11.
「ウィン様、オズウェン様……!」
どうしたらいいのだろうか。青ざめた顔でオズウェンの名前を呼び続けるシャノーラの頭を巡るのは、その一言ばかり。
この場を離れて、誰かを呼びに行く。誰を、どのようにしてこの場に連れてくればいいのだろう。それに、シャノーラはオズウェンに手を引かれてこの奥の庭へやってきた。戻れと言われても迷わずに行ける自信は、ない。
シャノーラも下に飛び降りて、オズウェンの介抱をする。下は花が咲き乱れているのでクッションになるものは十分だ。けれど、シャノーラが飛び降りたところでオズウェンを抱えてこちらに戻ってくることは、おそらく不可能。それに、医療の知識だってあるわけではないシャノーラが隣にいたところで、出来ることなど何もない。
あれこれと考えて、結局その場でオズウェンに声をかけ続けることを選んだシャノーラの耳に、草を踏む音と誰かの声が聞こえてきた。
「爺さん、こっちに何かあるのか?」
「いいから、早う来い。手遅れになってしまう」
奥の庭で、誰ともすれ違わなかったところで聞こえてきたのは、よく知った声。思わず腰を浮かせたシャノーラが振り返るよりも、声の主の方が先に気が付いた。
「手遅れってなんだ、シャノーラ嬢?」
「ゴーディー様、ラウル様……」
安心したように、少しだけ体から力を抜いたシャノーラを、ラウルが訝し気に見ている。ガゼボにいるわけではない、庭で花を愛でているわけでもない。ドレスの裾に土がついているので、地面に座り込んでいたのが分かるけれど、どうしてそのような状態になっているのかが分からない。
先ほどよりも疑問の色を濃くしたラウルをよそに、慌て始めたのはゴーディーだ。
「おい、ラウル! そこ飛び降りろ!」
「は!? おい爺さんさすがに俺でも怒る、
……そういうことかよ!」
シャノーラの隣に立ったラウルは、その視線の先を見て合点がいったように叫んだ。馬から落ちるよりも明らかに高いはずなのに、躊躇することなく飛び降りる。シャノーラが声をかける間もないくらい素早く、そして的確な動作だった。
トサリと軽い音を立ててきれいに着地したラウルは、目を閉じているオズウェンに駆け寄って体のあちらこちらを確認するように触っている。シャノーラからは血を流しているようには見えなかったが、どうやら少しだけ切っていた箇所があったようだ。軽くタオルで押さえているが、すぐに赤に染まるようなことはなかった。
「ゴーディー様、あの……」
「シャノーラ様、黙っていて申し訳ない。すぐそこに騎士たちも控えさせておるので、ご安心ください」
灰色の髪は、いつもよりも乱れている。それはきっと急いで来てくれたという証拠だろう。深く下げられた頭の向こう、敬礼をしている騎士の姿が見えた。シャノーラにも丁寧に頭を下げてから、ラウルが飛び降りた先へと梯子を下ろしている。
下から聞こえてくるラウルの声が慣れた人たちへのものだったので、きっとオズウェンの護衛を担っている騎士たちなのだろう。よく見れば、シャノーラも見知った顔がいる。
立ち上がろうとしたけれど、中途半端な姿勢でずっといたからだろう、痺れてしまった足に力が入らずその場で座り込んでしまった。
「オズウェン殿下から、相談されたのです。記憶をなくしている、とあの方は自力でたどり着きました。そのきっかけの話をしたのは、私です」
そんなシャノーラに手を差し出したのは、ゴーディー。その手を借りて、ようやく立ち上がれたシャノーラは、オズウェンをおんぶして梯子を上がってきたラウルの姿を見て、今度こそ安堵の息を吐いた。
「ラウルにも、言えば止められると思ったのでしょう。今回の件は国王陛下と王妃様、そして私だけで進めました」
「お三方が、認めていらっしゃるのでしたら、これが最善だと思われたのでしょう?」
王太子の襲撃は、なかったことに出来るかもしれない。けれど、記憶喪失までをそうさせるのは不可能に近いはずだ。オズウェンが外にあまり出ることがなければ話が違ったかもしれないが、学園に通ってる上に公務としてあちらこちらに顔を出している。
そんな状況で、いつまでも隠し通せなかったことも事実。だからといってこのような強硬手段を取るなんて思いもよらなかったけれど。
「あの方は、いくつになっても私を安心させてくれないつもりのようですな」
「これっきりに、していただきたいですわ」
「オズウェン殿下が目を覚ましたら、シャノーラ様からよくよく言い聞かせてくださいますか。なにせ、私たちが言うよりもシャノーラ様から言われた方が殿下に響きますのでな」
