1.
タイトルは、『かげろうとひょうか』です。
これからよろしくお願いします!
カリカリ、と一定のリズムを保っていたペンの音が止まる。そこまで早く終わるような書類を渡した覚えはないので、不思議に思った青年は顔を上げた。
「殿下、何見て……ってああ」
上げた顔が捉えたのは、光を吸い込むようなブロンドの髪を短く切りそろえた青年。殿下、そう呼ばれた青年は深い蒼の瞳をゆっくりと細め、窓の外を眺めていた。
陽だまりのようだと好意的に評価されていると知っている本人の、作りものだと自覚もある微笑ではないその笑みを向ける先など、青年はひとつしか知らない。相変わらずだなと思ったことがそのまま顔に出ていたのだろうか、さっきまで柔らかく細められていたはずの蒼い瞳がいつの間にか青年を見据えていた。
「ラウル、そのにやけた顔をすぐに直せ」
「ひどいなあ、俺の顔は生まれつきですよ」
名を呼ぶ声にわずかばかりの気恥ずかしさが込められているとは気付かないふりをして、ラウルは肩を竦めた。最も、そのわずかな感情にも気付くことが出来る者など、ごくわずかしか存在しない。
そのごくわずかに含まれている、貴重な人材であるはずのラウルは、何かを思いついたかのように自分の茶色の髪をばさりと顔を隠すように前に垂らした。男性ながら鎖骨まで髪を伸ばしているラウルなので、その程度は容易い。
「ほらこれで顔が見えなく……
あ、殿下ちょっとどこ行くんですか」
呆れたような溜め息が聞こえたと思ったら扉を開ける音が続いたので、ラウルは慌ててその背中を追いかける。確実に聞こえているにも関わらず、返事も反応もないその背中に、貴方の護衛も兼ねているんですけど、と文句を言いながら。
その一角は授業中でもないのに、緊張が漂っていた。令嬢が話しているだけでは決して出し得ないだろうその空気は、たまたま通りかかった不運な学生が、思わず肩を揺らしてしまうほど。
そんな空気を発してるのは、二人の令嬢。その二人を前にしながらも、感情を読み取らせない態度を崩さないのは、同じ年頃の令嬢だ。不機嫌そうな顔をしている令嬢二人を前にしても、しゃんと正した姿勢のまま向かい合っている。
「あら、いいじゃないですの」
「そうですわよ。こんなにお願いしていますのに」
そそくさとその場を後にする人の事など気にも留めず、二人の令嬢は取り囲むようにしてアイスブルーの髪を持つ令嬢に詰め寄っている。会話だけを聞いているのならば何か頼みごとをしているようにも思えるが、それだったらこんな緊張した空気になどならないだろう。
詰め寄られている令嬢は紫の瞳を一度閉じてから、もう何度目かになる断りの言葉を口にした。
「先ほどから同じことをお伝えしていますが、私の一存では決められません」
「手厳しいこと。さすが、氷姫と呼ばれるだけのことはありますわね」
「そこまで難しい話ではございませんでしょう? お茶会に私達を参加させて欲しいだけ――」
「おや、何か楽しそうな話をしているね」
ここは、この国の貴族子女ならば入学が義務付けられている学園。それは、貴族の階級に関係なく、必ずだ。男爵から国王の子供まで例外なく、定められた期間はこの学園に在籍することとなる。
学園は、貴族社会の縮図だ。令嬢たちは、誰もが高い爵位の家である。マナーを学ぶ期間をとっくに過ぎているこの時期だからこそ、誰でも通れる廊下で話している令嬢たちに割入って、話を中断させられる者はいなかった。
たった今、この場にやって来た人物を除いては。
「オズウェン殿下!?」
「オズウェン様……」
にっこり、陽だまりのような微笑みと称されるオズウェンの笑みを真正面から直視した令嬢二人は、ざっと血の気が引く音を確かに聞いた。
安心したようにほんの少しだけ表情を緩めたのは、詰め寄られていた令嬢。反応が二人よりも遅かったのは、オズウェンが背後からやってきたからだ。
「シャノーラとは、これから約束があるんだ。君たちとの話に、僕も混ぜてくれるかい?」
シャノーラ、と名を強調し、見せつけるかのように肩を抱いたのは、守るという意思表示に他ならない。獲物を捕らえたかのように獰猛な視線を浴びた令嬢たちは、慌てて口を開いた。
「で、殿下とのお約束があるとは存じませんでしたわ」
「ええ、そうですわ。それならば私達との話より、殿下のお約束の方が大切ですもの!」
「ありがとう。それじゃあ、シャノーラ?」
「ええ、失礼いたします」
引きつった顔を隠そうともせず、基本もなっていない礼しか取れない令嬢にかける言葉など何もない。無言で背を向けたオズウェンの行動からは、そんな意図が見て取れた。
幼い頃から王太子妃として教育を受けているシャノーラの、手本のような美しい礼を見て呆然としている令嬢たちには、誰からも声がかからなかった。
