チョコレート・キス
「あぁ、もう、だから何で面倒くさがるんだよ!」
彩香の家の台所に、啓一が呼ばれていた。彩香と啓一は幼馴染で家も近い。その家の近さをいいことに、啓一が呼び出された形だ。
――チョコ作り手伝って!
と、号泣しているウサギのスタンプが、宿題をしていた啓一のスマホに、メッセージで送られてきたのだ。高校生にもなってまだチョコ一つまともに作れないのかと、啓一は散々彩香を馬鹿にしたものの、結局、彩香の家にやって来た。
「だって、大体わかるじゃん」
あらゆる分量をちゃんと量ろうとしない大雑把な彩香を、啓一はずっと叱っている。
「そういうのは、ちゃんとスタンダードなのが作れる奴の言う事なんだよ。無免許運転すんな!」
「チョコ作りに免許なんてないもん」
「あるよ! そういう――なんだよそれ!」
「グミ」
「だから、そういう隠し味とか、変なことするなって。ちゃんと作れるようになってから試せばいいだろ。最初から無茶しすぎ」
彩香は啓一に叱られてむくれながらも、なんとか、『生チョコ』を作ることができた。
冷蔵庫から取り出した生チョコは、売り物と比べると相当に不格好ではあったが、手作りらしい温かみがあった。
「おぉ……」
出来上がった生チョコを前に、彩香は感動の声を上げた。
啓一はというと、ほっと胸をなでおろしていた。
怪我をしたり、何か用具を破壊することもなく、無事チョコを作ることができた。それだけで、啓一は上出来だと思った。昔から、彩香が不器用なのを啓一は良く知っている。
味見として最初の一粒を、彩香が指でつまみ、口に放った。
とろっ――甘みが、口の中に広がる。
彩香は目を輝かせて、その場でとんとんと足を踏み鳴らす。
「兎か……」
啓一はあきれながらそう突っ込んだが、彩香は気にせず、とんとんとんと、啓一の肩を叩き、チョコが口の中から溶けてなくなると、言った。
「美味しいよ! ちょっと、食べてみ!」
「いや、俺はいいよ……」
「私のチョコが食べれないってのか!」
彩香はそう言うと、もう一粒を指でつまみ、啓一の唇のすぐ近くに持って言った。
「……」
啓一は一瞬、唇を開きかけたが、
「いらないって」
思い直して、差し出されたチョコを彩香の手ごと、気だるそうに払った。
少し、いら立ったような啓一の言葉と態度に、彩香の笑顔は一瞬で、不安顔に変わった。
「えぇ、なんで!?」
そう言う彩香に、啓一はため息を一つつき、
「もう胃が甘ったるいから無理」
と、適当に応えた。
「じゃ、俺帰るわ」
「え、もう帰る?」
「チョコ出来たし、俺の仕事もう無いだろ」
「……あ、ラブレター書くの手伝ってよ!」
「ふざけんな」
啓一はそう応えると、挨拶もそこそこに彩香の家を後にした。
「おぅ、少年、元気にしてるかね」
翌日、朝っぱらから啓一に絡んできたのは、陽菜だった。啓一と彩香の同級生で、二人の共通の友人である。そしてまた、啓一とは同じクラスでもある。
「何だよその絡み方」
啓一は鬱陶しそうに応えた。
「え、なぁに、朝からイラだってんじゃん」
むふふと、陽菜は意味ありげな笑みを啓一に向ける。
「別にイラだってねぇよ。なんだよ」
「なんだツミはってかい?」
「古い。何」
「え、いやぁ、幼馴染が告白する日の心境はいかがなもんかなぁと思って」
陽菜は、イタズラっぽく言った。
今日はバレンタインデー。彩香が、同じダンス部の先輩に告白する日でもある。チョコもラブレターも、そのためだった。そのことを、啓一も陽菜も知っている。
「別に、好きにすりゃいいじゃん。俺に関係ねぇし」
啓一が応える。
「昨日、チョコ手伝ったんでしょ?」
「まぁ」
「ケイは器用だからねぇ。いよっ、料理男子。モテるぞ」