ぎゅっと、ゴーディーの手を握ったシャノーラは震えている。もちろん、それはゴーディーにも伝わっているだろう。けれど、ゴーディーはその震えを指摘することはなかった。
おどけたように告げるのは、いつもと同じようなこと。オズウェンがシャノーラに弱いとは、誰もが知っているからか、ゴーディーの言葉を聞いて、何人かの騎士が頷いていた。
「……お目覚めに、なりますか」
「叩き起こすのは、私たちの仕事です」
オズウェンは、担架に移されて騎士たちが運んでいく。揺らさないように注意をしながら、けれど出来る限り早い速度でと気を張っているのだろう。
先ほどシャノーラにも敬礼を見せてくれた騎士たちは、ささっと庭から王宮へと向かっていく。ゴーディーは、その様子を確認しながらも、シャノーラの手に薬を塗ってくれた。
ピリッとした痛みが走るが、傷自体は大したことはなさそうだ。けれど、ゴーディーは小さな傷ひとつ見落とさないように丁寧にシャノーラの手を確認していく。
「ラウル」
「分かっていますよ。さ、シャノーラ嬢はこちらへ」
薬を塗り終わったゴーディーはシャノーラをラウルに託し、自身はオズウェンを追いかけるように庭から出て行った。残ったのは、託されたラウルと護衛のための少数の騎士たちだけ。シャノーラが知っている顔しかいないのは、そう手配してくれたからだろう。
先ほどまでのざわめきが嘘のように静まり返った庭に、ラウルの声が響く。
「俺も、さっき話を聞きました。相変わらず、思い切りのいいやつなんですよね」
さっき、と言いながら梯子を上る仕草を見せたラウル。確かに、この庭にやって来た時には何もわかっていなかったような様子だった。あの短い時間で、説明されて受け入れたのだろう。それが、側近としての役目だと。
ガゼボには、湯気を上げる紅茶が用意されている。カチャカチャといつもらしくない音を立てて用意をするラウルに促されて、シャノーラは腰を下ろした。
紅茶を飲む気にも、お菓子を楽しむ気にもならないので、ただ目の前に用意された紅茶の湯気をぼんやりと目で追ってしまう。
「記憶がないはずなのに俺の行動が予測されてたとか、ゴーディー爺さんが黙ってたとか、いろいろ言いたいことはあるんです。だから」
何かをこらえるように一度言葉を切ったラウルは、目元をグイッと擦っている。ぼんやりと顔を上げたシャノーラの視界が歪んでいるのは、もしかしたら同じ理由かもしれない。
「だから、あいつには記憶を取り戻してもらわないと困ります。こんな無茶な真似をして、どうしてくれるんだって叱らないと、いけませんからね……!」
「ラウル様」
「もちろん、シャノーラ嬢もお手伝いしてくださいますよね。あいつに、言いたいことあるでしょう?」
オズウェンに言いたいことは、たくさんある。ラウルの言う通りこんな無茶をして、記憶が戻るとも限らないのに。涙を必死でこらえているラウルの姿は、見たことがない。王太子として頑張っているのはもちろん知っているが、側近を泣かせるようなことまでしなくてもいいのに。
ラウルは受け入れた、けれど納得したわけではなかった。ただ、あの状況で最善だと思った行動を取っただけだったのだ。
じわり、と湯気が滲みたように揺れる視界は、考えをも溶かしていくようだ。シャノーラだって言いたいことはたくさんあるのに、それが言葉になる前にほろり、と頬を伝っていってしまう。
「怖かったと、いなくなってしまうのではないかと思ったと、伝えてもよろしいでしょうか……」
ごめんね、と何を言われたのか分からないうちに、オズウェンは行動してしまった。下が花畑で、そこまで高さがないとはいえ、どうなるか分からないのに。
それが、怖かったのだと。オズウェンがいなくなってしまうのではないかと思った気持ちは、素直に伝えてもいいのだろうか。記憶が、戻るという確約があったわけではないのに、どうしてそんな行動が出来たのかと責めてもいいだろうか。
「もちろんです! 俺は一生言い続けますからね」
「それは、さすがに長すぎるのではないかと……」
「いいえ、絶対です! シャノーラ嬢も、一緒にですよ」
目を真っ赤にしているし、鼻をぐずぐずと鳴らしているが、ラウルはこの件に関して譲るつもりは微塵もないらしい。一生、と言うならば、本当にずっと言い続けるだろう。そして、それはシャノーラも付き合わなければならないようだ。
けれど、それはシャノーラがこの先もオズウェンの婚約者として隣にあれるという意味にもなる。
「……そうですわね。ウィン様には、この件を忘れたとは言わせませんわ」
ゆらり、と視界を滲ませていた湯気は細くなっていたが、紅茶は波紋を作る。静かになった庭には、すすり泣く声がしばらく響いていた。




