27.
先ほどまでは卒業を迎えた生徒たちの希望にあふれた声で満ちていたホール。それなのに、今では息をすることさえ禁止されているのではないかと錯覚するくらい、微かな音さえ聞こえない。その中心にいるのはオズウェンと、へたり込んだまま動かない令嬢。
止めようとした教師ですら、令嬢の叫びに動きを止めて目を見開いている。シャノーラが学園内で氷姫と囁かれているのは、教師たちも耳にしていた。対処しなかったわけではない、けれどシャノーラからこの程度であれば問題ないと言われてしまえば、注意以上のことは出来なかった。
今更感じるのでは遅いが、こう問題を起こされるのであればもっと厳しく対処していれば良かった。特に、この令嬢に関しては予想外の行動をするのだと報告が上がっていたのだから。
苦いものを噛み締めているように渋面を作る教師たちを余所に、オズウェンが行動すると分かっていたラウルとモニカは、冷静に状況を把握していた。
「ラウル様」
「なにかな、モニカ嬢」
「あのご令嬢には、破滅願望でもおありなのでしょうか」
オズウェンが、感情を抑えるために貼り付けていた笑顔の仮面。それが取れたところを見慣れているラウルと違って、シャノーラとモニカはほとんど見たことがない。オズウェンがシャノーラには見せようとしなかったのだから、当然だ。
けれど、モニカは騎士団との関係があるからか感情をそぎ落とした人の言動に、多少なりとも耐性があるようだ。
「……そうかもしれない、って思ってもいいか? よくもまあ、あそこまで地雷を踏み抜いてくれたものだ」
破滅するだなんて、あの令嬢は夢にも思っていないだろう。それはモニカにだって分かっている。
頭の中で描いていたのは、シャノーラの代わりに自分がオズウェンの隣で微笑んでいる未来だったはずなのだ。そんな未来など、永劫来ないと分からないからのあの行動なのだけど。
もしかしたら、ほんの小さなカケラくらいはあったかもしれない可能性。それは、他ならぬ令嬢自身が砕いてしまった。オズウェンが何よりも大切にしていると公言している婚約者であるシャノーラ、その存在を軽く見た上に自分が簡単に取って代われるような発言。
「ご自身は、何が地雷だったのかをご理解していない様子ですが」
「私、ここにいてもいいのでしょうか……」
オズウェンの感情を映さない冷たい瞳に射貫かれている令嬢は、体が竦んでいるようで先ほどから動かない。今のうちに教師が令嬢を会場の外に連れて行ってくれたらいいのに、そんな様子も見受けられない。周りの生徒たちもまるで見世物のように令嬢を見るだけで、手助けの申し出もない。
ならば、この場をどうにか出来るのは氷姫、と呼ばれた自分だけだろう。そう思ったシャノーラから疑問が飛び出した。無意識に一歩出た足は、モニカがそっと体を滑り込ませたことでそれ以上進むことが出来なくなる。
「今日のシャノーラ様は、オズウェン殿下に守られるのがお仕事ですわ」
「そうそう。タイミングは指示しますから、せいぜい余裕を見せつけてやってくださいよ。せっかくオズが準備したんだから」
「準備、ですか?」
こてん、と首を傾げたのはシャノーラだ。卒業するオズウェンとラウルが準備するような事など、何かあっただろうか。ラウルの言い方だと、オズウェンが準備をしたのはシャノーラが今纏っているドレスだけではなさそうだ。
「ラウル様?」
「え、あ。……申し訳ない」
ずいっと笑顔のモニカがラウルに詰め寄った。一瞬やばいという顔を見せたラウルだったが、それ以上何かを言う前に、オズウェンの声が聞こえたのでモニカの意識がそれる。
ほっと安心したようなラウルにシャノーラは苦笑いだけど、これでオズウェンの準備していたという何かについて、知らなかったのは自分だけだと理解してしまった。ラウルもモニカも止めないというか、協力しているのだったらきっと悪いことではないとは思うが、何をするのかが分からないというのは少しだけ不安になる。
この騒ぎがひと段落したら、誰かに聞こう。そう決めたシャノーラは、これ以上騒ぎが大きくなりそうだったら自分が飛び込もうとも思いながら、オズウェンの様子に目を向ける。
「氷姫、ねえ?」
意図したのかどうなのか、ちょっと前のシャノーラと同じようにこてん、と首を傾げたオズウェン。けれど、シャノーラと違うのはその目に困惑の色などなく、むしろ令嬢の反応を伺う余裕すら見えることだ。楽しそうにくすくすと小さく笑うオズウェンの冷え切った目を向けられているわけでもないのに、近くにいる生徒の背中にゾクリとしたものが走る。
「学園で皆言っているじゃない! 今さら文句でも言うつもりかしら?」
「文句は言わないさ。本人であるシャノーラが大事にすることを望んでいないのだから」
「だったら……」
「けれど、それと僕が不快に思うかは別問題だよね? 婚約者のことをそんな風に言われていて、怒らないとでも思った?」
これは、誰だ。令嬢はラベンダー色の髪と同じ色の瞳を、見開いた。学園内で見るオズウェンの姿はいつでも微笑みを絶やさずに、誰にでも穏やかな態度で接する、王子としてはまさに理想の姿だ。
だからこそ、その隣にいるのがどんな時でもきゅっと口を引き結んだ表情を崩さずに、冷静というのではなく冷たいという言葉が似合う令嬢であるのが、悔しかった。
氷姫だと言い出したのが誰だったかは知らない。知るつもりもないが、その言葉がシャノーラにぴったりだと思った。それを誰も否定しないのだから、口にしなくてもこの学園の皆がそう思っているのだと令嬢は信じていた。
