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陽炎と氷華  作者: 柚みつ
本編

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25/31

25.

「ようやくこの日を迎えられるな」


 人気のないホールで作業している初老の男性は、手を止めて思わずといった様子で呟いた。独り言のつもりだったそれに、反応したのはもう一人の男性。こちらはまだ年若く、ちらちらと初老の男性の様子を窺っていたのだから、言葉に反応してしまったのは無理もないことろだろう。


「そうですね。準備は滞りなく済みましたし、あとは明日を待つだけです」


 持っていた荷物を置いて話す体勢を取った後輩の姿を見て、初老の男性も倣うように椅子を引いた。どうやら、自分が思っている以上にこの体を酷使していたようだ。一息つけば、今までどうして気づかなかったのだろうと言わんばかりの疲労感が、どっとやって来た。

 もしかしたら、ペアを組んだ後輩は、自分に休憩を取らせるタイミングを見計らっていたのではないだろうか。そう思ったのは、光を落とした中でも後輩が安心したように表情を緩めているのが見えてしまったから。

 年を重ねた分の知識では負けるつもりはないが、体を動かす仕事の方はそろそろ若手に譲ってもいいのかもしれない。わずかによぎった考えはそっと意識の外に追いやって、男性は後輩との会話を楽しもうと体の向きを変えた。


「毎年思いますが、一年というものはあっという間に過ぎてしまうものですね。今年はオズウェン殿下がご卒業ですし、特に感慨深いものがあります」

「ここしばらく、オズウェン殿下には不運なことが重なってしまったからな。明日は学生最後の時間を、存分に楽しんでもらうとしようか」

「そうですね、きっといい思い出で学園生活を終えられると思いますよ」


 後輩は、この学園に来てまだ数年だったはず。学生がそうであるように、教師も無事に一年が終わることは喜ばしい。特に、今年は王太子であるオズウェンが卒業を迎えるのだから。婚約者のシャノーラは一年遅れでの卒業になるが、オズウェンが卒業してしまえば婚約者は確定する。例の婚約破棄の騒動のきっかけに上がるのは、この卒業パーティーだが、今回は何の問題もなく終わることになるだろう。オズウェンがシャノーラを溺愛していることは、学園のみならず王都でも知らない人などいないと言われるほどなのだから。


「そのための、私達です。さ、不備がなければ戻りましょうか」


 疲れを訴えてじんじんと痺れていた足も、何事もなかったようにスムーズに動くのを確認して、男性は立ち上がる。ホールをぐるりと回って忘れ物がないかの確認は、後輩がさっと走って行ってくれた。

 その気遣いはありがたく受け取り、男性がホールの鍵を閉める役割を担うことにする。担当する学年が違うこともあって接する機会はあまりなかったので、今日はいいきっかけになった。

 そう思いながら談笑していた二人は、ホールを出てすぐの角に、人影を認めた。


「おや、君は……」

「あ、あの、申し訳ありません。卒業パーティーが待ちきれなくて」


 驚いていたけれど、どこかに呆れのような感情を含んだ後輩の声に、人影はがばりと頭を下げた。その動きに合わせてラベンダー色の髪が揺れる。初老の男性は朗らかな顔で接しているが、若い男性は少しだけ、表情を硬くした。


「気持ちはわかりますが、このような時間から待っていてはいけませんよ。きちんと体を休めておかないと、十分に楽しめなくなってしまいますから」

「そうですよね、寮に戻ります。申し訳ありませんでした」

「気を付けてお帰りなさい。そして、ゆっくりと休むこと」


 ぺこぺこと頭を何度か下げた令嬢は、初老の男性に見送られて寮へ続く廊下を走って行った。本当だったら、その仕草について咎めなければならないのだけれど、その気も起きなかった若い男性は、代わりに一つ大きなため息をこぼした。


「またあの子か……」

「誰だか知っているのか?」

「ああ。学年が違いましたね。まあ、ここ最近ちょっと思いがけない行動を起こすので」


 苦笑いでそれ以上、言葉にしなかった後輩だったが、男性はこの時期になると起こる問題は熟知している。これでも、この学園で長く教鞭をふるっているのだ。令嬢令息の予想外な行動の理由は、だいたいがこの問題に起因する。


「王太子妃関係か。オズウェン殿下にそんな隙がないことも見抜けぬのなら、務まるはずもないが」

「今回は平和に終わると思いますが、念のため教師陣には注意を促しましょうか」

「それがいい。王太子とはいえ、学園に在籍している間は私たちが守るべき生徒なのだから」


 さらりと当たり前のように告げた男性に、後輩は目を丸くした。まさか、そのような言葉が自分から出てくるとは思わなかったようなその様子に、男性は気恥ずかしくなってさっと視線を逸らす。その先に、令嬢の姿などないのに。



