4.
「シャノーラ様。出迎えが遅くなり申し訳ありません」
それは、気のせいだと言われたら納得してしまいそうな違和感。王宮についてすぐ、出迎えてくれたラウルを見てそう感じたシャノーラは、パチパチと目を瞬かせた。
オズウェンと共にいる時よりも、少しだけかしこまった態度を取るのはいつものこと。なので、ラウルが腰を折るような礼をしていても、シャノーラは疑問には思わない。
「いえ、いつもありがとうございます。ラウル様」
ひとまず、馬車から下りてこの場所を開けなければ。シャノーラは、違和感をうまく言葉に出来ないまま、ラウルの先導についていく。
王太子の婚約者であるとは言っても、まだ学園を卒業していない身。オズウェンの所へ自由に向かえるわけはなく、毎回馬車を降りてからはこのように案内が付く。
ほとんどはラウルがその役目を担っているからか、ごく自然にその背中に視線を向けたシャノーラは、違和感に納得できるだけの理由を見つけてしまった。
「ラウル様、何かございましたか?」
「……何か、とは」
王宮の廊下、普段なら人の通りもそれなりにある場所が今日は静かだ。それだけではない、シャノーラの感じたいつもとの違い。それは、ラウルが少しだけ大股で歩いていたことと、呼び名だった。
「私への呼びかけが、普段とは異なりましたので」
「!」
しまったとばかりにわずかに唇を噛み締めるラウル。即座に否定しないのは、肯定の意味と取っていいのだろう。それでも、はっきりとした言葉を告げることはない。そのまま、いつものように殿下の執務室近くまで案内されたところで、ようやくラウルが口を開いた。
「シャノーラ嬢。殿下のところにご案内する前に、確認しなければならない事がございます」
パタンと静かにドアを閉めたラウルの隣には、いつの間にいたのか護衛の騎士がいた。婚約者という立場上、王太子の側近であるラウルとも二人きりになることはないし、ましてや密室に男性と共にいることだって滅多にない。
先導していた時のラウルにはなかった緊張と改まった口調は、普段とは確実に何かが違うと思えるには十分すぎた。
違和感の正体はきっとこれだったのだと思い当たったシャノーラの胸に、不安が襲ってくる。
「殿下が、今回の公務で遠駆けに行くことはご存じでしたか」
「え、ええ。オズウェン様よりお話をお伺いしましたわ」
「それを、誰かに話したり伝えたりは」
「誰にも。家族にも伝えておりません。ですが、モニカ様はご存じでした」
「ああ、フリーデン家のご令嬢ですね。彼女ならこちらで把握しています」
オズウェンから遠駆けに行くと言われた場には、ラウルもいた。つい先日のことだから忘れるはずもないだろうことを、わざわざ確認しているのはきっと、同席している騎士に聞かせるためだろう。
さらさらと何かを書き留めている騎士にも聞こえるように、少しだけ声を張ったシャノーラは、今日の学園での出来事を簡単に説明した。オズウェンが朝から学園にいなかったのならば、きっとラウルだって同じだ。
シャノーラの交友関係はあまり広くない。その中の一人であるモニカの事は、オズウェンとラウルは早々に把握している。家の関係もあり、自分が傍にいられない時にはモニカにシャノーラの守りを任せている、とは本人だけが知らない事だ。
「オズウェン様の言動を漏らすような真似はいたしません。婚約者といえども、立場は弁えております」
シャノーラの返答を聞いて、同席していた騎士が部屋を出ていく。その姿を見送ってから、ラウルは特大の溜め息を吐いた。
「……シャノーラ嬢なら問題なしって伝えたんですけどね。一応、ってことで。お気を悪くさせてしまってすみません」
「い、いいえ。何か必要なことなのでしょう?」
椅子に座ったままなのにがばりと頭を下げたラウルに、シャノーラは慌てて声をかけた。きっといつもと違った態度の理由も、騎士が同席していたからだろう。
「ですが、理由をお教えいただいてもよろしいでしょうか」
そう、理解は出来る。納得もした。けれど、それはいつもと違った態度であったり自分が抱いた違和感についてだ。
未だラウルが緊張を解かない理由。そして何より、王宮に上がったのに姿を見せないオズウェン。シャノーラの追求に、返事があるまでは長い沈黙が続いた。
「オズが、公務の最中に襲われた」
ぽつり、落とされるようなラウルの声は大きくなかったのに、静かな部屋にはとても良く響いた。
