていない者をいきなり攻撃するのもためらわれる――甘いのかな、僕は……。
試しに、獣道から外れ、あえて迷ったふりをしてグネグネと蛇行しながら進む。
だが、気配は執拗に追ってくる。どうやら、目標は僕で間違いない。しかも、簡単に撒ける相手ではなさそうだ。
覚悟を固め闘気を練ると、鬱蒼と茂る森の中へ、サッと身を潜める。ここなら敵を分断して、各個撃破するチャンスがある。
気配を探りながら、小声で詠唱を始め、森をかき分けて奥へと進む。
「風の精霊セレスティアよ。我に力を貸せ……」
セレスティアは、僕の意を察して、ひっそりと梢の陰に身を現した。
回り込んできた敵の一人が、サッと僕の前に立ちふさがる。
黒鉄の剣は持ってきているが、抜いていない。刀身が長いため、森での戦闘には向かないためだ。
敵は短刀を腰に構え、猛然と突進してきた。
その動きを見極めて、刃先を紙一重で躱し、返す拳に闘気を込めて敵のみぞおちへと叩き込む。
みぞおちは、人体の急所の一つだ。自らの突撃の勢いも上乗せされて、殴打の威力が増している。
敵は、痛みに苦悶の表情を浮かべると、跪いた。不用意にさらされた首筋へ、渾身の手刀を打ち下ろす。
ゴキッ――と、骨の砕ける鈍い音が響き、敵は息絶えた――、
と同時に、詠唱を完成する――背後から忍び寄る足音は、戦闘と並行して把握済みだ。
「……風刀!」
天空から放たれた風刀は、音もなく敵の首を両断し、ポロリと地面へ落ちる。切り口から|噴霧《ふんむ》のように鮮血が飛び散った。
「来い、マグナス! フェロックス!」
従魔にしてから二年がたち、二頭とも立派に成長したばかりか、群を率いている。
双頭の犬マグナスと、鋭い牙を光らせたダイアウルフのフェロックスの群が、一斉に残る敵へと襲いかかる。
敵は、僕が把握していた二人のほか、さらに一人いたようだ。計三人が無数の牙と爪でズタズタに引き裂かれて絶命した。
かなり遠くからガサッと音が聞こえたが、敵の監督者・監視者なのか、何かの動物が恐れて逃げたのか判断がつかなかった。
死体を見分してみる。
苦痛に歪んだまま固まって動かない青白い顔――嫌悪の感情が湧き上がり、激しい悪心にみまわれた。
たまらず口を押え、必死に耐える。
――間違いなく自分が殺した……。
人を殺したのは、初めての経験だった。
寸刻の後、心を落ち着けて観察してみる。
森で目立たないように、迷彩服を着ている。装備から見て、おそらくは専門の暗殺者なのだろう。
ベルトの留め具に、血のように赤い八本の矢印で構成された放射線状のシンボルがあった。
記憶を探ると、たしか「カオス教団」という邪悪な教団のシンボルだったはずだ。
混沌を理想とし、あらゆる秩序の破壊を目指す極端な無政府主義の教団だ。
目的のためには、狂気じみた暴力や殺戮を是とすることで恐れられている。
やっかいなやつらに目を付けられ、煩わしい。忌々しいが、追跡をかわさねばならない。
だが、一度見失えば、果てしなく広がる翠緑の森の中で一人の人間を見つけるなど、およそ不可能だ。
気を取り直して、さらに山を登る。
高地へ至れば、空気は薄くなり、気候も冷たく過酷になる。そして、何よりも濃い霊気――生命エネルギーの過剰作用が、僕の体に重くのしかかる。生命に必要なものであっても、多すぎれば毒になる。
酷い頭痛に吐き気が襲う。体の恒常性が崩れてきているのだ。
無理に聖エレシア山を登った人間は、体中から血を噴き出して死んだ……古文献にあった記述が脳裏をかすめる。
とにかく、急がず体を慣らしながら登るしかない。気持ちは急くのに、体がついていかないことが、じれったい。
聖エレシア山には、満ち溢れる霊気を求め、無数の動物や精霊、妖精たちが引き寄せられてくる。
これらは、中でも霊気が濃い中腹の翠緑の森において環境に適応し、独自の進化を遂げて、特異な能力を獲得していた。
これらには、凶暴な猛獣が進化したものもいれば、善良な妖精などもいて、多種多様だ。墓戸の一族に残された記録から、僕は、そのことを知っていた。