先ほどまでオズウェンとラウルがいたはずの部屋に戻るまでの間、シャノーラの肩は抱かれたままだった。それは、令嬢たちに声をかける間際に聞こえた、シャノーラを揶揄する言葉にも理由があった。
「ラウル、顔と名前は」
「もちろん、分かりますよ。あとでリスト差し上げましょうか?」
「あの、」
部屋に戻って来て一番、オズウェンが尋ねたのは詰め寄っていた令嬢について。もちろん、そう言われることはラウルも予想していたので、自分の記憶のなかで思い当たった名前をすでに引っぱり上げている。
「そうだな。あんまり手元にあっても有効活用できるとは思えないけど、一応目を通しておくか」
「全く、仕事増やさないでほしいものですよ」
「お二人とも、」
すとん、と腰を下ろしたオズウェンの動きに合せるように、シャノーラもソファーの柔らかさに身を沈めた。そこでようやく肩を抱いていた腕を離したオズウェンだったが、すぐにその腕はシャノーラに取られることになる。
「殿下、ラウル様」
「ん? どうしたんだいシャノーラ」
先ほどから、自分の声を聞こえていないような態度を取っていたのだとは思えないくらいに即座に反応したオズウェンとラウルに、シャノーラは目を丸くする。柔らかく細められた蒼の瞳に映っているのは、困惑しているシャノーラの顔だけだ。
聞きたいことは、ある。けれど、王太子妃として教育を受けてきた身がそれを直接言葉にすることを躊躇させた。シャノーラの葛藤をまるで見透かしたかのようなタイミングの良さだったが、世間話のような軽さをもってラウルから答えがもたらされた。
「あのタイミングで殿下が来たのは、偶然ですよ。シャノーラ嬢」
「……ありがとうございます」
シャノーラがオズウェンを見ると、にっと口元が弧を描いた。これ以上、何かを言うつもりはないらしい。ならば、ラウルの言葉が答えなのだ。そう理解できないのなら、シャノーラは今この立場にはいない。
「感謝されるようなことは何もしていないけれど、約束は果たさなければね」
「約束、ですか」
「そうだよ。これから僕とお茶に付き合ってくれるかい、シャーリー」
今日の授業が終わったら、自室で勉強をする予定だったけれど、なにか約束している事でもあっただろうか。そう予定を振り返っていたシャノーラは少しだけ、反応が遅くなった。
宝石のような紫の瞳を瞬かせてオズウェンの顔を見ているシャノーラ。その様子は、先ほどまで令嬢二人に詰め寄られていた時の態度よりも年相応に見える。そして、オズウェンの問いかけの意味を正しく理解したシャノーラは、ふわりと微笑んだ。
「もちろんですわ。ウィン様」
「という訳だから、ラウルは急いでタルトを買っておいでね」
先ほどまで棘があったはずのオズウェンから、毒気が抜けている。そうなった理由などひとつしかないだろう。
王太子は、自身の婚約者を何よりも大切にしているのだから。その婚約者が、愛称を口にしたのは気を抜いた証拠。
「殿下は俺を何だと思ってるんですか」
「もちろん、有能な側近だと思っているよ。ほら、今ならまだ限定の生チョコタルトが買えるはずだ」
「分かりましたよ。その代わり、俺も食べますからね!」
氷姫。最初は、シャノーラのアイスブルーの髪と、キラキラとした紫の瞳の印象を持って言われ始めた通称だった。それが今では表情を変えず、態度も崩さないシャノーラを指す言葉になってしまっている。
生チョコタルト、と聞いただけで頬を紅潮させる令嬢のどこが氷のようなのか、と思いながらもラウルはそれを口にしない。
氷姫と呼ばれている意味を分かっていても、王太子妃として相応しくありたいと努力しているシャノーラを知っているからだ。
「飲み物を用意して、待っていますね。ラウル様、よろしくお願いします」
「お任せください!」
ひらひらと手を振ったラウルは、駆け足で部屋を出て行った。急いで向かわないと所望のタルトが売り切れてしまうだけではなく、あの令嬢たちが何を言っていたのかシャノーラが説明を始めてしまうだろうから。
「ま、何言ってたかなんて大体想像つくけど」
オズウェンの外面が良すぎるせいか、それとも弟王子にはまだ確定の婚約者がいないからだろうか、自分を売り込んでくる令嬢は後を絶たない。
王家に直接伝えられないのなら、とシャノーラに話を持っていくのは、まだ分かる。が、それが一番悪手だとは、気付けないものなのか。
「うちの王太子は、婚約者のこと大好きだからなあ」
陽だまりのような、と言われる笑顔の裏で、シャノーラの事を逃がすまいと必死になっているオズウェンのためにも、タルトを手に入れなければならない。
ラウルは、頭の中ではじき出した最速ルートを教師に注意されないように、細心の注意をもって走り出した。
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