「だって今まで何も言わなかったじゃない!」
「今まで触れなかったのは、シャノーラが僕に自分だったら大丈夫だと言っていたからだよ。けれど、僕が学園を卒業するにあたって、不安な要素は残しておきたくなくてね。
さて、君は……君たちは誰を氷姫だとあざ笑っていたのかな」
オズウェンがシャノーラに内緒にしていたのは、言えば止められると分かっていたから。ただでさえ、オズウェンの卒業までは変わる可能性のある婚約者の位置にいてくれているのだから、それ以上の負担を強いたくはなかった。穏やかに過ごせるはずだった学園でも、周りからの好奇の目に加えて、明らかに尊敬ではない呼び名が囁かれる始末。そしてその声は、自分が学園を卒業してからは大きくなるのだろう。簡単に想像できることに対処しないなど、王太子である前にオズウェンとして許せそうにない。
オズウェンは、ずっとこの機会を待っていたのだ。
「王太子の婚約者だと分かったうえで嘲笑していたのだから、当然シャノーラよりも優秀なんだよね。ぜひとも僕に見せて欲しいんだけど、どうだい?」
幼くして王子の婚約者となり、礼儀作法をはじめ学問や教養などにも精通していなければならなかったシャノーラ。その成績は学園内でも上位であると、生徒は誰もが知っている。オズウェンが王太子に指名され、さらにマナーや立ち振る舞いまで厳しい目が向けられることになっても、シャノーラは努力を怠らなかった。
それだけのものを見せられるのかというオズウェンの問いかけに、令嬢から返事はない。はくはくと浅く呼吸を繰り返すだけだ。もはや、令嬢に言い返せるだけの気力がないことは分かるだろうに、オズウェンは視線をそらさない。
「オズウェン様」
「シャノーラ」
このまま令嬢を放置するわけにはいかないと、年配の教師が生徒の人垣をかき分けたところで、シャノーラがオズウェンに声をかけた。
令嬢もオズウェンの事を殿下ではなく様付けで呼んでいたけれど、マナーの面からいえばあり得ないことだ。シャノーラが学園で呼んでいるのはきちんと許可を得たからだと、令嬢はきっと理解していないけれど。
「本日は、卒業という祝いの場ですわ。それに、私が表情を崩さないことはその通りです」
シャノーラとて、好き好んで氷姫と呼ばれることを受け入れたわけではない。王太子の婚約者だからというだけで、あることないこと噂されるよりかは、自身が笑顔を見せないことを氷のようだと言われるだけで収まるのなら、それでもいいと打算もあった。
それが、オズウェンにこのような行動を起こさせてしまうまでに心配をかけていただなんて、露ほども思わずに。
「ラウル様とモニカ様からも聞きました。私のためを思っていただけるのであれば、どうぞお怒りを収めてはくださいませんか」
そうしてシャノーラは、ラウルに言われたとおりにそっとオズウェンの手を取り、懇願するような声をかける。ぎゅっと包み込んだ手を見つめた後に、上目でオズウェンの様子を窺う。この程度で絆されるオズウェンではないけれど、少なくともあの冷え切った目に温度を取り戻すことは出来るのではないか、そう思っていたシャノーラは目を瞬かせた。
「全く、君にこんな知恵を仕込んだのは誰だい、シャーリー?」
「知恵と申されましても……ラウル様がこうすればいいと」
「そうか。ラウルには、後でいろいろと話をしなければならないようだね」
呆れたような口調なのに、シャノーラに向けるのは愛しさを隠しきれていない表情。令嬢を見ていた時の冷たい瞳など、どこにも存在していないその顔は、令嬢に勝ち目などなかったのだと誰が見ても明らかだ。
ラウルに向けたいろいろ、にはかなり含んだものがありそうだが、それは今追求するべきことではない。オズウェンの手を包み込んでいたシャノーラの手が、ふわりと空気に触れる。改めてシャノーラの手を取ったオズウェンは、そのまま肩をぎゅっと抱き寄せる。
オズウェンと密着する形になったシャノーラは、氷姫という呼び方がまるで嘘のように顔をほんのりと赤く染め、恥ずかしいと全身で表している。
「あの、ウィン様……近いです」
「シャーリーは僕の傍にいるのが嫌になった?」
ぎゅっと抱き寄せて離さないオズウェンに、とんとんと小さく腕を叩くシャノーラの主張はそれ以上できなかった。嫌になったのかと聞いてくるオズウェンの瞳が、不安で揺れていたのだ。
今までシャノーラには見せようとしなかった、陽だまりのような王太子の氷のような側面。オズウェン自身はそれを持っているのは当然だと思っているし、国を導く者として切り離してはいけない部分だとも感じている。
けれど、シャノーラはそうではない。王太子の婚約者ではあるけれど、今日までなら。今なら、まだその立場から逃れることが出来るのだ。
「嫌になど、なりませんよ。私は、オズウェン・フィネ・ハルナード様の婚約者です」
「ありがとう」
シャノーラの髪をひと房取ったオズウェンは、恭しくキスをした。肩を抱かれて逃げられないシャノーラは、至近距離で愛おし気に自分の髪にキスを落とすオズウェンを見て、今度こそ真っ赤になって俯いた。
「騒がせてすまなかった。パーティーの仕切り直しをさせてはくれないだろうか」
オズウェンの言葉が合図だったように、ホールに給仕が入ってくる。王宮で用意したという料理を並べ、生徒たちにざわめきが戻ってきたのをきっかけに、卒業パーティーは再開された。