「きゃっ! あなた、人間なの?」
「ああ。そうだけど……」
花びらと葉のドレスをまとった小さな妖精が、大きなフキの葉の上にチョコンと腰かけていた。
気づかなかったら、振り落としていたかもしれない。
「まあ驚いたわ。人間に会うなんて、何百年ぶりかしら?」
「あなたは、もしかしてナンフなの?」
「ええ。そうよ」
ナンフは、花の妖精として知られる聖なる存在で、植物の力を持つ。霊的波長が高いので、霊感の強い者にしか見えない。
「それは、神聖なる妖精に出会えて、光栄だよ」
「エッヘン! 人間に姿を見せることなんて、滅多にないんだからね。感謝なさい」と、小さい胸を張っている姿がほほえましい。
だが、この山には凶暴な魔獣たちが巣食っていた。
ライオンに似た肉食獣ティラコレオ、長く鋭い牙を持つサーベルタイガー、黒い影のように忍び寄るニグルムジャガー、さらには、まるで大地の怒りを体現したかのような巨大なサイのエラスモテリウムや毒をたたえた蛇の王セラティスヴァイパまで――、
これに在来の狼などの猛獣も併せて次々と遭遇し、戦闘に至る。
手にした黒鉄の剣「黒炎」を振りかざし、魔術と剣技を巧みに織り交ぜながら立ち向かう。
ワーグ――狼に似た巨躯の魔犬は、群で連携して狩りをする。知性が高く、言語を解するのが特徴だ。
言葉を交わし合いながら、さながら一つの生き物のように連動した攻撃を仕掛けてくるのがやっかいだ。
従魔である双頭の犬マグナスとダイアウルフのフェロックスに、彼らの群の協力なしには、対抗しえなかった。
そうこうしながら、修行できそうな場所を探す。
ようやく、天に向かって突き立つ剣のような岩場を見つけた。ここであれば、魔獣などの攻撃の心配も少ないだろう。
剣の先端に位置する場所で、コミモテノス像を整え、そこを修行場とし、コミモテノス聡明法を実践していく。
日々、寒さと強風が厳しさを増す山の気候に耐えながら、神聖なる真言を唱え続ける……。
骨身を削りながら、この試練に立ち向かう――それは身体と精神の限界への挑戦でもある。
「オン コミムタノス アハルラ フナオ メッカ ボデルラ ハンダマ ジンバルラ ハラルブリティア オン」(コミモテノスの神よ、無限の知恵と慈悲をもって、我に無限の知恵を与え、我を悟らせ、光明をもたらし給え)
だが、徐々に体は衰弱し、疲労が蓄積していく……。
棄てられた皇子という自分の出自、己の心の弱さ、神託で示された父殺しの運命、墓戸の一族として忌まれる自分、ノアへの憧れ、リリアへの愛の不条理な喪失、神秘的なエルフ・イリスとの出会い……様々な思いに、僕の心は揺り動かされる。
それらに悩みながらも、瞑想を深めていく。心の小宇宙を探るのだ――深く、深く……深淵の底へ……限界へ挑むようにして……。
体の感覚がなくなっていく。食事もしていない。時の流れさえ見失って、時間の感覚がなくなる。
何日が過ぎたのか、それとも何ヵ月か……ただ暗闇に沈んでいく意識が続くだけだ……。
それでもかまわない。向き合うのだ。人の自我を越えた無意識を、さらに深いところにある本能を……。
ふと、線と線がつながった感覚を覚えた。
肉食獣のごとき残虐な本能――その苛烈さを自覚した。命持つ者を傷つけ、命を奪うことを、たまらない快楽に感じる。
それは、無意識深層の闇の奥深く――ここに、ひっそりと潜在しながらも、僕の心のありように影響を及ぼしている。
男ならば、何かしらの狩猟本能は持っている。ところが、それが異常なまでに強い。
実父の、暴あなたの血が確実に体に流れている事実に、その悍ましさに痛切な衝撃を受ける。
それを無意識に恐れ、心を閉ざした。
気が弱いのも、感情を表に出すのが苦手なのも、そのためだ。
結果、人間関係を拗らせ、袋小路にはまっていた。これでは、自爆もいいところだ。
そこまで思い至り、僕の意識は覚醒した。時計を確認すると、ちょうど一〇〇日目だった。
しかし、これでは終われない。まだ、原因がわかっただけ。やっとスタートラインに着いたようなものだ。ここからが、本当の始まりだ――。