海にご注意 其之三
閑静な島であった。海のさえずり、木々のこだま、人々の笑い声。
レダ島は静かで過ごしやすい島であった…………のだが。
「レッド殿、喉は乾いておらんでござるか? 冷たい水を頂いたでござる!」
「レッド殿、こちらは新鮮な魚でございる。刺身にして食べましょう!」
「レッド殿、お疲れならばこのイズナめにお任せを───見事もみほぐしてご覧にいれましょう!」
「レッド殿」
「レッド殿!」
「レッド殿ォ~~~!」
レッドの名前を連呼する一人の少女がいた。
彼女の名前はイズナ───海で出会った戦闘大好き異常者である。
「……………はぁ、うるさくて敵わん」
「よかったじゃん。至れり尽くせりでウラヤマシー」
「人が困っている姿がそんなに楽しいか、コイツめっ」
「イデデデデッ! 頬っぺたつねんないでよ、センセー!」
木造のボロい小屋で濡れた服を吊るしている最中の二人が見える。
光の加減で赤色にも見える黒髪のレッドと、その教え子たる赤髪のゼフ。
イズナも合せて三人は無事に目的地であるレダ島へとやって来れたのだ。
「それにしても本当に困った。懐かれるのは悪い気はしないのだが……それがイズナだと、どうも素直に喜べん」
「お呼びになりましたかレッド殿───!?」
「気のせいだ。もう一度海にでも行ってこい」
「はいっ、イズナはもうい一度海に行ってきます!」
「はぁ………」
レッドは困っていた。本当の本当に困り果てていた。
あのイズナという痴女紛いの姿をした戦闘大好きっ娘が、まさか自分にこれほどまで懐くとは予想していなかったからである。
「気に入られた理由もらしいっちゃあ、らしいか」
「俺はもう教え子なんて取らんぞ。弟子なんてもってのほかだ!」
「諦めてくれるまで断り続けるしかないよ。………諦めるかなぁ」
「おい、やめるんだゼフ。そこはスッと断言してくれ。不安になっちゃうだろう」
イズナがレッドに懐いた理由。気に入った原因はおそよ二時間前にさかのぼる。
それは、空飛ぶ島と例えられてもおかしくないような巨躯の、エメラルドの角を生やしたお化け鯨を両断したときのこと。
暗雲を貫いて現れた灰色の手。数十本の指がついた手の平。螺旋を描いたような捩じれた腕は、この世ならざる異形。
差し込む光と恐怖を伴って降臨してきたのは紛れもなく「神」。
レッドたちがその存在と遭遇したときのことである。
★ ★ ★
「良い機会だ。たまには先生らしく授業でもしようか」
白い舟の上。茶色い革のズボンに白いシャツを着た男、レッドがいつもの「のほほん」とした調子で話し始める。
「話す」とは言いつつも、一方的に話しかける形になっているのは仕方ない。
何せ、対象となる二人、ゼフとイズナはガクガクと震え、膝を抱えている状態なのだから。
「お前たちが感じているモノは間違いなく「恐怖」だ。高いところが怖いだとか、暗い場所が恐ろしいだとか、そういった『どうしようもない』類のモノだ」
灰色の御手が現れた暗雲の隙間……光が差し込んでいるところから、まったく同じカタチをした小さな手が見える。
それは、小さいとはいえレッドたちの舟を指一本で沈められる大きさをしている。
すると……ビクンッと、獲物を発見したかのような動作をしたあと、恐るべきスピードで彼らの舟に迫ってきた。
「早いな………っと。本来なら一生関わることなく過ごせるんだが、稀にああいう手合いと遭遇することがある。常識では考えられない異質な能力を持った強大な存在───人は其れを言の葉に収め【神】と呼び、畏れ敬った」
迫る灰色の手をレッドはしっかりと目で捉え、舟から飛び出して木剣を側面に叩きつける。
灰色の手。レッド曰く神も驚いたことだろう。まさか、自分がたかが矮小な人間ごときに、木剣という刃すらない武器で殴られただけで、自身の手を吹っ飛ばされたのだから。
「かく言う俺も専門家じゃないから詳しいことは分からんのだがな。それでも、目の前のアレは間違いなく神だと言える。この出口の見当たらない空間も、襲い掛かってきた奇妙な魚たちも、恐怖も、すべてヤツの発する《神性》によるものだろう」
一本でダメなら二本で。
二本でダメなら三本で。
三本でダメなら殺しきるまで。
