迷いと誓いの山路
「イリスには、さんざんお世話になっているけど、ご家族に挨拶もしていなかったね。今からお邪魔してもいいかな?」
「それなら、伯父と叔母に紹介するわ」
「伯父さん? ご両親は、どうしているの?」
「父と母は、連合の首都で暮らしているわ。
私は、聖エレシア山の霊気に触れたくて、叔父を頼ってこの村に滞在しているの」
「なるほど、そうなんだ」
イリスが住む家は、なかなか風雅な趣をたたえていた。
樹上に建てられた家は、まるで森の精霊が守護しているかのように古木の枝々が屋根を覆った下で、ひっそりと佇んでいる。周囲には木漏れ日が差し込み、そよぐ風が葉を揺らし、小鳥の囀りと囁き合うかのように合唱している。
イリスは、縄梯子を慣れた手つきで軽やかに登っていく。
女の子に負けてはならじと、急いで後を追う。だが、ふと彼女のスカートの裾がふわりと揺れて中が見えそうになり、慌てて視線を逸らした。
部屋の中は柔らかな灯りで満たされ、壁には古びたタペストリーが掛けられている。
イリスは、早速、僕を家族に紹介してくれた。
「伯父さんのアルヴィンと叔母さんのミーリエルよ」
「ルーカスと申します。イリスさんには日頃からいろいろとお世話になっております」と、人見知りな僕の挨拶は、緊張で声と表情が強張っている。
「おう、君がルーカス君かあ。なんだか初めて会った気がしないなあ。イリスから、あれやこれやと君の話を聞いているからなあ……」と、アルヴィンは陽気にイリスを茶化す。
「伯父さん、やめてよ。本人の前でそんなこと……」
イリスは、赤面し、恥じ入っている。
でも、否定はしないんだ……?
「あなた! イリスは花恥ずかしい年頃なんですから、からかうものじゃありません」
「おう、悪い悪い……」
ミーリエルに窘められて、アルヴィンはバツが悪そうだ。
暖炉の火がゆらゆらと揺れ、空気に木の香ばしい匂いが漂っている中で、アルヴィンが大きな声で笑いかけてくる。彼の声が響くたびに、暖かな空間に一層の活気が加わる。
会話が進むにつれ、アルヴィンの明るく気さくそうな性格が伝わってきて、緊張が解けていく。
一方、ミーリエルは静かな気品と繊細さを兼ね備えている印象だ。
おおざっぱそうなアルヴィンを支える姿が目に浮かぶようだ。
「ルーカス君は、ぜんぜんしゃべらないな。何か気に障ることでも言ってしまったかな?」
「いえ、そんなことは……」
こちらこそ気分を害してしまったか――少しきまずい。
「ルーカスは、これが普通よ。だまったまま無表情だと、怒ってるみたいだけど、そうじゃないから。
なまじ整った顔立ちをしているから、余計にそう見えちゃうのよね」と、イリスが微笑を浮かべてフォローしてくれた。ありがたい。
「なんだ、そうなのか。
イリスは、そのクールなところに惚れたわけだな」
「だから! なんで、すぐそういう話になるの!」と、イリスが顔を赤らめてぷいっと顔を背ける。
やがて話が進み、いつしか部屋の中の陽気な雰囲気が少しずつ落ち着きを帯び、静寂が訪れた。
暖炉に灯る火がほのかになり、壁に長く伸びた僕の影が揺れている。
イリスが真剣な面持ちで視線を下げると、空気に緊張が走り、部屋全体が重厚な静けさに包まれる。まるでこの場が「秘密の儀式の始まり」を告げる神聖な空間に変わったかのようだ。
ようやく本題である「コミモテノス聡明法」の話に移る。
「聡明法を修めるなら、長い間家を空けることになるでしょう。
ルーカス君は、ご家族には相談したの?」と、ミーリエルに憂い顔で聞かれた。
「いえ……まだ、伝えていません」と、僕の歯切れは悪い。
「本当のことを言ったら、反対されるわよね。私だったら、絶対そうだもの」
「……そうですね……」
返すべき言葉が見つからず、僕は視線を落としたまま黙り込んだ。
「何も、全部をバカ正直に話す必要はないさ。
いちいち母ちゃんの心配につき合ってたら、冒険なんざ夢のまた夢だぜ」
「そうかもしれませんが、何かしら家を空ける理由を説明しないと……」
話を聞くミーリエルの憂いが、深さを増した。
罪悪感を覚えるが、それでも折れるわけにはいかない。
「なら、この村で魔術の修行をする、とでも言っておけばいいんじゃないか?」
「それで、いいんですか?」
「もちろんさ。イリスが惚れた相手だ。
ここで一肌脱がなきゃ男が廃るってもんだ」
イリスは恋人じゃないと否定すべきか迷った。だが、水を差すようで気が引けたので、流れに任せてしまう。
「ありがとうございます、アルヴィンさん」
「なんなら、俺も一緒に行ってやるぜ。
口で言うだけじゃ、ルーカスの母ちゃんも心配だろうからな」
「そうしていただけると、助かります」
アルヴィンとイリスは、本当に僕の家まで付き添ってくれることになった。
両親の前で、努めて平静を装いながら説明する。嘘が露見するのではないかと、内心冷や汗をかいた。
「なるほど。ルーカスの魔術の腕は、たいしたものだからな。この機会に更なる高みを目指したいというわけか?」
「はい、父さん」
父アレクサンドロスは、僕の言葉に納得した様子だった。
しかし、母エレナは黙したままで、その顔には不安の影が落ちていた。
「ですが、エルフ族の村に人間が長期間滞在するなど、よろしいのですか?」
