30.
コンコンコン、と控えめなノックの音が響く。次いで聞こえてきたのは、優しく呼びかける声。
「シャーリー、起きているかい?」
「ウィン様。ええ、どうかなさいましたか?」
朝から動き回っていた一日が、ようやく終わりを告げる。宛がわれた部屋で肩の力を抜き、楽にしていたシャノーラは、さっと羽織物を取ってドアの近くへと駆け寄った。パタパタという足音は、床に敷かれた柔らかな絨毯に吸い込まれているはずだから、オズウェンまでは届かないだろう。
「いや、うん……」
シャノーラが今にもドアを開けようとしているのが分かっているのか、オズウェンの声の大きさが定まらない。離れたり近づいたりしていた声が、何かを決意したようなものに変わる。
「シャーリーの声が聞きたくてね」
朝から動き回っていたのは、オズウェンも同じ。ずっと隣にはいたけれど、会話を出来るほどの自由な時間はあまりなかった。
声を聞きたいと、シャノーラだって思っていた。わがままなのかもしれないと口にするのは我慢していたが、考えていることが一緒だったことは、単純に嬉しい。
「ふふ。ちょうど、私も同じことを思っておりました。どうぞ、今お茶をご用意いたします」
「それなら、これでどうだろうか。いい頃合いだと思うんだ」
ゆっくりと開いたドアから、これまたゆっくりとオズウェンが顔を出す。その手にあるのは、ワイン。シャノーラに見えるように掲げられたラベルを見ても、どのくらいの値打ちがあるのかは分からない。けれど、年代物であるということだけは一目で分かった。
「父上と母上がね、準備をしていてくれたんだ。シャーリーと一緒に飲める時がちょうど良くなるようにって」
「それは、お礼を申し上げないといけませんわね」
酒の味を少しずつ覚え始めたシャノーラだったが、何の気兼ねもなく楽しめるかといったらそこまででもない。
今回は、陛下と王妃様にワインのお礼を伝えるという目標があるので、のまれてしまうようなことにはならないはずだ。
「そうだね。一緒に、味の感想も伝えようか。それじゃあ、乾杯」
オズウェンが掲げたグラスに、シャノーラも合わせる。カツンと音を立てたのは、まだ不慣れなシャノーラのためだ。非公式なのだから、単純に楽しめればいいと思って持ってきた酒のつまみは、どれもシャノーラが元々好んでいる食材を使ったもの。
朝から賓客に挨拶回りをしながら軽くつまんではいたし、会食もしたけれど、何の気負いもなく食事を楽しめる時間は、さすがに取れなかった。
深夜に差し掛かりそうなこの時間に持ってくるにはさすがに少し量が多かったかと思ったが、楽しそうにどれを食べようか選んでいるシャノーラを見て、オズウェンも嬉しそうに微笑んだ。
「さっき、何をしていたのか聞いても?」
「……今までの事を、思い返していたのです」
間違いなく疲れはたまっているはずだ。オズウェンは、シャノーラが起きているかと思って部屋を訪れたが、それでも会えるかどうかは五分五分だった。思っていたよりも早く返事があったし、声も弾んでいたからきっと寝る直前ではなかったと思ってオズウェンは聞いたのだ。
そうしてシャノーラから返ってきたのは、今日を思い返していた、ではなくて今までの事。
「そうですね。特に、学園で過ごした時間は思い出深いものがありますわ」
「僕は、忘れてもらいたいことがあるんだけれど」
「蜂に刺された時のことでしょうか? あの時の事は、忘れようとも忘れられそうにありませんわ」
いつもよりも楽しそうに笑っているシャノーラは、少し酒が回っているのだろう。ほんのりと染まった頬は果物のようだと思ったが、オズウェンはグラスに口をつけることで意識をそらした。
なにより、蜂に刺されたというのは、内情を知るオズウェンには恥ずかしい記憶でしかない。当時の事情を知っている人は限られているが、その人たちと顔を合わせるときには今でも話題に上がるのだ。もちろん、話題に上げる筆頭はラウルとオリバー。
