8.
「あ、いたいた!」
ラウルと共に、オズウェンの私室に向かっている時に聞こえた声。ほんの少し肩を揺らしたのはラウルで、シャノーラは一度目を閉じて深く息を吸ってから、その声の主と向き合うように振り返った。
「シャノーラ嬢、お久しぶり!」
「お声がけいただき、光栄ですわ。アントス殿下」
振り返って微笑んだシャノーラには、先ほどわずかに見えた困惑の色など全く残っていない。改めて、シャノーラが王太子妃の勉強をどれほど努力して身につけたのかと感じ取っていたラウルは、アントスからの視線に深く腰を折った。
兄であるオズウェンの側近といえども、王族であるアントスには礼儀を欠いていい理由などない。
ラウルが顔を上げた時には、オズウェンと同じブロンドをふわりと揺らし、母譲りのアンバーの瞳が楽しそうに細められていた。オズウェンの五歳下の弟、アントスのまだ幼さの残る無邪気な声が響く。
「ラウルと一緒ってことは、兄様の所に行くんでしょう?
僕も連れてって欲しいんだけど」
「オズウェン殿下のところに行くとは限りませんよ」
内心、動揺しているのを悟られないようにさらりとラウルは告げたが、シャノーラは張り付いたような微笑みから動けずにいた。
あれから、オズウェンを襲撃した人物の情報は、シャノーラには降りてきていない。つまり、まだ調査中かあるいは、誰と分かっても決定的な証拠が見つかっていないから動けずにいるか。
シャノーラがそれを知らないことで、身の安全を確保できている場合もあるので、この件に関しては教えてもらえるまでは聞くことはしないと決めている。
療養の理由である、蜂に刺されたことに関してはある程度の話をすり合わせているので、こちらについて聞かれた時には答えているけれど。
「それだったら、兄様がエスコートするはずでしょ。目が全く見えない訳じゃないんだし」
「それは、まあ、そうなんですけど……」
「ねえ、お願いだよ。僕、兄様が遠駆けから帰ってきたあと、ずっと会ってないんだ」
会っていない、ではなくて会えない、なのだが、それをアントスに言えるはずはない。そして、ラウルもシャノーラも、アントスが本気でお願いを告げてきたら断れるはずがない。
シャノーラだって王太子の婚約者であるが、正式に決まるまでは侯爵令嬢だ。人の行き交う場所で、王族からの願いを断ったなど、外聞が悪いにもほどがある。
けれど、オズウェンの状況は変わっていないので、アントス含め、事情を知らない人と会わせられるはずもない。どうこの場を切り抜けようかとラウルもシャノーラも必死で考えていると、朗らかな声がアントスを呼んだ。
「アントス殿下。こちらにいらしたのですか」
「うわ」
「あれは……」
その声が聞こえた瞬間に、アントスは肩を縮こまらせ、ラウルは記憶を探るように目を細めた。
ゴーディーと同じグレーの髪だが、こちらは短く切りそろえているので少しだけ若い印象になる。アントスや王妃と似ているアンバーの瞳は、一緒にいる人物を見て驚いたようにパチパチと瞬いている。
「おや、ラウル殿と、シャノーラ嬢もご一緒でしたか。割入ってしまって申し訳ございません」
「割入るだなんて、とんでもない。それで、ギャスパー侯爵のご用事はどなたに?」
むしろ、とてもいいタイミングで声をかけてくれたとラウルは機嫌良く答えている。オズウェンの隣にいる真面目な顔しか見たことのなかったギャスパーは、ラウルの笑顔に少しだけ目を丸くしていたが、当初の目的を思い出したのかアントスと向き合った。
「あ、ああ。アントス殿下、教育係が探しておいででしたよ」
「えー、僕は探してないんだけど」
「そう仰らずに。彼も責務を果たそうと必死なのですよ」
小さく文句を言う声は聞こえてきたが、この場はアントスの分が悪いだろう。探されるようなことをしているという自覚もあるようで、アントスの顔はシャノーラを見つけた時と違って、不機嫌を隠さないものに変わっている。
「分かりました。シャノーラ嬢、今度はゆっくりお茶でもしようね」
「ええ。お誘いありがとうございます」
渋々といった様子だったが、自室に戻るという選択をしたアントスに、シャノーラは手本のようなカーテシーを見せた。幼いころからオズウェンの婚約者として度々王宮を訪れていたシャノーラも、側近となるべく近い環境で育っていたラウルも、アントスがまだ赤ちゃんだった時から知っている。
一線を引くような立ち振る舞いをしているけれど、弟のように可愛がりたい感情を持つのも、当たり前の流れだろう。
「さ、アントス殿下まいりましょう。オズウェン殿下は、この年齢で習熟されていたことですよ」
ギャスパーが何気なく告げた、兄であるオズウェンとの進みの違い。学ぶことを苦と思わない性格であり、長子という自覚もあるオズウェンと、優秀な兄がいて、自分の立場がまだ定まらないアントス。違いがあって当然だったが、周りはそうとは思ってくれないようだ。
「……僕だって、」
「アントス殿下?」
「何でもないよ。彼はどこにいるの?」
「ご案内いたします」
小さく、聞き逃してしまいそうなくらいかすかな声を、ラウルが拾えたのはただの偶然だろう。すぐそばにいたうえに、側近としてそれなりに体を鍛えていたことが、たまたまその誰にも聞かせるつもりではなかったアントスの呟きが耳に届いた。
ハッとしてラウルが頭を上げた時には、アントスとギャスパーは背中を向けて、来た方へと戻っていくところだった。
「シャノーラ嬢、ギャスパー侯爵との関係は」
そうしてアントスとギャスパーを見送った後、念のために声量を落として会話を切り出した。
