海にご注意 其之二
レッドとゼフの二人は、ジュペートの街からレダ島へと向かう。
道中、道に迷ってしまったと思った矢先、とある少女と出会うのだが……。
「なあ、センセー?」
「……………………」
「センセー、これってもしかしてさ………」
「云うな、俺だって薄々わかっているんだ」
「道───間違えてるよね?」
赤い髪に自分の背丈よりほんの少し低い剣を背負った少年ゼフは、剣術を教えてもらっている先生のレッドへ、ザクッと心にささる言葉を投げかけた。
二人はジュペートの街から出港し、融通してもらった白い舟を漕ぎながら当初の目的地であるレダ島へ向かっている途中だ。
ジュペートからレダ島までの距離は近くはないものの、そう遠く離れているワケでもない。舟を漕いでもせいぜい二時間ほどだろう。
しかし、レッドたちの舟は漕いでも漕いでも一向に島に着く気配がない。それどころか周囲を見渡してみれば陸地が何処にも見当たらないのだ。
「おかしいな……確かに航路は間違えていなかったはずなんだが、どこで迷った?」
「もぉ~~~どうすんのさ? このままじゃヤバいって!」
「ゼフ、あまり騒ぐと危ないぞ」
「騒ぐに決まってるでしょうが! このままだとオレたち死んじゃ───」
自分の先生より危機感のある教え子のゼフは、遭難しかけている現実を前にちょっぴりパニックになっていた。
まだ二桁も人生を歩んできていない彼にとって、遭難は魔獣と出会うくらいにピンチなのだ。
そして、今まさに彼を襲わんとする影が水面から姿を見せる。
「シャアアアアア─────ッ!」
「ギャアアアアア─────ッ!?」
「ほぅ……………?」
手足の生えた魚───形容しがたいソレを表すなら、こう表現されるだろう。
ヌルリとした光沢に筋肉質な手足、ギョロリとにらむ目玉とギザギザの歯は知性の欠片も感じさせない。
「シャアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
「せ、センセェェェエエエエエッッ!!!」
野生の動物よりなお恐ろしい外見をしたソレは、レッドたちの舟へ乗り込んできたかと思えば、すぐさま近くにいたゼフへと牙を剥く。
年相応の叫び声を上げ、正体不明の気色悪い生物から身を隠すようレッドの後ろへ回ると、何を考えているのか頼った大人はどこか怪訝な顔をしているだけだった。
「妙だな……う~~ん?」
「キシャシャシャシャシャシャシャッッ!!」
「センセー? センセー!? センセーったら!!」
「おぉ……揺らしてくれるな、胃の中のモノがあいさつして来そうだ」
そうこうしているうちに仮称・魚人は、その筋肉質な両手足でもって大跳躍。
ビチビチと尾ひれをバタつかせながら一直線にレッド目がけ突進し、鋭く尖った歯がまぶしく思うほど大口になれば、ギュルンと回転まで加えてきた。
狙われている当の本人はゼフの妨害により絶賛デバフを食らっている最中。目の前の奇々怪々で珍妙な生物よりも、胃の中の内容物が外界へまろび出ないよう必死だ。
───とてもじゃないが剣を振って戦うことなどできない。
顔面を青白く染め上げたレッドはそう物語っているかのよう。
”絶体絶命”の言葉がゼフの脳裏に浮かび上がって来た瞬間のこと───彼女は現れた。
「千里の山嶺へ続く白き雲海を踏み砕きて久しく、天下太平の世にて生まれ落ちた赤子、焦がすほど煌く命の輝きを追い求め、いざ参らん─────!!」
ザッパァーーーーーンッ!!