 *


 卒業パーティーの朝、オズウェンはラウルから何度か指摘されるくらい浮き足立っていた。


「気持ちはわかるが、落ち着けって。こっちの準備は上手くいってるんだから」

「そこはオリバーも共に動いてくれたのだから、全く心配していないよ」


 オズウェンから、シャノーラには内緒でと頼まれた事に関しては、ラウルも賛成した。当事者であるシャノーラに当日まで何も伝えないのは申し訳ないと思ったが、それよりも残り一年の学生生活を無事に送れる可能性が高いことへの期待の方が大きかったからだ。


「それじゃあ、なんでそんなにそわそわしてるんだ? 忘れ物でもあったのか?」


 卒業パーティーは、パートナーと共にホールをくぐるのが習わし。身分によってその入場時間を区切ることは、これから貴族社会へと旅立つ若者へ、学園から最後の授業である。

 今、オズウェンはシャノーラがやってくるのを控室で待っている。他にも何人かパートナーを待っているが、そのなかで誰よりも落ち着きがないのはオズウェンだ。

 もっとも、それはラウルだからこそ分かることで、はたから見たらオズウェンが浮き足立っているだなんて、想像もできないのだが。

 評判通りの微笑みを浮かべたオズウェンは、少しだけ眉を下げてラウルにささやいた。


「……シャーリーが、少しだけ遅いような気がするのだけれども」


 シャノーラは、今まで約束した時間に遅れたことはない。余裕のある行動を心掛けているからか、時間ピッタリではなく、少し前から待っているほどだ。そのシャノーラが、オズウェンとの待ち合わせに遅れるということは、何かあったのかもしれない。

 ラウルがそう思ってからは早かった。控室前にいる教師に声をかけ、女子寮へと向かおうとしたときにその足はピタッと止まった。


「申し訳ありません、ラウル様。準備に手間取りまして……」

「いや、大丈夫、まだ定刻では」

「ふふ。ほら、シャノーラ様。大丈夫でしたでしょう?」

「そのようで、安心しました。あの、ラウル様?」


 艶やかなアイスブルーの髪は、それ自体が光沢を放っているかのように輝き、まるで絹糸のようにさらさらと揺れる。感情を表に出さないように、ときゅっと結ばれていた口元は形を変えているが、それだけで印象がガラッと変わる。みずみずしい果実のようにさえ見えるのは、ゆるく弧を描いているからだろうか。

 オズウェンから宝石のようだと称えられている紫の瞳は慈愛に満ちているが、今はラウルを心配そうに覗き込んでいる。

 その身を包むのは、オズウェンの色である金と蒼。見るものすべてを魅了するような豊満な体つきではないが、女性らしいラインが美しく見えるようなドレスは、シャノーラのためにオズウェンが誂えたもの。このドレスも、シャノーラに内緒にしていたことの一つだ。


「いえ、綺麗なものを目の前にすると言葉が出ないって本当なんだなと思いまして」

「そのように早口で褒められると、本当かどうか疑わしいですわね」

「モニカ嬢、分かって言ってるだろう」


 ラウルの言葉に赤面したシャノーラは、いつものように言葉の応酬を始めた二人をぼんやりと眺めている。

 朝からモニカが部屋にやって来たと思ったら、用意されていたドレスはオズウェンからの贈り物。それだけでも十分なのに、王太子妃としての公務ではないこの場で、オズウェンの色を纏うことを許されているのだから、シャノーラにとってはなによりも嬉しいことだ。

 髪から体から、丁寧に磨かれたので、シャノーラは今の自分がとても美しく整えられていることを理解している。ラウルという身近な人からの評価は、大丈夫だと背中を押してもらえるような気がした。


「シャノーラ嬢が欲しい言葉は、俺からではないでしょう?」

「ラウル様からのお言葉も、ありがたく頂戴いたしますよ?」

「……なんでそんなところがオズに似るんですかね」


 せっかく整えていた髪をぐしゃぐしゃとかいたラウルは、がっくりと肩を落とした。オズウェンに似ている、そう言われたシャノーラは笑顔のままだ。


「大変、良くお似合いです。どうぞ我が主に、そのお姿を見せて差し上げてください」

「ありがとうございます」


 口調こそかしこまっていたものの、態度はどう見てもそうではないラウルに、モニカは呆れたような顔をしていたけれど、シャノーラは楽しそうだ。

 小さい頃にもこのようなやり取りをしたな、とほんの少し懐かしみながら、オズウェンが待っている控室のドアを開く。


「オズウェン様、お待たせいたしました」

「……女神に会うためだったら、どれほど待つのも苦ではないよ。ドレス、とても良く似合っている。きてくれてありがとう」


 シャノーラが遅れるかも、と心配していたオズウェンの顔が、一瞬にして朱に染まる。モニカからも、着替えを手伝ってくれたメイドからも、ラウルからだって同じように賞賛の言葉をもらった。

 けれど、やはりオズウェンから言われるのが一番嬉しいのだと再確認したシャノーラは、エスコートのために作ってくれた隙間に、そっと手を通す。


「大丈夫かい、シャーリー」

「ウィン様と一緒なら、どこへでも行けますわ」

「それは光栄だね。それじゃあ、行こうか」


 ふふ、と笑い合った二人は、拍手と歓声が響くホールへと、ゆっくり向かっていった。





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