2.
オズウェン・フィネ・ハルナードはこの国の王子だ。父である国王から、王太子として指名された時から、ミドルネームが付いた。
五歳下の弟との仲は良好で、両親とだって公私を分けて接することが出来る。陽だまりのようだと称される笑顔と穏やかな語り口もあり、内外からの評価も高い。
学園を卒業したら、王太子として今以上に忙しい日々が待っていることを知っているからか、国王陛下からは今のうちにいろんなものを経験して来いと言われている。オズウェン自身もその大切さを理解しているからか、学園では様々な人と交流を深めており、気さくな王太子としても人気を得ている。
そんなオズウェンが、何より大切にしているのは、己の婚約者。
「シャーリー、僕の手は塞がっていてね。君から食べさせてくれると、嬉しいんだけど」
シャノーラ・リズロー。オズウェンよりも一つ下の彼女は、宰相の娘である。数多の名が挙がった王子の婚約者候補の中から選ばれた彼女は、家柄その他条件が一致したのが自分だったから婚約者としての立場にいるのだと、今でも思っている節がある。
日々、オズウェンからかけられる言葉には嬉しさも幸せも感じているけれど、それでも自分の立場は誰かと替えられるものでもあると分かっているような言動を取り、オズウェンと一定の距離と保っているのは、そのためだ。
だからこそ、オズウェンが彼女を逃がさないように、常日頃から甘やかすかのような態度を取っているのは、ある程度は許容されている。
「これは、そのある程度を超えてるんだと思うんだけどなあ?」
「ラウル」
手が塞がっている。それはそうだろう。オズウェンはシャノーラの肩を抱きながら、書類にサインをしているのだから。
真っ赤な顔をしているが、シャノーラの手はオズウェンの方へと向かっていた。一口サイズにきちんと切り分けられた生チョコタルトを持って。
止められなければチョコのように甘いひと時を過ごせたはずなのに、と文句を口にしながらも、オズウェンはペンを置いた。
「ありがとう、シャーリー。食べながらで悪いんだけど、来月の予定について話を進めてもいいかな?」
「もちろんです。……差し出がましい真似を、失礼いたしました」
「全然。とても嬉しかったよ。今度は、ぜひとも最後までお願いしたいな」
「オズ」
唸るような低い声で名を呼ばれたオズウェンは、降参とばかりに両手を掲げている。ラウルに言われるまでもなく、時間が迫っていることは承知している。けれど、このやり取りはラウルにも、シャノーラにも必要な時間だ。何よりも大切だと公言している婚約者が心を痛めている状況を、そのままにしておくオズウェンではない。
先ほどシャノーラを囲んでいた令嬢たちが告げた、氷姫という言葉。
王太子妃として、必死に自らを律してる姿を知らず、ただその権力のおこぼれにでも与りたいからと擦り寄って来たのに、思い通りにならないから氷姫と吐き捨てる。
シャノーラが氷姫と言われるたび、心に氷のような棘が刺さっていることをオズウェンもラウルも分かっているのだから。
「来月は、学園の試験があるから公務は控えめになる。シャーリーも参加するのは、母上の誕生会だね」
「もう、そんな時期ですのね」
先に切り出したのは、オズウェン。カップをソーサーに戻しながら、視線はシャノーラに向いたまま。オズウェンが学園に通っているのは、貴族としての義務だからであって、学ぶことはほとんどない。既に、身につけてしまっているからだ。
定期的に試験があり、自身の実力が他者の目に触れる機会があるので、気は抜けないが。
なので、王太子としての公務はあるが、この時期には必要最低限のものしか回ってこない。その辺りのさじ加減を知るのは、父も母も学園の卒業生だからだろう。
「今年もシャーリーに会えることを、母はとても楽しみにしているよ。もちろん、僕も」
「ウィン様は、私と毎日お会いしていますのに?」
「愛しい婚約者に毎日会えるのは幸せだよ。けれど、その日はドレスアップして一層美しく着飾ったシャーリーが見れるからね」
これは、オズウェンの本心だ。学園の制服に身を包むシャノーラを毎日見ていられるだけでも幸せだと感じているのに、ドレスアップをしている時の美しさは、何度姿絵を描いてもらおうかと思ったかも分からない。
他の人に見せることのない、穏やかな笑み。そんなオズウェンの心からの笑顔を間近で見たシャノーラは、ほんのりと頬を赤くした。
「精いっぱい、務めさせていただきます」
「本当は、そんな君を誰にも見せたくないんだけど……仕方ないからね」
ラウルがまたジトッとした目でオズウェンを見ているが、それには気付かないふりをしている。気恥ずかしさからか、少し俯いて意識を逸らすようにタルトを食べているシャノーラの姿を目に焼き付けるのが、オズウェンの今やるべきことだ。
一瞬、独占欲と呼ぶには強すぎる言葉が聞こえたような気がしたが、ラウルは追求しなかった。オズウェン本人が、その感情のままに行動したらどうなるかを考えられないはずがないとは、分かっている。
「さて、寮まで送るよ。今日はありがとう、シャーリー」
「いえ、あの……私こそ、ありがとうございました」
あの場に、オズウェンが現れたのはきっと偶然ではない。何度伝えても言葉を変えても、その事に関してオズウェンは感謝を受け取ってはくれないだろう。だからこそ、シャノーラは深く腰を折る。そして、寮に戻ってからまた気持ちを新たに、王太子妃としての勉強に励むのだ。
席を立ったシャノーラを見ながら、オズウェンが考えたことはきっと間違っていない。なにより、その行動は自分の傍にあるのに相応しくありたいと思ってのものだと分かっているのだから、気持ちが溢れないはずがない。
エスコートのために差し出した腕に触れる温もりを逃すまい、とオズウェンは力を込めた。
直接言えばいいのに。オズウェンの側近であるラウル・クスタフは、二人の背中を眺めながら思った。
何の偶然か、一文官の子である自分が王子と乳兄弟となった時点で、己の命運は定まったようなものである。物心つく前から王子と共に居て、それが当たり前なんだと思う環境で、ラウルは育って来た。
オズウェンが婚約者候補と顔合わせをしているときの様子だって、覚えている。シャノーラと初めて会った日に、彼女がいいと滅多に言わない自分の気持ちを伝えて、両親である国王と王妃がそれはもう喜んでいたことも。
当時のオズウェンは、シャノーラに会うたびに好きだと伝えていたはずだ。それを社交辞令だとシャノーラが受け取っていると気付いてからは、行動で示すようになっていったが、果たしてどれだけ伝わっているのか。
「どうだろう、ラウル。これでシャーリーに気持ちは分かってもらえただろうか」
「まさか、それで遠回りしたんですか」
「遠回りではないさ。あの令嬢たちの事を思い出させないように、道を変えただけだ」
寮まで送り届けるにしては少しばかり遠回りだったが、それはオズウェンがシャノーラとの別れを惜しんでいたからだと思っていたのに。
「シャノーラ嬢は聡明ですから。きっと殿下の思惑にも気付かれていたでしょう」
「では」
「だからって、オズの気持ちが伝わってるかどうかは知らん」
国民のほとんどが口を揃える、陽だまりのような王太子。その笑顔は、ただ一人のためだけに向けられているのだと知る者は、少ない。
幼なじみであるラウルは、今日もまた人知れずため息を漏らすのであった。