海から飛沫をまとい登場したのは何とも防御力の薄い女───時代が時代なら『痴女』として騒がれるほど肌色の多い彼女は、準備していたかのように口上を述べ、勢いそのままに腰に差してある刀を抜く。
「シャ…………………ッ!?」
「妖怪、物の怪、怪異、異形、魔の者───!! 人を襲わば其れすなわち『斬り捨てるべし』ッ! さあ───貴様の首級を寄こせェェェッ!!!」
陽の光を反射させた銀色は吸い込まれるように敵の首へ目がけ奔る。
一、二、三………計七回。魚、あるいは人間の出来損ないに彼女の獲物が通れば、皮も肉も骨も臓物も───全てがバラバラに斬り捨てられ、悲鳴をあげるヒマもなく海の藻屑と化す。
海面へ肉片がボトボトと落ち、美しい青が奥底からだんだんと真っ赤に染まっていく光景を見たゼフは、レッドのように少しだけ顔を青くしていた。
「……っとと、そこな御仁と童、大事はござらんか? いやぁーーーついつい気合が入ってしまった故、誤って舟ごとバッサリいってしまったかと思ったでござる!」
さも当然のように舟へ乗り込んできた彼女。長い黒髪を後ろでまとめ上げ、頬に大きな十字の傷を携えながらも、潤んだ瞳は少女のように”人懐っこさ”を醸し出す。
そんな彼女は黒いインナーに鉄の胸当て、手甲、佩楯、臑当、草履、それから申し訳程度の布を身に付け二人の前に現れた。
身長はおよそレッドの頭一つ分ほど小さく、どこか華奢な印象を与えてくる。しかし、実際は戦闘に特化させた肉体であること、見た目以上の膂力を秘めていることは事実。
加えて、この人懐こそうな雰囲気とは裏腹な、血肉を求めている『獣性』は紛れもない異常者である。
「い………いや、助かったよ、ありがとう」
「はっはっは、なんのなんの! しっかりとお礼が言えるのは素晴らしいでござるな童」
「ヴォロロロロロロロ………うぉえええええええええええ!!!」
「いえいえ、礼などには及びませんとも!」
「吐いただけだよねぇ!?」
ついに我慢の限界が来たのか、レッドは血で濁った海へと虹色のナニカを放ち、少しだけ酸っぱい臭いをまき散らした。
何とか二人の介護もあって会話ができる状態まで回復した彼は、改めてお礼をしつつ自己紹介をした。
「俺はレッド、各地を旅しようとしてる旅人みたいなヤツだ。そんでコイツが……」
「オレはゼフだよ。センセーに付いてまわって剣の修行をしてる」
「改めまして、拙者、日出づる東の國より剣術の修行をしに参りました【イズナ】と申すもの。以後、お見知りおきを───!!」
ペカーーー! と、お日様のように明るい笑顔で挨拶をするイズナ。
その表情には先ほどまでの剣呑な、あるいは鬼気迫る気配など微塵も感じさせない。
明るく、人懐っこく、真っすぐで、純真無垢な一人の少女がそこには居た。
『一緒ですな!』と、ゼフの両手を握ってブンブンしている様は、まるで同志を見つけた子犬のようである。
しかし、一瞬でも垣間見えた彼女の異常者としての側面がゼフの頭の中に居座り、子犬ではなく獅子にでも甘噛みされている雰囲気だ。
「ふむ……すると、お二人は食べ物目当てにレダ島へ?」
「そうなんだけど、センセーが道に迷っちゃってさぁ………」
「非難の目を向けんでくれ。これでもしっかりと進んできた筈なんだ。俺は悪くない」
「間違えてんじゃん! 間違いなく間違えてんじゃん!」
「待たれよゼフ、レッド殿の仰っていることは嘘ではござらん」
「へ───?」
何か確信めいたものを孕んだ彼女の言葉。
そのあまりの堂々たる様にゼフは呆気にとられ、次の言の葉を待つしかない。
「ジュペートの街からレダ島へ向かう途中の”舟が消える事件”は知っての通り、本当に消えてしまうのでござる」
「まるで見てきたような言い方だけど……………まさかっ、イズナが舟を斬って沈めたんじゃ!」
「失敬な童でござるな、ゼフは。知っているのは実際に見たからでござるよ」
イズナはレッドたちが舟を出す数日前、同じように舟を購入してレダ島へと向かった。
道中には複数の舟が前後左右にぶつからないよう並び、天気もよく風も穏やかで非常に恵まれた条件のもと、彼女たちは舟を進めた。
最初の『違和感』は島まであと半分という距離に差し迫った頃、周囲の舟の数がなんとなく少ないことに気づいた、ある船乗りが出たときに始まる。
「”少ない”───と言った本人が目の前から突如として消えてしまった。まるで神隠しのようでござったな」
イズナ自身、違和感の正体をつかめずにいたところ、気が付けば自分も”神隠しに遭っていた”と言う。
帰る手立ても脱出する手段もないまま漂流し、持っていた飲み水や泳いでいる魚で飢えをしのぐこと数日。たまたま通りかかった舟───レッドたちが襲われる瞬間に出会い、そうして今に至る。
「ほら~~~、俺悪くないじゃ~~~ん」
「なァにが”ほら~~”なんだよっ! 神隠しなんていうありえない状況に陥ってんだよ? 何で平然としていられんのさ!?」
「「まあまあまあ」」
「仲良いなアンタら───ッ!!」
迷子、遭難、神隠し………いずれにしても危機的状況には変わりなく、かといって打開する手立ても無し。
このまま漂流していても助かる見込みはない。イズナが数日間さまよっているのがその証拠だ。