おびただしい数の手が隙間からあふれ出し、レッド目がけて一直線に襲い掛かる。
「少し揺れるぞ───。それで、神性というのは簡単に言ってしまえば神から漏れ出した力だ」
事も無げに、平然と迫りくる手に対処していくレッド。
木剣一本で次々と襲い掛かってくる手───神を捌く力は、もはや神業の領域を遥かに超えていた。
前後左右上下にいたるまで、四方八方から手が囲もうとも無駄。
彼はひどく冷静に両手で木剣をにぎり、鈴の音を幾度も鳴らしながら打ち払う。
自身はもちろんのこと、守るべき二人に危害が及ばない配慮まで見せ、舟から数十メートル離れた場所へ手が落下するよう調節している。
「ただ其処に居るだけで周囲の環境を自分に適したものへ変える───それが神性だ。理不尽で不条理で出鱈目で、ひどく自分勝手だろ? でもな、俺たち人間が小さな虫に気を使わないように、神様だってそうなんだ」
一段と高い水しぶきが上がる。ドンッ、ドンッ、ドンッと、つられて音が鳴る。
断続的に鳴る音は次第に連続的になり、それはレッドと手の攻防が激しくなっていることを表していた。
だが、神すらさばき切る彼の剣術は鈴の音を絶やさない。
いっそ踊っているかのように、舞を舞っているかのように手を打ち払う。
「自分の近くに羽虫が湧いたら叩くだろう。それと似たようなもので、神も俺たちを慮ってくれやしない。だから、本当なら「過ぎ去るまで待て」が一番正しい対処なんだ。こうやって抵抗するとより恐ろしい目に遭うからやるなよ?」
恐怖でガクガクと震える二人。震えながらも妙に聞こえやすいレッドの声に耳を傾けつつ、心の中で”抵抗なんかできるか”とツッコミを入れた。
そもそも視界にヤツを映しただけで目がつぶれるか、あるいは発狂して死ぬと言ったのは彼である。
良い例も、悪い例もあったものじゃない。
「………あぁ、もう一つだけ最悪な例だ。コレだけは決して真似をするな。絶対だ。絶対に真似をしようとすら思わないでくれ」
レッドには珍しく強い念押しをした。いや、念押しというより『懇願』に近いか。
「───……はぁ」
木剣を右手に持ち、左足を半歩下げる。
程よく脱力した構えに入った途端、剣士の雰囲気が変化した。
ゼフやイズナはもちろん灰色の御手、一番最初に現れた巨大な手がそれを察知。
小さいほうの手を全て差し込む光の中へ帰すと、今度こそ本気で殺しにきたのか、お化け鯨が稚魚にさえ感じられる巨大な手が迫る。
「”神と天災は過ぎ去るまで待て”───今日はこれを覚えてくれ」
左手を木剣に添える。
神は勢いを増して襲い来る。
男は息を吸い込む。
手が舟の真上まで一瞬にして到達した。
男は息を吐き、そして───……。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「く───っ」
「………頭が………割れる……!」
得体のしれないナニカが轟く。お化け鯨の鳴き声とはまた違った、脳内に直接響くものとも違った、より根源的なもの。
魂への攻撃と言ったほうが正しいのかもしれない。
恐ろしい声をあげたのは神だ。灰色の御手をレッドに斬られた神が、理解不能な攻撃を受けて悲痛の叫びをあげたのだ。
「退け───ッ! これ以上、敵対するというのならば容赦はしないぞ!」
滝のような流血をしている手に向かって叫んだレッド。ただ斬るだけでは済まさない、そういう雰囲気や凄味がいまの彼からは伝わってくる。
すると『パキ…パキキ…』と、鏡かガラスの破片が砕かれる音が鳴り始める。
なんと、人間を羽虫としてしか認識していない神が彼の言葉を理解し、言う通りに返っていくではないか。
灰色は見えなくなり、差し込んでいた光も消え失せ、ひび割れた空は逆再生でも見ているかのように元通りとなり、青い空が美しく目に映った。
「…………………………ふぅ。もう動いても大丈夫だ、二人とも」
「うん…………ありがと、センセー」
「はは………まさかこれ程とは。………ところでレッド殿」
「ん? 何だ、イズナ」
レッドは戦闘終了とばかりに息を吐く。木剣を腰へと差し直し、まだ青白い顔をしている二人に声をかけた。