「モテねぇよ、何だよ」
不貞腐れた様な態度の啓一に、陽菜はこっそり、バッグの中に持って来ていた贈り物を取り出して、啓一の机に置いた。
啓一は、首を傾げた。
リボンのついた白い袋。四角い箱が中に入っている。
「うん?」
「ハッピーバレンタイン!」
「なんかその掛け声違う気するけど……えと、チョコ?」
「そ。まぁ、私これでも女子だから。一年の感謝を込めてねぇ」
啓一は、思わずきょろきょろと周囲を見回し、そそくさとそれを、自分のバッグの中に入れた。
「まぁ、ありがと」
「あ、ホワイトデーは、全然気にしなくていいからね! 別に、エルメス欲しいとか言わないから!」
「言われても無理だし」
啓一が言うと、陽菜はケラケラと笑って自分の席に戻っていった。
昼休み、彩香と陽菜は一緒に食事をとることが決まっていた。
体育棟の二階。ジムに面した休憩スペースのテーブル席。運動部の筋トレマニアがダンベルを上げ下ろしする、ふん、ふんと力む様を眺めながらの昼食は、おつなものである。
「彩香選手、いよいよですね。心境はどうですか」
陽菜は、彩香の口元に拳でマイクを作りながら質問した。
しかし彩香は、
「うーん……」
と、額に皺を寄せる。
「あれ、やっぱキャンセルパターン?」
「いやぁ、そうじゃないんだけど」
「何、どしたよ」
陽菜が訊ねると、彩香はまた、うーんと、唸ったきり、難しい顔で黙ってしまった。
「チョコ渡して、告白するんじゃないの? 手紙も書いたんでしょ?」
「それがさ……手紙、書けなかったんだよね」
「え、そうなの? なんで?」
陽菜は、少し大げさに驚きながら、彩香に聞き返した。
しかし彩香は、そう聞かれても、応えられなかった。自分でもなんでか、彩香にはわからなかった。ただ、書けなかったのだ。
陽菜は、陽菜の沈黙に最後まで付き合った後、結んでいた唇を開いた。
「そういえば、ケイ、チョコ貰ってたよ」
「え?」
彩香は顔を上げた。
「あれでケイ、モテるからねぇ。マメだしさ」
「義理でしょ?」
「そう思う?」
「え、違うの? 本命?」
そう訊いた彩香の瞳は不安に揺れていた。しかもその動揺を隠すのさえ、すっかり忘れている。
陽菜は彩香の表情を見やると、小さく息をついて答えた。
「義理にも本命にもできそうなやつ。たぶん、可能性がありそうだったら、その子がんがんアプローチしていくと思うよ」
「え、誰? 同じクラスの子?」
陽菜は彩香から目を逸らし、
「わかんない。顔見てないから。チョコだけ見た。渡してるとこだけ。でも、そういうのは、雰囲気でわかるじゃん」
そう言うと、再び彩香の目を、盗むように見た。
彩香の瞳は揺れていた。
「まぁ、でも、彩香には関係ないか。彩香は、先輩だもんね」
からっと明るい声で、陽菜が言った。
今度こそ、彩香は黙り込んでしまった。
さっきの沈黙よりも、より深い沈黙。
ぱちり、ぱちりと、ジムのガラス張りの窓が音を立てる。
外は霙が、降り始めていた。
学校が終わり、啓一はいつも通り帰路についた。
歩いて二十分の距離。いつもは自転車だが、今日は、自転車の気分ではなかったので、徒歩通学。そして帰り道も、そのまま帰宅するのは何か嫌だったので、途中の公園に寄った。
暗い空から霙が落ちてくる。
啓一は屋根付きベンチに座り、ぼうっと公園を眺めた。
公園の芝生を、外灯がぼんやり照らしている。
――今頃彩香は、先輩に告ってんのか。
嫌だなと、啓一は思った。
その告白が上手くいったにせよ、上手くいかなかったにせよ、自分は彩香の友達で、きっと今後も、それ以上にはなれない。もし彩香が新しい恋をするとしたら、それは自分ではない、他の誰かだ。
「ヘコむなぁ……」