おかげで、オズウェンだって忘れたくても忘れられないし、何なら知らないことが今でも増えていたりする。
「そっちもあったね。卒業パーティーはどうだったかな」
「ええ、恐れ多くも卒業生を代表させていただきました。ウィン様と同じ光景を見ることが出来ましたので、とても嬉しかったですわ」
「僕の時には、辛い思いをさせてしまったからね。嬉しい思い出が出来たのは安心したよ」
シャノーラが卒業する時には、オズウェンは来賓としてその場にいた。表情を変えぬ王太子妃、氷姫だとシャノーラを蔑む声はなく、聞こえてきたのは立派なスピーチと生徒たちからの惜しみない拍手。
オズウェンの卒業パーティーではあまりにもいろいろあったので、その思いが上書きできたと知って安心した。
「ウィン様の卒業パーティーは、そうですね……
あれほど感情に振り回される一日は、初めての経験でした。今だからこそ、懐かしいと言えるようになりましたが」
こくん、と小さく音を立ててワイングラスを空にしたシャノーラの目は、とろんとし始めた。シャノーラは少しずつ慣らしているが、まだ自分の飲める量を把握するほどの数を重ねてはいない。
シャノーラがそんな状態だからこそ言葉を取り繕う余裕がないと分かったオズウェンは、意地が悪いと思いながらもひとつの質問を口にした。
「シャノーラ。本当に、僕と結婚して後悔しないかい?」
「後悔するとしたら、それは私があなたとの結婚を諦めることです」
とろりとしていたはずの瞳には、いつの間にか強い光が宿っている。王太子の婚約者となり悪意に晒されようとも、学園で氷姫と呼ばれ続けようとも、シャノーラから決して失われなかった光。
オズウェンは、シャノーラのこの光が好きで、ずっと見ていたいと思ったのだ。
「氷姫を融かしたのは、陽だまりの王太子ですわ。ウィン様」
シャノーラが当たり前のように隣にいてくれるようになって、オズウェンは今までよりも笑顔が優しくなったのだと評判になった。シャノーラもまた、感情を抑えるために作っていた表情が徐々になくなっていった。そうして、今では控えめな笑顔が似合うと好意的に受け入れられている。
「陽だまりと呼ばれようとも、所詮は幻だと思っていた。けれど、一番大切な人の、役に立っていたんだね」
陽だまりだと言われようが、笑顔が似合うと評判になろうが、オズウェンは自身でそれが偽りだとずっと思っていた。だから、シャノーラからそのような言葉をもらえるなんて、思ってもいなかった。予想外もいいところだったし酒の力も借りているが、これは紛れもなくシャノーラの本心。
そう思ってくれていることが嬉しくて、オズウェンはシャノーラの頬に触れた。そうして、染まった色の通りにいつもよりも熱い体温を感じながら、優しく触れるキスを落とす。
頬に柔らかな感触を感じたシャノーラは、それはもう嬉しそうに、花がほころぶような笑みを見せた。
「もちろんです。あなたがいなくては、私は笑えません。どうか、これからもずっと隣にいてくださいませ」
「それは、僕の方からお願いしたいな。結婚式も無事に終えたのだから、離すつもりもないけれど」
ゆらゆらと揺れるランプの光に照らされて、二人はそっと顔を寄せる。誓いのキスはすでに大勢の前で済ませた。違えるつもりも、予定も、まったくない。あるのは、オズウェンの隣でずっと笑うシャノーラがいる未来だけだ。
「愛しているよ。シャーリー。僕の氷華」
「氷華、ですか?」
「氷のなかでも、真っ直ぐ健気に咲き誇る華。シャーリーにぴったりだろう?」
ふわりとシャノーラを抱き寄せ、自分の腕の中に閉じ込めたオズウェンが笑う。
それは、陽だまりでもなく、王太子でもない。ただのオズウェンが見せる、幸せだと実感している笑顔だった。
その笑顔をこれからも、誰よりも近くで見ることができるのは、シャノーラだけだ。
「私も、愛しています」
二人を祝福する街の光は星のように輝き、一晩中絶えることはなかった。
これにて、完結です。
ここまでお付き合いいただきまして、ありがとうございました!