一件落着。三人とも五体満足で生きている。まさに大団円に相応しい終わり方だろう。
しかし、一つだけ欠点を挙げるなら大変なモノが、まだ落下中であることだ。
「あの巨大な手……腕? が、落ちてきておりますぞ」
「─────あ」
それはそれは大きな灰色の手であった。
先の戦闘で斬り飛ばした手であった。
指先でレッドたちの舟を沈められるほど大きな手が、物理法則に基づいて落下をしているのであった。
「た………退避ィ~~~~~!!!」
どこに逃げろというのか、この男は。
才能以外まったくもってダメな「ダメレッド」のあだ名は健在か。どうにも最後まで格好がつかないようだ。
★ ★ ★
「舟は大破。オレとイズナを担いでレダ島に到着したはいいものの、途中で引っかけた海藻まみれの姿から魔獣と思われちゃったんだよねぇ。そいで、第一発見者の女の人を止めようと手を伸ばしたら水着を奪ってしまったと。冤罪だと分かってもらえてよかった、よかった」
「一から説明せんでも分かっているだろう。あの女性には申し訳ないと誠心誠意、謝罪したからこうして出てこれたんだ」
ため息を吐いたレッドは用意してもらった通気性抜群の服装、いわゆる甚兵衛と呼ばれるものに着替えた。上下ともに赤色で統一されたものは外からやって来た者の証明だ。
子どもであるゼフは上下が濃い青色となっており、女性のイズナは黄色。彼女の場合、大人用なのか子ども用なのか分からないが、聞かない方が無難であろう。
レダ島へ到着早々、魔獣に間違われ、水着を奪った痴漢として牢屋へ入れられたレッドたち一行。しかし、こうして誰一人として欠けることなく居られるのは、たしかにレッドの働きによるものだ。
「───で、結局のところ、イズナのことどうするつもりなの? 『弟子にしてくだされ!』って勢いすごかったけど」
教え子の投げかけた言葉にレッドは頬を搔く。
そして眉間にちょっとだけシワを寄せて「決まっているだろう」と言った。
「弟子は取らんし教え子も一人で手一杯なんだ。だから断る」
ハッキリと宣言した先生の言葉を聞いたゼフは、何だか妙に胸が温かくなった。
親以外からまるで除け者のような扱いをされてきた彼にとって、誰かの特別な存在になれたことは想像よりも嬉しく、ついつい口の端っこが上がっていく。
顔をむにむにとマッサージし、何とか笑っていることを悟られないようにすると今度はレダ島の話題に切り替えた。
「魚とかタマゴとか、生で食べる文化があるんだっけ?」
「比較的キレイな海で寄生虫も少ないからできることだな。醤油につけて食べるとこれまた絶品なんだ」
「ふ~ん。まだ生で食うってことに違和感があるんだけど、センセーが言うなら相当だね」
「あぁ、期待しててくれ」
レッドは準備ができたのか靴を履いて出ようとする。
すると、やや慌ててゼフも準備をして、建付けの悪い木製の扉を開いた。
目の前にはすぐに海が飛び込んでくる。島民の人々もいて随分と賑わっている様子。
「………そういえばさココって食事が特徴的なのと、珍しい石があるだけの島って言ってたよね?」
「正確には岩だ。どうなってるのか分からんが、ちっさい石ころの上に中がぽっかり空いた岩が乗っている。それも絶妙なバランスでな、嵐が来ても崩れないらしい」
「そっか………でもさ───」
ゼフは指をさす。前方の島民たちがいる方向へ指をさす。
「めちゃくちゃ観光名所化してんね?」
「…………………」
「のどかで静かな島だとも聞いてたよ?」
「俺にだって分からない事くらいある。ほんと、何でこうなった?」
目に痛い色で塗装された看板がズラリと並び、どこで作っているのだろうか際どい水着を着た男女がサーフボードを片手に波に乗って遊んでいる。
レッドの記憶によれば、健康的な褐色の肌をした島民が日々せっせと働き、時折来る客を相手に魚をご馳走するのが定番だった。しかし、何かに目覚めてしまった島民たちは、もはやレッドの知る働き者の人々ではなくなっていたようだ。
漁で使われていたであろう舟はボロボロで手入れがまったくされていないことが分かる。網もそこらじゅう虫食いのように穴が空き、釣り竿なんかの道具は壊れているものしかない。