啓一の息が、白く広がる。
そうして暫く、啓一は、何を考えるでも無くぼうっとしていた。
そこへ、キキキっと、耳障りなブレーキの音が聞こえて来た。
なんだよと思いながら、啓一がそのブレーキ音の方を見ると、そこには、制服の女子生徒がいた。傘も差さずに自転車に乗っている。そして、こっちをじっと見ている。
――彩香じゃん。
しかし彩香の姿を見た啓一の心は、全く踊らなかった。
きっと、告白の結果を聞かされるのだ。自分は晩年、そういう役回りだと言う事は知っている。聞きたくないなぁと啓一は思ったが、しかしどうせ、聞いてしまうのだろうなと、そんな諦めもあった。
彩香は自転車を引いて、啓一のいる、屋根付きベンチにやって来た。
あぁ、もう――と、啓一はスクールバッグからタオルを取り出して、とぼとぼ、といった調子でやって来た彩香の肩や頭を、そのタオルで拭いてやった。
これは、結果を聞くまでも無いなと、啓一は悟った。
「――まぁ、そんなもんだよ、恋なんて。ドンマイ、ドンマイ」
啓一はそう言って、パンパンと、彩香の肩を叩いた。
「ねぇ」
「うん?」
と、啓一は、タオルの隙間から、彩香に見つめられているのに気づいた。
随分熱っぽい視線。目が潤んでいる。
「私、告白してないよ」
「え? なんで――」
「チョコも渡してない」
「ラブレターは?」
「書いてない!」
啓一は首を傾げた。
「何、ビビったの?」
「違うよ!」
彩香は、頭に乗せられたタオルを、ばっと掴み取り、ぎゅっと唇を結んだ。そうして、一心に啓一を見た。睨むのとは違う、何かを訴える様な瞳。
「な、なんだよ……」
啓一は、彩香の視線に困ってしまった。
「書けなかったの、ラブレター!」
「あぁ、そう。いやそれ、俺のせいじゃなくない?」
「ケイ君のせい!」
「なんでだよ!」
「だって――!」
彩香はそう言うと、ぎゅっと拳をグーにして、啓一の胸のあたりを見つめながら言った。
「書こうとすると、ケイ君のことが過ぎるんだもん! 先輩へのラブレターなのに、書き始めると、ケイ君の思い出ばっかりになっちゃって、何回も書き直したんだもん! でも、何回書き直しても、ケイ君のことばっかりになっちゃうの! なんでよ……」
彩香はそう言うと、こつんと、啓一の胸に額を押し付けた。
「ケイ君のせいだもん……」
彩香はそう呟いた霧、黙ってしまった。
啓一は困りながら、とりあえず、彩香の背中に軽く腕を回し、ぽんぽんと、優しく叩きながら、慰めるように撫でつけた。
そして啓一は、ずっと彩香には隠していた感情が、もうこれ以上は抑えられないと思った。理性とは裏腹に、彩香を抱きしめる腕の力が、だんだん強くなっていく。撫でるだけでなく、ぎゅっと強く、彩香を抱きしめたくなる。
啓一はどうしょうもなく、彩香の耳元で呟いた。
「彩香、俺、本当は――」
その時だった、啓一の唇を、彩香が唇でふさいだ。
一秒か二秒か、三秒ほどか、二人にとって初めてのキス。
唇を離した後、啓一は軽いめまいを覚えた。
そうして啓一は、そのままベンチに座った。
彩香は、ごそごそと自転車の前籠に入れていたスクールバッグを持って来て、その中から、チョコの袋を取り出した。彩香は、袋からチョコの箱を取り出すと、ベリベリと包装を破いた。
そうして、中の生チョコを一つ摘まみ、啓一の唇に持っていった。
啓一は、無言のまま口を開いた。
彩香の指の先ごと、啓一の口の中に入って来る。
とろっと、蕩ける甘さ。
「どう?」
彩香は、ベンチに座る啓一に、覆いかぶさるような体勢で訊ねた。
「うん、甘いけど――」
「私も食べる」
彩香はそう呟くと、啓一の首に腕を回した。
二回目のキスの味は、生チョコだった。