9.
「ねえ、シャーリーから見たオズウェンって、どんな?」
「どんな、と申しますのは……」
「うんと、なんて言えばいいのかな。え、っとね」
相手の話を聞いて、自分の言葉を返すことは難なくこなせるようになったオズウェン。まだ、たどたどしさが残るものの、相手の言葉が理解できずに聞き返すようなことはほとんどない。
毎日あっという間にできることが増えていくオズウェンに、シャノーラはわずかな期待を持っている。このままなら、記憶を取り戻す日も近いのではないかと。
目の前にいるのは成人男性だということを時々忘れてしまうくらい、幼児のようなオズウェンと接することに慣れたシャノーラだったが、次の質問には表情を凍らせた。
「ぼく、たいせつななにかをなくしたんじゃないかな」
王太子妃の教育がこんなところでも役に立つとは思ってもいなかった。固まったのはほんの一瞬で、即座に控えめな笑顔を見せたシャノーラは思わず視線で助けを求めてしまったが、向けられたラウルはぶんぶんと首を振るばかり。
ゴーディーから毎日の診察結果を聞いてはいるけれど、オズウェン本人が記憶を失っていることに気付いているような言動など、何ひとつ聞いていない。
「どうして、そう思われたのですか?」
「まいにち、ゴーディーがたくさんはなしてくれるんだ。そのなかで、ぼくはこの国のおうじだっておしえてもらった」
「ええ。その通りですわ」
ラウルが聞いていないのならば、誰かが教えたわけではなくオズウェンは自分でその考えに思い至ったということだ。婚約者として共にある時間に、本を読んで過ごしていたときだってあるし、王太子と定まってからは公務にだって携わっている。
小さなことに気が付くとはラウルだって、シャノーラだってよく知っているけれど、今回については、胸がドキドキしている。ひとまずその動揺を抑えこんだシャノーラが、相づちを打つ。
「それなのに、ぼくはこのへやにいるだけで、おうじらしいことってしてないから」
この部屋にいるだけ、だけど記憶を取り戻せそうなあれこれはずっと試してもらっている。
ゴーディーが調べる王宮の書物に関連していそうなことが載っていれば、ゲームのような感覚でオズウェンに試してもらう。
ラウルとシャノーラは学園で時間を見つけては、図書室で手あたり次第に本を読んでは何か手掛かりになりそうなものはないかを調べている。
オリバーだって、オズウェンとして過ごしながらも人々の会話から、きっかけになりそうな事柄がないかを聞き逃さないように気を張っている。
それでも、記憶喪失になったという話も、記憶を取り戻したという手段も、まだ見つかっていない。
この部屋にいるだけ、なのではない。いなければならないと強制しているのは、こちらなのだ。それなのに、オズウェンは部屋に籠りきりのことに対しては、なにも文句を言ってこない。
「それから……」
シャノーラとラウルの反応を伺っている様子のオズウェンだったが、そこで言葉が途切れてしまう。何かを言いかけて、それでも上手い言葉が見つからないのかもごもごと口を動かしている。
「オズ?」
「オズウェン殿下?」
これ以上、何か心臓に悪いことを言い出すのではないかと不安になった二人がオズウェンの顔を覗き込む。深い蒼の瞳には、眉を下げて心配そうに見つめているシャノーラとラウルの姿が映っている。
「ラウルより、ぼくのほうが大きいのに、うまくはなせないし」
不満そうに、唇を尖らせたオズウェンから告げられた、思いがけない言葉にシャノーラはついと視線をラウルに向ける。
その視線に気づいていないはずはないのに、ラウルのブラウンの瞳は見当違いの方向に固定されている。
「……ラウル様、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「身長については回答を拒否します!」
オズウェンの隣には数えきれないくらいに立っているから、自分との身長差は十分理解しているが、ラウルと並んだことなどほとんどない。もちろん、シャノーラはオズウェンの婚約者なのだから、側近であるとはいえラウルと身長を比べられる距離で並ぶことはよろしくないのは分かる。
けれど、そう聞かれたらどのくらい身長の違いがあるのか、気になってしまうのは仕方ないだろう。
「ほら、ラウルこっちに立って! せいくらべするから!」
「しません! ぜーったいに、しませんから!」