「ふぉっふぉっふぉ、これはこれはレッド殿、お召し物は合いましたかな?」
すると、島の様子に困惑していた二人へ話しかけてきた者がいた。
他の島民と同じく健康的な褐色の肌に立派な白いヒゲを蓄えた老人と、そのすぐ後ろを付いて歩く小さな女の子。
到着早々にやらかしたレッドに対し、やや恭しすぎるのも無理はない。彼の誤解を解くついでに島へどうやってたどり着いたのか、その経緯を説明した途端、島民の態度がガラリと変化したのだ。
「ええ、【チャオ】殿が用意してくれたこの服、なかなかに気に入りました」
「なんのなんの。レッド殿とお連れの方は我々にとって非常にありがたい存在。なんせ、あの魚の化け物を退治できるお強い方なのですから」
灰色の手───神。
奴の存在はもちろんレダ島にも被害を及ぼしており、あの魚たちのせいで島から出ることも入ることもできないでいた。
そんな矢先、魚たちを切り伏せて強引にやって来たと言ったレッドたち三人は、島民にとって久しぶりの嬉しい吉報であったわけだ。
「改めまして、ようこそお出で下さいました。レダ島の代表者として、お三方を歓迎いたします」
「数日の間、ご厄介になる。………ゼフ」
「あっ、お……お世話になりますっ!」
「ふぉっふぉっふぉ! それでは、島の案内はこの者にさせましょう───【ピピ】」
シワまみれの手で後ろの女の子を呼び寄せた。
漆黒の髪と金色の瞳が美しい女の子だ。
ピピと言う名の子は一度だけお辞儀をすると、ゼフの横に並ぶように移動する。
「何か御用がありましたら気兼ねなくその子を連絡係として使って下され。ワシは基本、自分の家から出ませんのでな」
「了解した。……………ところでイズナは何をして?」
「おや、イズナ殿でしたら大物を獲ってくると言って海の方へ………ああ、返ってきましたぞ」
「「「おぉ~~~~~~~~~~~!!」」」
「ブラック殿ぉ~~~~~~~~!!!」
チャオの指さす方向へ目をやれば、そこに居たのは頭から足先まで全身血まみれのイズナの姿。
「血まみれ」とは言うもののそれは彼女から流れ出た血などではなく、全て頭上にかかげた魚の頭からこぼれ落ちたものである。
鮮血を浴びながらニッコニコな彼女。尻尾をブンブンと振る幻覚まで見始めたレッドは額に手をやっており、痛くもない頭痛がしていそうな様子。
「マグロでござる! 今夜はこれを頂きましょうっ!」
「あ………あぁ、マグロの頭は旨いからな。ありがとう、イズナ」
「ハイッ! 師匠に食事を届けるのも弟子の務めでありますれば、このイズナ───たとえ嵐が来ようとも獲って参ります!」
「師匠じゃないし弟子じゃない」
「はっはっは! またまた~~~!」
「うん、この人、他人の話を聞かないタイプだ………」
手をひらひらさせて、さも自分はレッドの弟子であるのが当然とばかりにおどけるイズナ。
彼女の様子に頭を抱えるレッドと、呆れた目で見るゼフ。すると、ゼフのすそをクイクイと引っ張る感覚。
ピピが彼のすそを掴んでいた。
「ど………どうしたの?」
瞬きを全くせず無表情な彼女だが、その人形のような可憐で美しくカワイイ容姿はゼフを少しだけドキリとさせ、頬に朱を差し込ませる。
「……………………………………案内」
そこそこ間をあけて発した言葉がソレだった。そして、その一言を言い終わるとクルリと反転して歩いて行ってしまう。
背中で語る。何とも漢らしい表現ではあるが、ピピの場合は単純にコミュニケーション不足なだけだ。
師匠でないと言い張るレッドと、弟子のポジションを強奪しようとしているイズナ。その二人を呼び、急いで彼女の後を追う。
「だから教え子はゼフだけでいいと何度言えば分かる」
「はいっ。なので拙者は弟子ですね!」
「弟子も取っていない。お前は弟子じゃない」
「はっはっは!」
「何一つ可笑しくないぞ。………ゼフからも言ってやってくれ」
「もうっ、そんなことより早く行くよ! ピピが先に行っちゃって………あぁ、もうあんな遠くまで」
レダ島へは無事にとうちゃくしたレッドとゼフ。
自称・弟子もそろった三人はピピの案内の下、島を回るのであった。
だが、三人は知らない。あの灰色の御手と再び相まみえようとは、予想だにしていないのだった。