5.
記憶喪失。シャノーラの頭を巡るのは、ラウルから告げられたその言葉だけ。喉に張り付いていて、声にならなかった嘘だという叫びは、先ほどのオズウェンの様子を見た瞬間に消え失せていた。
シャノーラの姿を認めるたびに優しく細められていた蒼の瞳。深い海のようにも見えるその瞳は、知らない人を見て怯えの色をはっきりと映していた。あの場で声を上げなかったのは、今までシャノーラが王太子妃としての教育を受けていた賜物だ。
平然としているように見えるラウルだって、目を覚ましたオズウェンと顔を合わせた時には、二の句が継げなかったのだから。
「最初から、説明しますね」
「お願いいたします」
ひとまず落ち着けるように、と紅茶を用意してもらったがそれにシャノーラが口をつけることはなく。じんわりと広がる紅茶の香りを楽しむような余裕も、時間もない。
ソファーに体を預けたままだったが、シャノーラが話を聞く体勢を見せたのでラウルは、言葉を選び始める。
「遠駆けに行ったのは、リベール領です。あそこには、王族の管理する土地がありますから」
「静かで、花のきれいな街だと聞いておりますわ」
「ええ。それを聞いてオズも喜んでいましたよ。シャノーラ嬢に、いい土産が出来るって」
王都を出てから馬の上手な人で三時間ほど。馬車を使えば半日程度の場所にあるのが、リベール領だ。
今回の公務は、その地の報告書に差異がないかの確認だった。領主は穏やかな人物で、書類仕事に不備はほとんどない。だからこそ、オズウェンとラウル、少数の護衛だけで済ませることが出来るのだ。
名産となるような何かを作ったりすることには不得手だから、と考え出したのが花を育てる事だと聞いている。今ではその景観を見るために足を運ぶ貴族もいるほどなのだから、結果として名産となるものを作りだせたことになるのだけど。
「もちろん、公務が優先でしたけれどね。今回は、簡単でしたけど。それもひと段落して、少しだけ出来た自由時間だったんですよ。狙われたのは」
話を聞いて、シャノーラが思ったのはその公務は遠駆けではなく、視察なのではないかということ。ただ、視察と遠駆けだと警備の規模も迎える側の準備も変わってくる。報告書との違いを確認に行くのであれば、視察と告げると都合の悪いものが隠されてしまうかもしれないという理由もあったのかもしれない。
けれど、今回はそこが裏目に出てしまった。王太子がごく少数しか伴わずに外出しているのだから、狙う側としては好都合だろう。
だからといって、そこに思い至らないはずはない。
「警備は万全……だったはずなんです。けれど、結果としてオズは落馬しました。目に見える大きな怪我は、なかったのに」
「ですが、記憶喪失との診断は」
「頭を打ったらしいんですよ。受け身を取った時に」
淡々と告げるように見えるラウルは、悔しそうに顔を歪めた。自分の立場が側近というのもあるだろうし、オズウェンが襲われた現場にいたというのもあるだろう。守れなかったという思いは、その場にいた誰もが持っている。
いっそ、体に怪我をしてくれた方が良かった、なんて思ってしまうくらいに。怪我だったら時間が経てば治る。けれど、記憶喪失というのは、治す手段が分からない。
「指にタオルが巻いてあったでしょう? さっきみたいに、混乱して泣いた時に誰かを傷つけないようにって爺さんが巻いてくれて。記憶がなくても、体は大きいですからね」
さっき、と言われて思い出すのはシャノーラを見て泣き出してしまったオズウェンの姿。大きな怪我がないことに安心はしたが、確かに指をタオルで巻いているとは思っていた。そんな理由があっただなんて思いもしなかったシャノーラは、ふと白いものを見つけてしまった。
「もしかして、ラウル様のその腕は」
「ああ、見えちゃいましたか。お見苦しいものをすみません。オズには、内緒にしてくださいね」
「……そうですわね。ウィン様は、お優しいですから」
シャノーラの視線に、頷いて答えたラウルは何でもない事のように自身の袖を捲った。そこには、じわりと赤が滲む包帯がある。
思えば、ラウルが部屋に入った時にオズウェンは何も反応していなかった。泣き叫び始めたのは、シャノーラの姿が見えてからだ。
ラウルが殿下、と呼ぶ声にも自分の事だというように反応を示していた。せめてシャノーラに会わせる前にと、ラウルが根気よく教え込んだのだろう。自分の手が傷つくことも構わずに。
「この状況は、限られた人にしか知らせていません。……アントス殿下には知らせていない」
普通だったら、兄であるオズウェンが襲われたのならば、弟のアントスだって警備を強化しなければならないだろう。けれど、兄の状況を伝えることも、警備を変更することもしないという。
ラウルが、言葉にしなかった部分まで、シャノーラは読み取った。それが理解できると分かっていたから、ラウルも、直接的な言葉を避けている。
「護衛騎士たちが今、必死になって痕跡を探してくれています。オズを狙った者を、俺たちは許さない」
