Awake
この小説を選んでくださり、ありがとうございます。
一話完結の短編小説なので、さらっと読んでいただけるかなと思います。
読んだ後、あたたかい気持ちになっていただけたら嬉しいです。
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「俺さ、」
ぼーっとしてたら気づきもしないような、微かな声。なんとなく、その声を聞き逃してはいけないような気がして、隣に座っている彼に視線を送る。もういい時間だ、窓から差し込んだ夕日が、彼の目を柔らかくオレンジ色に染める。
「大学やめようと思って」
その言葉に驚くよりも先に、ああ、ビー玉をはめ込んだようで、綺麗な目だな、とか思ってしまった。
将来の夢は?昔からよく聞かれること。聞かれるたびに、いつも返事に困ってしまう。生活に困らないくらいに稼げて、そこそこ楽しければいいかな、とか考えてしまう。この先結婚するのかもわからないけど、一応女だし、産休育休取りやすいとこ…とか、まあそれくらい。やりたいことも特にないし、野心があるわけでもない。人並みの幸せがあればいいかなってくらい。今は美大3年の春、夏も近づいてきてるし、そろそろ就活とか考えなきゃな、とようやく思い始めたところ。美大に入学したのも、単に絵が得意だったし、嫌いじゃなかったから、というだけ。勉強するよりは楽しそうだなと思った。このまま順当にどっかの企業のクリエイティブ目指して頑張る感じかな、というのが今後の方針。人に話したら主体性がない、とか言われそうだけど、これが私の考え方だし、まあそれでいいと思ってる。生まれてこの方こんな調子で、流れに身を任せて生きてきた。それでも、たったひとつだけ、心を奪われてしまったものがある。
彼と、暁斗と初めて会ったのは、2年の梅雨ごろだ。別に運命的な出会い方をしたわけでもなく、ごくありふれた感じだった。同じ学科で仲良くなった子と同じ地元の人、ただそれだけ。私はデザイン科、彼は油彩画科だから、それまで接点こそなかったけれど、彼の純朴そうな感じがなんだか心地よくて、友達を介して少しずつ話すようになってきた頃だった。お互いの作品を見てみたい、というような話になった。大学で描いている絵は何枚か見せてもらったけど、彼がそれとは別に、家で描いている絵があるというから、友達も一緒に、週末3人で彼の家にお邪魔した。
「おお!すごいめっちゃ綺麗!」
歓声をあげて友達は、彼女は麻里というのだけど、麻里はその作品を褒めそやした。
「暁斗の絵、色遣いが独特で好きなんだぁ」
麻里がそうやって和やかに感想を伝える隣で、私はものも言えず、ただただその絵に見入っていた。美しいだけの絵なら、何度も見たことがあるのに。他の絵と何が違うかもわからないのに、その絵から目を離すことができない。明るく、暗く、様々な色で彩られた絵。緻密で、でも大胆で、今まで見たことのない絵だった。まだ完成してはいないんだろう。絵の中央が、まだ白いまま、ぽっかりと空いていた。
「ねえ、伊織もなんか感想言ってあげて!」
麻里に言われて、やっと絵から目を離す。首を傾げてみせると、麻里はくすりと笑って、彼の方を顎で示した。
「暁斗、伊織の感想が気になってそわそわしてる」
「ちょ、麻里…!」
心なしか焦ったような彼の声に思わず彼を見ると、彼もまた私を見ていた。目が合った。バツが悪そうに目を逸らした彼が描いたなんて信じられないくらい、それくらい、引き込まれるような絵。言いたいことはたくさんあるのに、何ひとつとして言葉にならない。言いかけてはやめ、言いかけてはやめを繰り返して、やっと出てきたのは、
「色味が素敵。私この絵、好きよ」
と、ただそれだけ。こんなありふれた言葉で、言い表せるわけないのに。今まで執着するものもなく、のうのうと生きてきた自分が、絵1枚になんでこんなに焦ってるのかわからないけど、言葉が見つからないことがもどかしくて仕方がなくて、ひどくいらいらする。ああ、もっと勉強しておけば、いっぱい本とか読んでおけば、すらすら言葉が出てきたのかな。私の苛立ちとは裏腹に、彼は私の言葉に安堵したように、ぱっと顔を輝かせた。