「エルフ族には閉鎖的なやつらも多いが、エレンディルは別格ですよ。
こちらから人間の町へ出向くのもしょっしゅうです。
それに、ルーカス君の魔術の腕は、村でも評判なんですぜ。みんな大歓迎ですよ」
「そうですか……それならば、どうぞよろしくお願いいたします」
「伯父はこんなですが、私と叔母でルーカスさんの面倒はしっかりとみますので、ご安心ください」と、イリスが折り目正しく答える。
「これは、こんなにしっかりしたお嬢さんに面倒をみてもらえるとは、一安心ですな」
「はい。お任せください」
値踏みをするようにイリスを見る母の目が、不機嫌そうだ。
それをわかって受け流し、ツンとすましているイリスも、相当なものだ。
女の怖い側面を垣間見た気がする。
とにもかくにも、なんとか家を離れる口実ができた。
善は急げとばかり、アルヴィンとイリスとともに村へ戻る。
とはいえ、いきなり本番というわけにはいかない。
急激に食事制限をしては身体がもたない。俗世から離れて、精神を統一し続けるには、徐々に慣らしていくことが必要だ。
村外れの静寂に包まれた森の奥にある小屋を、仮の修行小屋として使わせてもらえることになった。
森に入ると、ひんやりとした空気が全身を包み込み、足元の落ち葉がかさりとかさりと音を立てる。
森の奥に小さな小屋がひっそりと佇んでおり、木々の合間から淡い光が射し込んでいる。小屋の屋根には苔が生え、長い年月を経て静かに眠っているようだ。
風が吹き抜けるたびに木の葉がさざめき、まるで森が修行者を見守っているような、不思議な安らぎが漂っている。
そこで、修行生活の準備を進めていく。
食事の面倒は、イリスがみてくれる。小屋には、彼女以外の者が近づかないように配慮してもらった。
食事は、肉などを断ち、穀物も小麦から雑穀に切り替えて、最終的には山菜や木の実などだけで命を繋ぐ生活へと移行していく。
食事制限が始まると、次第に空腹と疲労でイライラが積もり、心を蝕み始めた。
森の静寂がかえって耳障りに感じ、イリスの小さな気遣いさえも神経を逆撫でするように感じる。
目の前の景色が薄闇に沈む中、イリスの柔らかな声がかすかに耳に届く――しかし、その労いの言葉の端々が、いちいち癇に障る。
「ルーカス。辛いだろうけど、頑張ってね」
(頑張っているところに、頑張れなんて言うなよ! これ以上追い詰めないでくれ!)
不満をぶつける言葉が喉元まで込み上げるが、唇をかみしめてぐっと耐えた。
表情へ出ないようにしたつもりだったが、イリスは苛立ちを察して、当惑した様子だ。
彼女は見られまいと顔を伏せたが、その瞬間、瞳が潤んでいるのが垣間見えてしまった。
彼女へ心労をかけた罪悪感で、焦燥に駆られる。
翌日、イリスが静かに小屋に入ってきて、簡素な木の台に夕食を置いた。
「ルーカス、今日は少し多めに作ったの。お腹空いているでしょう? これで頑張ってね」
その優しい声が、なぜか苛立ちをかき立てる。
(うるさい……どうしてわかるんだ、僕の辛さなんて――)
「いつも頑張れと言うけど、もう頑張っているんだ。君に僕の辛さが分かるはずもない。しょせんは他人だからな! 君には関係ないだろう?」
イリスは一瞬、驚いたように目を見開き、それから眉を寄せ、何かを言い返そうと口を開きかけたが、閉じてしまった。
沈黙が場を支配し、冷たい空気が小屋を満たす。
「ごめんなさい……ただ、手伝いたかっただけなの」と小さく呟くと、イリスは台の上の食事をじっと見つめた。
視線を逸らさずにいるその表情に、涙が浮かんでいるのがわかる。
その涙が、僕をさらに苛立たせた。
「親切の押し売りで君は満足だろうが、僕は辛いんだ!」
イリスは息を呑み、呆然としたように立ち尽くした。まるで、突然の嵐に見舞われた花のように、彼女の瞳には困惑と失望が混じり合っている。
沈黙が彼女と僕の間に降り立つ。今、ほんの少し手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、彼女の存在がひどく遠くに感じられる。
「なによ、それ? 勝手にすればいいわ! しょせん私は、他人だものね」
「ああ、そうさせてもらうさ。もう、食事はいらないから」
売り言葉に買い言葉で、僕もきつい言葉が出てしまった。
その言葉はイリスの驚きを大きくしたようだ。彼女は、瞳孔散大している。
イリスは、そのまま怒りを鎮めると、視線を伏せ、何も言わずに踵を返して小屋を出て行った。
その背中が揺れ、最後に一度だけ振り返ったときの目は、悲しみと混乱の色を帯びていた。
彼女の去っていった小屋の中に、どこからか冷たい風が流れ込んでくるようだった。
イリスの姿が消えた瞬間、後悔が胸を締め付けた。
(僕は……なんてことを言ってしまったんだ)
唇を噛み締め、俯いた。
冷たい静寂の中、風の音だけが耳元に残っている。その音は、まるで心の中に空しく響く懺悔の声のようだ。
「……謝りたかったのに……」と、呟くが、それを聞く者は誰もいない。
頭を抱え、小屋の隅に座り込む。
心の中で何度も自分を責めたが、苛立ちは消えない。
僕が選んだ道は、孤独な修行――他者との関わりを断ち切り、己の限界を試すものだと分かっていたはずなのに。
(結局……僕は一人ぼっちだ)