現在、レッドたちの食料はゼフがそこそこ買い込んでいたおかげで数日ばかしはもつ。最悪の場合、海にいる魚たちを獲って食えば何とかなりそうだ。
だが、目下最大の問題は「飲み水」である。人間というのは食料が尽きたとしても十日から二十日は生存できるが、水を摂取しなければ五日ほどで死んでしまう生物なのだ。
海水を飲料水にすることは可能ではあるものの、レッド一行がそんな道具を持ち合わせている筈もなく、仮に持っていたとしても三人分の量を確保することは難しい。
「あぁ……このまま干乾びて死ぬのか………?」
「むっ───? 少し静かに。何か妙な気配が近づいておりまする」
初めての遠出で命の危機に瀕しているゼフは、あんまりな現実にウンウン唸っていると、それをイズナに静止される。
彼女は手を掛けた刀の鯉口を切り、再び獰猛な獣の側面をにじませつつあった。
それもそのはず、水面下には無数の影が忍び寄っていたのだ。
「わはッ♪ たくさんの敵ですぞ、お二人とも!」
「もうやだ………何でこの人、敵に囲まれて嬉しそうにしてんの?」
「頭のネジが何本かぶっ飛んでいるからじゃないか?」
「いやぁ照れますなっ!」
「誉め言葉じゃない───って、来たよ!?」
下から次々と海上へ飛び上がってくるのは、先ほどの奇怪な魚と同じく、四肢がついた魚類。
ヌメった光沢を放ち、その鋭利な歯で攻撃してくるのも同様だ。
イズナが完全に抜刀すると、それにつられゼフも背中の剣ではなく、腰に差してあった木剣を構えて迎撃の態勢へ移る。
「うっぷ………。あまり激しくせんでくれよ?」
「善処いたしますが期待はしないでくだされっ!」
「もうっ、センセーの役立たず!」
一方レッドは青白い顔をしたまま、口に手を当てていた。
イズナの期待できなさそうな明るい返事と、教え子の非難が木霊する。
だが、会話を挟んでいられる時間は過ぎた。四方八方から襲い来る怪物たちは、ふざけた見た目に反して確実な殺傷能力を有する。
「一刀流・玖ノ型《時雨》!」
「わ………技名?」
「一刀流・拾肆ノ型《銀閃火》! 拾漆ノ型《落陽》!」
群がって来た魚たちを一瞬にして斬り伏せたイズナの技《時雨》。そのあまりのスピードに、やや遅れて敵の首が転げ落ちる。
すると、カッコイイ技名とともに敵を倒す彼女の姿は、ゼフにとってかなり輝いて見えた。
自分は頼りにならない先生を横に置いて、ただひたすらに木剣を振るうだけ。出来ることならイズナのように技名を声高に叫んで、相手を倒してみたと彼は思っていた。
「センセー! オレたちの剣術にも何か技名ないのぉ!?」
「斬れればいいじゃない………ウォロロロロロロロロロッ」
「よくない……全然よくないよ! 具体的にはオレのモチベーションが上がらない!」
「口よりも手を動かす! 二ノ型《手鏡》!」
イズナに叱責されながら、ゼフは頼りないレッドの代わりに、懸命に木剣を振る。
斬って、斬って、斬って………舟の周りを魚の死体で埋め尽くしていれば、まるで先行きが分からない彼らの未来を提示するかのごとく、黒い雲が空を覆い始めた。
ゴロゴロと雷が腹を空かせている音まで聞こえてくる。
いや、それだけではない。もっと大きく、荒々しい存在が姿を現した。
「なん…………だ………?」
「ふ───……ふははははははっ! これは予想外。流石の拙者もアレを相手にどう立ち回ろうか、皆目見当もつかんでござる」
キュオォォォォォォ……………!
楽器のような音。
それは、ゼフたちの前方から迫りくる黒い雲と同じ速度でやって来たある生物の鳴き声。
エメラルド色の巨大な角を生やし、胴体の中心部分まで裂けた大きな口を持つ巨大すぎる怪物。
黒い光沢と紫色の電気をまとったそれは───鯨であった。
「キュオオオオオオオオオオオォォォォォッッッ!!!」
「うっ……………ぁ………!?」
「…………なん……と…………鳴き声だけで……動けない……とはっ!」
まだ遠くにいるお化け鯨は、裂くように口を開くと鳴き声を発した。
すると、頭蓋の奥底、脳を直接揺さぶられているかのような酷い「船酔い」状態へ陥った二人。
まともに立つことはおろか、視界さえ段々と湾曲していく感覚まで覚え、とてもじゃないが戦うことなど不可能である。
耳を塞いでいる今この瞬間にも敵は近づいてきており、ついにレッドたちの乗る舟まであと数十メートルほどの距離となった。
(こうなればイチかバチか、拙者があの巨体に乗り移って切り刻めば………っ)
刀を杖代わりにヨロヨロと立ち上がるイズナ。
意気込みに見合わない苦悶の表情を浮かべながら、それでも戦おうと敵を見やる。
大きく開いた口はすべてを呑み込まんとする大穴。ずらりと並んだ鋭い歯は普通の鯨とまるっきり異なり、噛み砕くために存在している。
どんなに無敵の技を持っていようとも、あの巨体で襲い掛かられたときには諦めるしかないだろう。そう思わせるほど、お化け鯨は巨大すぎた。
巨大で強大すぎたのだ───。
「うおおおぉぉぉぉぉ─────ッッッ!!!」
ダンッと、裂帛の叫びを轟かせ、イズナが踏み込んだときである。
ほとんど同じタイミングで自分の横を通り抜ける見えないナニカが、迫りくるあの怪物目がけて飛んでいった。
ズザザザザザザザザザザザザッッ!!!