「俺、色味にはこだわっててさ、まだ未完成なんだけど、伝わってよかった!」
こんな言葉で喜ばないで。なんでかもわからないけど、そう思ってしまう。今まで何かを好きだなんて思ったことがなかった。でも。好きってこういうことを言うんだろうな、そうとしか思えないくらい、心惹かれる。言葉にならないほどの感動に戸惑ってしまうくらいに。
「で、さ」
消え入りそうな彼の声に、私も麻里も彼に視線を送る。彼は少し口籠もって、広い肩幅を丸めるようにしている。
「俺見たい映画があってさ、明日、とか…もしよかったらみんなで一緒に行きたいなと思うんだけど…」
どうだろう、とためらいいがちに彼はこちらを見た。九州の出身だと言っていた彼は、東京育ちの私よりも、少し明るい、茶色の目をしている。柔らかくまろい彼の目にとらわれて、動けなくなる。
「明日は彼氏とデートなんで、」
歌うような調子で麻里が言う。たくらむように、いたずらな笑みを浮かべて彼女は私と目を合わせてきた。
「いやじゃないんだったら、ふたりで行ってきたら?」
彼はちょっと緊張したような面持ちで私を見つめ続けている。断るのも申し訳ないし、まあいいかと思って頷くと、彼はさっき絵の感想を言った後と同じくらい、いやそれよりも安心したように見えた。彼の絵と、彼の目は、好きかもしれない。
その後の展開は、まあよくある感じだった。午前中、10時くらいに駅前で集まって、映画館へと向かった。映画はそこそこに面白くて、感想を言い合いながらその辺のカフェで昼食を済ませて、なんとなくそばにあった美術館に立ち寄った。結局映画の話より、好きな絵、好きな画家の話で盛り上がってしまう。絵について語る彼はどんな時よりも生き生きしていて、本当に絵が好きなんだろうな、と思う。得意だったから、なんて理由で美大に入ったような、私とは大違い。そうして、なんだかんだいい雰囲気のまま夕方になって、帰りに彼に告白をされた。
「その、初めて会った時から好きだなって思ってて、で、よかったら付き合って欲しいなとか、思ってるんだけど、」
つっかえそうになりながら、不器用に私を見つめて、彼が言葉を紡ぐ。麻里にも協力してもらってるんだろうな、昨日の様子をなんとなく思い返しながらそんなことを思う。今まで恋愛とかに興味を持ったことがなかった。好きな人もできたことがないし、まあそれでもいいだろうと思っていた。今彼が好きかと言われると困るけど、まあ、案外悪くないかも、とか思ってしまっている自分もいるのが事実だった。そして何より、彼の絵を間近で見る権利がほしい、なんて、そんな浅ましい理由があって。
「いいよ」
気づいた時には、そんなふうに返事をしていた。昨日見たどの表情よりも、彼の顔が、目が、輝いて見えた。次の瞬間には強く抱きすくめられていて、ちょっとびっくりする。
「昨日見せた絵があるじゃん、」
抱きしめた状態のまま話し出されて、さらに戸惑う。機嫌がいいのか、彼はちょっと体を左右に揺らしながら、低い声で話を続ける。とりあえずそのままうなづくと、彼は、
「あの絵の真ん中に人を描こうと思ってて、それで君をモデルにしたくて、もしよかったらだけど、やってくれないかな」
そんなことを言われるとは思ってなくて、思わず顔をあげる。彼はようやく、私たちふたりの状況に気づいたようで、慌てて私から離れた。
「ごめん!なんか、つい…」
昨日描いた絵と、私の前でうろたえる彼、そのふたつが全然繋がらなくて、思わず吹き出してしまう。彼の絵ができていくのをを一番近くで見守っていたい、ただその思いで答えた。
「いいわよ、モデル、やってあげる」
彼との交際を初めて、あと2ヶ月で1年になる。大学3年の5月、麻里は私がもっとすぐに彼に飽きると思っていたみたいで、ここまで私たちが付き合っていることにひどく驚いていた。驚くことはない、私はあの絵が完成するまで彼から離れるつもりはない。彼の絵が完成されていく様をそばで見ていたい、そんな理由で付き合ってるんだから。
「伊織、もうちょっと顔傾けてみて」
