孤高の修行と見えざる眼
村外れの森に足を踏み入れ、奥深くを目指していると、冷たい風が急にイリスを包み込んだ。
日差しが木々の隙間から差し込んではいるが、奇妙な薄闇が辺りを支配しているように感じる。
闇の怪物のことが想起され、おののきに似たものが、彼女の体を走った。
その時、後方から不意に柔らかい声が聞こえてきた。囁くようだが、なぜかよく通る声だ。
「やっと会えたわね……」
彼女は、その声に振り返った。
一人の女性が、優雅なほほ笑みを浮かべて立っていた。
髪は漆黒に輝き、瞳も深い漆黒の色をしている。成熟した大人の女性だ。
かすかな冷笑を口の端に含んでいるように、イリスには見えた。
同時に、森に広がる不気味なほどの静寂を感じた。恐れの感情が深まり、体温が下がっていくのを止められない。
「あなたは……どうして、ここに?」
イリスは憂いを断ち切って、そう尋ねた。
彼女のほほ笑みは、鋭い刃のような冷笑へと変わる。目を細めると、見下すような棘のある目つきでイリスを見つめた。
「私はルーカスの古い知り合い、ノア。訳あって、ずっとあなたを見張っているのよ」
その言葉には、どこか妬みと期待が混ざり合った複雑でぎこちない響きがあった。
「見張っている……? ただのお知り合いが、こんな森の奥まで?」
イリスの本能が警鐘を鳴らしている。それを押し込めて、さらに訪ねた。
「そう言うあなたは、ルーカスの恋人か庇護者にでもなったつもりなのかしら?」
初めて会ったのはずの彼女の言葉は、自信に満ちている。のみならず、皮肉な敵意までも感じられる。
実際、彼女が常人では抗いがたい傑物なことに間違いはない。まとう雰囲気が、すべてを物語っている。
「私はルーカスの友人のイリス。この村の住人で、彼の修行を手伝っています。
で、ノアさんは、いったい……?」
ノアは冷ややかな笑みを浮かべながら、イリスにはゆっくりと近づく。彼女の顎に手を添えると、強引に瞳を見つめた。
イリスは、底知れない深淵の闇をたたえたノアの視線に、威徳が備わった重圧を感じた。
まるで、すべてを見通そうとしているかのようだ。
「あなたは、本当にルーカスが高みを目指す助けになれているのかしら?」
ずばり問われた瞬間、イリスは血の気が引いた。立っているのもやっとだ。
「私は……」
答えに詰まったイリスに、ノアはふわりと肩をすくめた。そして、何の躊躇いもなく通告する。
「このままでは、あなたの存在を許せそうにないわ。
励みなさい……そして、あなたのことを、私がずっと見張っていることを忘れないで」
ノアの言葉は、イリスの心に強く響いた。だが、その裏では、ノア自身も何か重荷を背負っているようにも、イリスは感じた。
言葉に出せなかったが、イリスは決意を込めてノアの目を見つめながら、静かに首肯した。
ノアは、柔らかにほほ笑んだ。
少しだけ緊張がほぐれ、イリスの口角がやや上がる。何か通じるものを感じた気がした――その刹那、
思いがけず、ノアはイリスに軽く唇を重ねた。
イリスは、なぜか抵抗を感じなかった。
ノアの唇は温かく、そして何か神秘的な力が伝わってくる。
それを終えると、ノアは、森の闇へ溶け込むように姿を消した。
残されたイリスは、狐につままれた心持ちだ。しばらくの間、茫然と立ち尽くした。
◆
翌日から数日間、イリスは姿を見せなかった。
時折、様子を見に来るが、本当に食事を持ってこなくなった。
とにかく心を落ち着けようと、瞑想に集中する。
瞑想は、魔術の基本でもある。
これを行使する際、魔術師は、自らの意識=幽複体を星幽界へと飛翔させて活動する。
このためには、人の持つエゴを究極まで薄めなければならない。
これには、覚醒時には自覚していない、意識深層の無意識と向き合うために、深い瞑想が必要不可欠だ。
周囲から魔術が得意だと評価されていた僕は、瞑想もお手の物と思い込んでいた。なのに……、
(成長期のガキが食事制限なんて、無理に決まってるじゃないか)
(それでも、僕はやるんだ!)
(もっともらしい理由を言っていたが、本当は、イリスの前でいい恰好を見せたかっただけじゃないのか?)
(違う! 本当に、生きる意味を探したいんだ!)
(聡明法なんて効果が怪しい。自虐趣味を自慢したい惑乱した魔術師が考えたものじゃないのか?
やめちまえよ。どうせ意味なんかないんだ。楽になるぜ)
(長老様たちが教えてくれた聡明法を、僕は信じる!)