腕を取ろうとするオズウェンからするりと逃げるラウル。王太子の私室といえども、成人男性が追いかけっこをするには少々手狭だ。そんなことをするなどと想定して作られていないのだら、当然なのだが。
ぱあっと笑ってラウルを追いかけているオズウェンを見て、シャノーラはほっと息を吐きだした。
先ほどのラウルに告げた言葉だって、本心だろう。けれど、オズウェンの婚約者としてそれなりに時間を共にしているシャノーラは、直前の様子がどうしても気にかかる。
「あとで、ラウル様にご相談しましょう」
「何か相談事ですか?」
「きゃあ!?」
いきなり背後からかけられた声に、シャノーラは悲鳴を上げたが、慌てて自分の口をばっと押さえる。
一連の流れを見ていたラウルは、申し訳ないと言われなくても分かるような表情で、シャノーラに頭を下げた。
「いえ、私が気付かなかったのです。オズウェン殿下は?」
「眠くなったんですって。ベッドにいきなり潜り込んだんですよね」
「それなら、退室しましょうか」
幸いにも、シャノーラの悲鳴でオズウェンが駆け寄ってくるようなことはなかった。眠くなった、とベッドに戻ってすぐに寝入ってしまったのだろう。
「ゴーディー爺さんに聞いているのと、オズの成長、って言っていいのかは分からないんですけど。だいたい同じですね」
「もしかして、ラウル様の先ほどの行動は……」
「確認もありますよ。まあ、オズがどう反応するかも見てましたけど」
自分の目で見ないと分からないですからね、となんの気負いもなく笑う姿は、正しく王太子の側近であると感じさせるものだった。
そんなラウルに、自分がオズウェンと話している時の違和感を伝えてもいいものか、シャノーラは少しだけ悩んだ。けれど、婚約者として重ねた時間よりも、側近候補から傍にいたラウルの方が、共にいる時間は長い。
「それで、シャノーラ嬢は何に気づきましたか」
当たり前のように、そう聞かれてシャノーラは話していいのかと感じていた気持ちが軽くなった。どんな些細なことでも情報が欲しいのだと、ラウルもそう見せないだけで必死なのだと分かったから。
「ウィン様は、身長の話の前に別のことを言いかけていた、と思いました」
「あー、やっぱりシャノーラ嬢もそう思いました?」
あのようなおどけた会話の中でも、気付いていたのはさすがとしか言いようがない。けれど、そのラウルもオズウェンが何を言いかけていたのかまでは、分からないそうだ。
「さっき、ベッドに戻ったのも急でしたし、しばらくは注意しないといけませんね」
「学園に、一度顔を出すのですよね」
「まあ、上手い理由は思いつかなかったんですけどね。オリバーもすぐに治りましたし」
学園に通わなくていい理由作りのために、わざわざリベール領まで行って蜂に刺されてきたのに、オリバーは思っていたよりも早く治ってしまったようだ。
喜ばしいことなのに、今回は素直に良かったとは言いづらい。かといって、これ以上学園を休むのも心証は良くないだろう。卒業が近いうえに、オズウェンが優秀な成績を修めているからあまり問題とは思われていないけれど。
「それにしても、シャノーラ嬢。オズの前でその呼び方しないんですね」
「呼び方、ですか?」
「ウィン様、って喜ぶと思うんですけど」
にこにこと笑っているラウルは、シャノーラがオズウェンをそう呼ぶようになった理由を知っている。むしろ、オズウェンとラウルしか知らないのだ。シャノーラも人のいるところではオズウェンを愛称で呼ぶようなことはしないので、今回もきっちりと線引きをしているのだろうとラウルは見立てている。
「お名前を、あれこれ呼ばれてしまっては混乱させてしまうかと思いまして……」
「ああ、そういうことですか。お気遣い感謝いたします」
言われてみれば、ラウルはとっくにオズと今までのように呼んでいて、オズウェンもそれが自分だと分かって答えている。もしかして、オズウェンの最初の質問はそれを聞きたかったのかもしれない。
「お許しをいただけるのであれば、次回はウィン様とお呼びしたく思います」
「許可、もぎ取ってきますよ。だから、呼んであげてください」
学園を卒業したら、立場が変わるかもしれないのに。氷姫と揶揄されるほどに、表情を変えない自分が、たったひとつ愛称を呼ぶだけで笑顔を向けてくれるのは、オズウェンだけだ。
口の回らなかった自分の、言い間違いから始まったその呼び方を、そこまで大切にしてくれているとは、こうならなければ気付けなかったかもしれない。
早く、“オズウェン”に会いたい。シャノーラは、素直にそう思った。