「最悪の事態は免れた。だが、王太子の襲撃などあってはならない事態だ。まだ公にはしていないから、知っている人物は限られている」
嘘だと、そう言いたかったのに喉に何かが貼り付いたように声が出ない。淡々と告げているように見えるラウルも、膝の上で自身の手をぐっと握りしめている。
あまりの衝撃に、ラウルの言葉を信じたくないとまで思ったシャノーラだったが、こんなことを冗談でも告げる人物でないのはよく分かっている。
「ウィン様は、ご無事……」
「ああ、体は、な」
ふ、っと少しだけ表情を緩めたラウルに安心したシャノーラは、力が抜けたのか椅子にもたれ掛かるように体を預けている。
いつもだったら決して取らないその姿勢、今だけは誰も咎める者はいない。俯いた拍子に、自身のアイスブルーの髪が隠してしまったので気付けなかった、ラウルの表情。
側近として、オズウェンを守るべき立場なのにその務めを果たせなかったと、ラウルの胸には様々な感情が入り混じっていることに、シャノーラはまだ思い至れなかった。
「直接、会ってもらった方が話が早いだろう。だけど、お願いだシャノーラ嬢」
懇願するような声、今にも泣き出しそうなのを必死で押さえ込んでいる表情。どれもが、シャノーラは見たことのないラウルの姿だった。
オズウェンが無事だと聞いて安心してしまったがまだ姿を見せないのには、理由があるはずだ。
「酷な願いだとは理解している。けれど、どうか、いつもと変わらない態度を」
「それが、望みであれば」
幸いなことに、周りから表情を動かさない氷姫だと評価を得ている。まさか、その呼び名が示すものを求められる日が来るとは思っていなかったけれど。
シャノーラが頷いたことを確認したラウルは、もう一度頭を下げた。
「オズウェン殿下、入りますよ」
案内されたのは、執務室。見慣れた部屋だったけれど、今は見慣れない物が置いてある。
書類にサインを入れるために使っていた大きな机は端に寄せられ、ふわふわとしたマットがあちらこちらに敷き詰めてある。
仮眠をとるための簡易的なベッドにはクッションが置かれて、居心地の良さそうなものに変わっていた。そこに横たわっているのは、オズウェン。金髪は無造作に乱れており、蒼の瞳はとろんとしていたが、ラウルが声をかけるとくるりと視線が向いた。
「ほら。殿下。シャノーラです。あなたの婚約者ですよ」
ラウルの顔を見ていたオズウェンの動きが、シャノーラを見て止まる。何かを期待するようなラウルの声が聞こえたが、オズウェンはそのままくしゃりと顔を歪めてしまった。
「あ、これまずい。シャノーラ嬢、驚かないでくださいね」
途端に響いたのは、かんしゃくを起こしたような泣き声。幼い子供のように泣き喚いているのは、シャノーラの目の前にいるオズウェンだ。
驚かないで、とラウルから言われていたが、シャノーラはびくりと肩を震わせた。そうして、先ほどのラウルの言葉の意味を、ようやく理解した。
体は、無事。肩から上には大きく包帯が巻かれている様子などもなかったし、手は自由に動かせている。指をタオルで包まれていたのは、少し気になったけれど血が滲んでいるようには見えなかった。
ベッドにいるから下半身の様子は確認できないが、時折上掛けが蹴られたように膨らんでいるのだから、きっと動かすことに不都合はないはずだ。
「一旦退室しましょうか。そちらで、説明します」
「よろしくお願いいたします」
控えていたメイドの、まるで赤ちゃんをあやすような声を聞きながら、シャノーラは部屋を出た。
「体は、無事だと仰いましたね」
「落馬したんですがね、運の良いことに骨も折れずに済んだんです」
「では、どちらが……」
どうやら、シャノーラの見立ては間違っていなかったようだ。落馬して大きな怪我をしなかったことは喜ばしいが、オズウェンのあの姿はどうしてしまったのか。もしかして、という想像はラウルがとんとん、と頭を指したことで確信に変わる。
「頭をね、打ったらしいんです。王宮の爺さんの診察もしました。けれど、頭の中を見るなんて芸当、どの医者だって出来るはずがない」
ラウルが爺さん、と呼ぶのは王族の専属である医師。シャノーラは久しく顔を合わせていないが、積み重ねてきた経験に驕ることなく、未だに知識に貪欲な御仁であるとオズウェンから聞いている。
そんな医師が、オズウェンに下したのはあまりに無情な診断だ。
「記憶、喪失なんですって。オズは」