オズウェンは、王太子。国の次代であり、守られるべき存在だ。けれど、その立場に驕ることなく接していたからこそ、オズウェンは騎士たちからも慕われている。
この場に護衛の騎士が少ないのも、まだリベール領に残っている者がいるからだ。
本来であれば、守るべき主人を守れなかった騎士に、先はない。そう分かっていながらも、せめて狙った人物の手掛かりくらいは見つけないと、後には託せないと考えての行動だろう。
ラウルだって、シャノーラへの説明という理由がなければ王宮には戻ってこなかったはずだ。それが分かるくらいの年月を、共に過ごしている。
「シャノーラ嬢には、話しておくべきだと王妃様から判断が下りました。出来るだけ、オズの傍にいて欲しいとも言われていますが、無理はさせないようにとも」
王妃といえどあの状態のオズウェンを見て、傍にいろとはさすがに言えなかったらしい。まだ赤ちゃんがかんしゃくを起こしたのであれば、シャノーラでも十分に対処は出来るだろうが、オズウェンは成人男性。しかも、それなりの鍛錬を積んでいる身だ。
あの体格で何も考えずに手足をバタつかせただけでも、怪我をする可能性は高い。年頃の令嬢にそんな危険を冒すような命は、下せなかったようだ。
「分かりました」
「そうですよね、あのオズを見たら……え!?」
「王妃様からの許可は頂いているのですよね。それでしたら、もう一度ウィン様に会わせてくださいませ」
毎日、オズウェンと顔を合わせているのだから、遅かれ早かれこの状況は説明しなければならない。
遠駆けに行くと聞いていたのに会えない事に、シャノーラが疑問を持つとはもちろん分かっていただろう。だからこそ、話はするべきだとの結論になったはず。
記憶を失っているとしても、もしかしたらシャノーラの事は覚えているのかもしれないという淡い期待だってあったに違いない。その期待には、応えることは出来ないが今から出来ることだって、ある。
「シャノーラ嬢。聞いておいてあれですけど、止めた方がいい」
「ラウル様は、ウィン様に覚えてもらっているのに?」
「俺は、オズを守れなかった。こんな傷くらいで済むのだったら、いくらでもつけてやる」
手首に巻かれた包帯をきつく握りしめているラウルの声から、感情が伝わってくるようだ。シャノーラとラウルでは、置かれた立場が違う。だから、記憶を失って赤ちゃんのようになったオズウェンを見た時の感情は、同じではない。
けれど、同じ気持ちだって、きっと持っているはずだ。
「私は、オズウェン・フィネ・ハルナード殿下の婚約者です」
きっぱりとそう言い切ったシャノーラに、戸惑いや怖れという気持ちは見えなかった。自分の意見を通そうとするときのシャノーラの姿に、先に折れたのはラウルだった。付き合いも長くなってきているが、こんな様子を見せる事なんてほとんどなかったシャノーラ。オズウェンの状態を知りながら、会いたいと願ってくれたことは、ラウルだって嬉しかったのだから。
「分かりました。けれど、俺も一緒です」
「もちろんですわ。ありがとうございます、ラウル様」
「礼を言いたいのはこっちだ。ありがとう、シャノーラ嬢」
メイドに様子を聞いて、オズウェンが落ち着いた頃に再び部屋を訪れたシャノーラは、扉を開く前にすっと目を閉じた。
背後に控えるラウルは、その様子を見ることはない。けれど、ピタリと動きを止めたシャノーラを見て、ただ黙って待っていてくれた。
「……失礼いたします。オズウェン殿下、入りますわね」
コンコンコン、と控えめなノックの後にシャノーラの優しい声が響く。ぼんやりと天井を見ていたオズウェンがゆるりと首を動かして、音の主を探している。
蒼い瞳と、シャノーラの紫の瞳がばちりと交わった瞬間、びくりと肩を震わせたのはオズウェンだ。じわじわっと瞳に水が溜まっていくのを見て、慌てて前に出ようとしたラウルよりも先に動いたのは、シャノーラ。
「初めまして、オズウェン殿下」
すっとベッドの横にしゃがみ込み、声をかけたシャノーラを見て、オズウェンは動きを止めた。それから、シャノーラは上掛けの横でだらりと垂れていたオズウェンの手を取って、優しく包み込む。
「シャノーラ・リズローと申します。今日は、あなたに会いに来ました」
「……」
少し離れた位置から様子を見ているラウルは、緊張した面持ちでオズウェンを見ている。シャノーラの表情は、ラウルから見えない。
ドレスの裾など気にせず、ベッドの横に座り込んでオズウェンの視界よりも低い位置を取ったシャノーラは、いつもよりもゆっくりと話している。
腕を自由に出来ない事でオズウェンが暴れてしまうのではないかと思っていたラウルは、わずかに首を傾げた。びっくりして泣いたりもせず、オズウェンはただシャノーラのことを見ているだけだ。もしかして、これはいい方向に進み始めたのではないかと思えたのは、次の瞬間。
「これから、一緒にお話ししましょう?」
王宮に戻って来てからずっと、泣いているか無表情でしかなかったオズウェンの表情が、動いた。
一瞬だったけれど、確かにオズウェンは笑ったのだ。それを見たラウルが涙をこぼしたことは、誰にも知られることはなかった。