先ほどのアントスのささやくような呟きは聞こえていなかったようだが、シャノーラも聴力には自信がある。それは、自分を指す氷姫、という言葉を聞きたくないと思っていた時期があったから、という後ろ向きな理由からだったが。
「可もなく、不可もなく。我が家は宰相を拝命しておりますが、その地位は誰もが欲するものでしょうし」
「……まあ、今のタイミングはありがたかったですけど」
国王陛下からの信が厚くなければ、宰相は務まらない。それだけでなく、多方面への知識や行動力など、総合的に判断して指名するものだけれど。
今の国王は、私情で誰かを重要な位に任命することなどない。それを理解しているのであれば、シャノーラの父以上に目覚ましい活躍を見せなければならないということだ。
しばらく役職が動くことはなさそうだな、と思ったがそれはラウルにはあまり関係のないことだ。
今、大切なのは自分の主と仰ぐ人物のところへ急ぐこと。
「オズウェン殿下がお待ちですよ。さ、行きましょう」
思わぬ時間を取ってしまったが、シャノーラの負担を考えると短いくらいで丁度よかったのかもしれない。なにせここしばらく、シャノーラには驚かせるようなことばかり続いているのだから。
そんなことを思いながら、ラウルがオズウェンの待つ私室の扉を開いた。
「シャーリー!」
待ち構えていたように飛び出してきたのは、全身で嬉しいと表現しているようなオズウェン。その勢いにもそうだけれど、何よりもシャノーラを驚かせたのは。
「きょうもきてくれたんだ。ありがとう、シャーリー」
「ラウル様……あの、これは」
「驚きました? 俺もさっき来てびっくりしたんです」
ぎゅーと手を握って離さないオズウェンを部屋の奥へと連れて行きながら、ラウルはケラケラと笑っている。少しでもバランスを崩したら転んでしまいそうだった歩き方だったのに、今日のオズウェンはしっかりとした足取りでシャノーラを案内している。
わずかに残るツンとしたハーブのような香りは、おそらく打ち身を冷やすための薬だろう。ここまでの動きを取り戻すために、シャノーラの見えないところで、オズウェンは努力を重ねている。
それを見せようとしないのもまた、オズウェンらしい。
「鍵が、見つかったのではないか、と」
「ゴーディー爺さんの言ってたあれか」
「そうです。忘れたわけでないのなら、きっかけさえあればスルリと思い出すとは聞いていましたが……」
部屋の奥にいたのは、オリバーだ。きっと先ほどまでオズウェンの相手をしていたのだろう。床には、いろいろなものが散らばっていた。
ささっと片付けながら、オリバーとラウルは情報を交換している。シャノーラはその様子を見ているだけだったが、握ったままの手につん、と力が入った。
「シャーリーと、おはなしできるの、まってた!」
「どうしましょう、ラウル様。オリバー様」
シャノーラが自分の感情を抑えるようになってから、オズウェンが見せていた笑顔。陽だまりのようだと言われていた時よりも、数段まぶしく感じる笑顔を向けられたシャノーラは、心底困ったように二人に助けを求めた。
「オズウェン殿下、なんてかわいらしいのでしょうか」
「かわいいのは、ぼくじゃなくて、シャーリーだよ。ね、あっちでおはなししよ?」
ぷくっと頬を膨らませて不満を見せるなど、幼いオズウェンでもほとんど見せたことのない仕草だ。17歳の男性にはいささか厳しいのではないかと思えるような仕草なのに、様になっているのはどうしてだろうか。まだ言葉にたどたどしさが残っているのを除けば、記憶を失う前のオズウェンと同じようにも感じてしまう。
「なあ、あれって本当に記憶戻ってないのか」
「試しに、今までの公務の書類をお見せしたところ、全く理解が出来ていなかった様子ではありました、が」
ラウルの疑問は最もだ、とばかりにオリバーは溜息を吐いた。散らばっていた書類をまとめてから、ラウルに手渡すとざっと目を通しただけで返された。これは、すでに提出してある書類の一部を借りたものだ。オズウェンの署名が入っているのだから、確実に一度は見ているはずの書類。
それを少しの間読んでもらった後に、内容について質問したら見当違いな答えが返ってきたそうだ。それなのに、どうして会話は上達しているのかとオズウェンの様子を見ていたオリバーが気付いたこと。
「鍵はシャノーラ嬢、ってことか」
こくり、と小さく頷いてオリバーはオズウェンに目線を向けた。シャノーラと向き合って、楽しそうにあれこれ話しかけているオズウェンの姿は、いつもと何も変わらないように見える。
シャノーラもここでは感情を抑えて接する必要などないと思っているのか、学園での様子など嘘のようにくるくると表情を変えている。
「この調子で記憶を取り戻していただきたいところです。そろそろ、半月経ってしまいますから」
「順調、なんだけどな……時間はやっぱり足りないか」
「すみません。瞳の色を変えることが出来ればよかったのですが」
「いや、オリバーは十分やってくれてるよ。けど、そうだな……次の時間稼ぎか」
襲撃されて、記憶喪失となったことを隠すための理由。これというものを思いつかずに、ラウルとオリバーはそろって頭を抱えた。
オズウェンは順調に、忘れたことを思い出している。けれどそれは、体の動かし方であったり話し方だったりと、生活に関係することがほとんどだ。オズウェンとして過ごした幼少期の話などは、まだ本人から語られていない。立ち振る舞いが今まで通りではない以上、学園に戻ることは難しいだろう。
二人は、気付かなかった。シャノーラと嬉しそうに話しているオズウェンが、その会話を聞いて理解していたなど。