物凄い勢いで飛んでいくそれは、海面を舐めるように切り裂きながら真っすぐ進む。
飛び出してきた魚の胴体を両断し、初めてそれが「斬撃」だと知った。
斬撃は魚を両断しただけでは止まらず、微塵も勢いを落とすことなくお化け鯨へ迫る。
が、しかし───……。
「キュオッ……………!?」
あの巨体に遠距離から傷を負わせ、一時的にではあるものの進行を止めたのは見事という他ない。
だが、それでも決定打には程遠く、ヤツからしてみれば舌を噛んだ程度のダメージしか与えられなかったのだ。
その証拠に、敵はすでに舌へ付けられた傷を修復させ、もう一度あの鳴き声を出さんと構えているではないか。
鳴き声の止んでいる今、イズナはこの瞬間を逃すまいと踏み出しかけていた足に再び力を込める。
しかし、そんな彼女に二度目の「待った」を掛けた人物がいた。
光の加減で赤色にも見える黒髪の男。
終始、情けないところばかり教え子に見せてばかりの男が雰囲気を変え、ほんのちょっぴり真剣な面持ちで立っていた。
「人が気持ち悪くなっているというのに馬鹿でかい音を出すんじゃあない。………まったく、おかげで胃の中のモノが全部出てしまった」
「レッド殿、ここは拙者に任せてお二人は」
「ふっ───!」
凛───……
イズナとゼフの耳に、綺麗な鈴の音が響いた。
どこまでも清らかで潔く、一点の穢れもない音色。
鳴らしたのは情けない姿ばかりの男だった。
血の気が戻った男は右手に持った木剣を振り上げると、いっその事、芸術的にさえ思える美しい軌道を描きながら振り下ろす。
「なんと………」
複雑な工程など一切ない、単純な動作。
磨きに磨き上げられ、至高の領域にまで至った彼の一太刀は、何人も侵しがたい純白を孕んでいた。
初めて見たイズナはもちろんのこと、見慣れているであろうゼフでさえ魅了するレッドの剣。
それは、当然とばかりに鯨を両断せしめた。
「…………………神隠し、か」
ゼフとイズナの二人が勝鬨をあげようとする寸前、レッドの言葉と共に止まった。
彼らが膝から崩れ落ちたのは、お化け鯨が海へ落ち、それによって生じた大きな波に酔ったからではない。
ゼフは崩れ落ちたそばからガクガクと震えだし、イズナもゼフほどではないにせよ青白い色を通り過ぎ、もはや土気色の顔色となって大粒の冷や汗を浮かべている。
二人が感じているものの正体は、生きとし生けるもの全てに共通して存在する克服することが不可能なもの───其れ即ち『恐怖』である。
「怖い、怖いよ………センセー」
「は、はは………情けないっ。戦う者でありながら足がすくんで動けん………」
「二人とも、絶対に上を見るんじゃないぞ。アレを直視しようものなら目がつぶれるか………、あるいは発狂死しかねん」
二人を真ん中に寄せて上着をかけてやったレッドは、上を見ながらそう言った。
「なるほど、あのお化け鯨は襲ってきたんじゃなく逃げてきたのか。久しい感覚に迷ったが間違いない、アレは───……」
冪冪たる暗雲貫きし灰色の御手。
其れは、遭ってはならない存在。
其れは、逢ってはならない存在。
其れは、在ってはならないモノ。
降りてきたのならば過ぎ去るまで頭を垂れて平伏せよ。
幸運をつかんだのなら日常へ帰れ。
不運と踊ったのなら大地へと還れ。
有史以来、人類にとって最大の禁忌。
人を超越した上位の者。
人はソレを畏れと敬意を込めてこう呼んだ。
「【神】……………。何故、下界へと落ちてきた」
この世界では、人知を超えた力を持つ存在を、人々は「神様」やそれに類する名称で呼んだ。
災害よりもなお恐ろしいモノとして認知されている。
また、精霊や妖精も存在するが、これらはまだ神よりも危険度が少ない。
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