次々と湧き上がる否定的な思考――その一つひとつが、心の奥底に重く響き、意志を蝕んでいく。それらを打ち消し、前を向き続けた。そんな暗闇の中での終わりなき格闘の日々が続く……。
そんなある日、魔術の初級教本の記述を思い出した。
意識を切り替え、浮かび上がる雑念を浮かぶに任せる。
負の思考をいちいち潰すことが、瞑想の目的ではない。潜るのだ。内なる精神世界へ――深く深く……そこに無限の小宇宙が待っている。
瞑想の基本は、呼吸――吸い込むよりも、長く息を吐く。人は息を吐き出すとき、緊張が緩むからだ。
ひたすら呼吸に集中し、心を静めていく……まるで心に澱んだ悪いものを外界へと絞り出すかのように……。
感情のざわめきが次第に遠のいていく……松陰にさらさらとそよぐ葉擦れの風韻、きままな小鳥たちの囀り、催花雨の柔らかな雨だれ……不整合な音の交錯が、却って気分を落ち着かせた。
何もない闇の中で、自分自身の声が渦を巻いているようだった。
(やめろ、これ以上進むのは愚かだ)
(いや、耐えるんだ。僕はこの道を選んだ)
まるで鏡を無数に並べた暗い回廊の中で、行き場を失って彷徨するようだった。
疑念と信念が入り混じり、何が自分の本心かさえ見失いそうになる。
しかし、意識をさらに奥深くへと沈めていくと、徐々に頭の中に静寂が広がっていった。
闇の中に、かすかな光が見えた気がする。幽かな息吹のように、そこに存在し続けるもの――それが自分の深層意識であり、心の芯であることに気づき始める。
(これだ……この先に……真理がある……)
呼吸が整い、心が澄んでいく。遠くで木の葉がさざめく音が聞こえ、世界が静かに僕を包み込むような感覚に満たされていった。
その体験を深めながら二カ月がたち、四月になった。ようやく食事制限にも慣れ、孤立した環境でも、精神は落ち着きつつある。修行を続ける手がかりもつかんだ。
季節は春。仮に二〇〇日行をするなら、そろそろ本行を始めないと、終わりごろには冬に突入してしまう。
僕は腹を固め、この決意をイリスへ告げることにした。
イリスは伏し目がちに、ちらりと僕の顔色を窺っている。その瞳には、不安と憂いの色が深く宿っていた。
これまでの苛立ちが、どれほど彼女の心に負担をかけただろうか? それを考えると、気が重い。
「まだ自信はないけど、秋までには終えたいから、もう山へ入るよ。今まで、ありがとう」
「そう……それもそうね。でも……無理はしないでね。死んでしまっては、元も子もないんだから」
「本格的な修行は今までの比じゃない。これが最後の別れになるかもしれない」
イリスの表情が一瞬、凍りついたように硬直した。
「……最後なんて……何を言っているの?」
彼女の声はかすれ、目が潤んでいる。
「聡明法は厳しい修行だ。誰も成功を保証してくれない。でも、僕にはこの道しか残されていないんだ」
イリスは小さく唇を噛みしめ、俯いた。
「私のことは、どうでもいいから……生きて……それが約束よ。絶対に死なないって、言って」
彼女の声が震えている。顔は青ざめ、憂色を濃くしている。
「わかったよ。完遂できるかわからないけど、必ず生き抜くようにする」
「約束だからね! 死んだら許さないんだから。生きてさえいれば、開ける道はきっとある。
でも、村へ戻ってくることは、条件じゃないわ。もう、私にできることは何もないもの。あなたが成長するために、私を捨てることもあるのよね」
――戻らなくていいだって!
イリスの覚悟に、僕は衝撃を受けた。それほど、僕にとっての彼女の存在は大きくなっていた。
(参ったな……なんだか、振られた気分だ……)
イリスは、どんな禍も厭わない覚悟を決めたのだ。自分の幸福は二の次なのだろう。僕からの見返りなど微塵も期待していないに違いない。
だが、彼女は自分を過小評価し過ぎだ。それも、僕が彼女に心労をかけた報いに思えると、なんだか気がめいる。
とにかく、今は彼女を口説く場面じゃないことは確かだ。
「じゃあ、僕は行くよ」
僕は腑抜けた言い方しかできなかった。溌剌とした決意を示せない自分が、恨めしい。
イリスの頬を熱いものが伝う。耐えきれなくて、見て見ぬふりをした。
そのまま振り返えらず、聖エレシア山を登っていく。
イリスは涙をこらえられず、目元を指で拭った。
「どうして……私にできることがないの……」
僕は、後ろに彼女の言葉を聞きながらも、振り返らずに歩き続ける。決意を貫くために、心を固くして。
「……待って……」
イリスの震える声が、背中越しに届く。その一言に、僕は一瞬だけ足を止めた。
振り返りたくて仕方がなかったが、もし彼女の顔を見てしまえば決意が揺らぐことはわかっている。
唇をかみしめ、目を閉じて深呼吸を一つつく。そして、再び前へと歩き出した。
「……ルーカス、約束だからね……」
イリスの声がかすかに聞こえる。
イリスの瞳には涙が浮かんでいたが、必死にそれを抑え込んでいるようだった。彼女の手が小さく震え、服の裾を握り締めている。
(僕は……戻らなければならない。イリスさんを失わないためにも……)
そう心の中で何度も繰り返した。
僕は、振り返らないまま、ただ静かに聖エレシア山の道を一歩一歩登っていく。その背中に、イリスの悲しげな眼差しがいつまでも注がれているのを感じながら。