静かな部屋で、彼の声とふたりの息遣い、筆の音だけが響いた。今日も彼の部屋で、彼の絵のモデルをしている。絵を描くとき、彼の目つきは別人のようになる。柔らかな茶色の目が、目に映るものをひとつも取りこぼしたくない、とでも言うように鋭くなる。そんな彼を見ているのは、結構面白いと思っている。彼の絵は、もう少しで完成する。完成しそうだ、という未来は見えている。でも、完成した後の未来は見えない。絵が完成したら、私は、彼から離れるんだろうか。今私は、彼のあの絵を見るために、彼のそばにいるから。絵が完成したら、私はどうしたいんだろう。今まで何にも固執せずにいたから、今自分が何にしがみついているのかも、わからなくなる。
「俺さ、」
つぶやくように、彼が言った。その声に混じる、いつもとは違う響きに思わず彼を見つめる。続きを促すように、首を傾げてみせると、彼は静かにこう続けた。
「大学やめようと思って」
夕日が差し込んだ部屋で、オレンジ色の光が当たって明るい目がいつもよりも明るく見えるな、とか、ポーズ崩しちゃったけどよかったかな、とか、そんな関係ないことばっかり頭の中を巡っていく。何か言わなきゃ、焦ったようにそう思うけど、初めて彼の絵を見たときみたいに、笑っちゃうくらい何も出てこない。
「…なんで、なんでやめちゃうの」
自分の口から飛び出た声が、思ったよりも切羽詰まってて、自分でもびっくりする。彼もちょっと驚いたのか私の方を見た。少し笑って、すぐに目を逸らす。
「絵、完成したけど見る?」
そう言う彼の口調はすっかりいつも通りのそれで、なんて返したらいいかわからず、とりあえず頷いた。彼も画材を置いて立ち上がり、誘うようにして手を伸ばしてきた。
「ああ」
初めて見た時とは違って、今度はすぐに声が出た。彼独特の色遣い、1年近く一緒にいるけど、その深さにはいつも驚かされる。背景が素晴らしいのもちろんのこと。でも一際目を引くのは中心に描かれた女性だと思う。自分がモデルだと言われても、そのあまりの美しさにおこがましくて素直に頷けない。強く、清く、柔らかく、世界中の光をまとったような美しさを放つその絵。絵を媒体にして、彼の目に映った世界が織り上げられているのだとわかる。この絵が好きだな、何度見てもそう思わされる。初めてできた、大切なものだと。
「どうして、大学やめようって思ったわけ?」
彼に聞こえるかわからないくらい、小さな声でそう聞いてみる。その場の思いつきで、やめるとか言う人じゃない。そんなことわかってるから、どうして、どうして今なの、余計にそう思ってしまう。
「…この先の未来が、見えなくて」
ぽつりと落とした一言が、私がさっきまで思っていたことと同じで、弾かれたように彼を見上げた。彼は頑なに私のことを見ようとしない。
「絵が好きで、絵ばっかり描いて今まで生きてきたけど、絵で生きていくのって本当に大変なことだから。この先食べていけるかとか不安になるし、今からでも遅くはない、大学辞めて勉強して、普通の就職先探すのも手だよなとか思ってたりもしてて。ていうのは建前で、何より…」
一言一言、噛み締めるようにして彼がそう言うのを、ただ聞いていた。彼は言葉を切ると、やっと私の目を見た。苦しそうに歪んだ目に、私が気に入っていた柔らかい光はなくて。
「君が、伊織が俺のそばにいてくれるのは、俺が好きだからじゃなくて、この絵が好きだからって、わかってたから…」
掠れてなくなってしまうくらい、絞り出すような声に、自然と自分の目が見開かれるのがわかる。私の卑しい欲望は、隠せている気でいたけどそんなの全部彼にはお見通しで、恥ずかしくて、申し訳なくて、それでも彼の目から目を逸らせなかった。
「この絵を描きあげたら、君は俺の前からいなくなるのかなとか、そんなこと思ってたら、俺なんで絵描いてたんだっけとか、思えてきちゃって…いっそ君から離れた方が、こんな悩みもなくなるんじゃないかって、」
ねえ、とささやいて彼の大きな手が私の頬に触れる。こんな時ですら、ひどく優しい手つきで。
「伊織、なんで泣いてるの」
言われてやっと、自分が泣いていることに気づいた。理由もわからないまま、一筋、また一筋、涙が頬を滑って落ちる。今更、もう遅いのに、どうして今になって…
「暁斗」
私の頬に触れる、彼の手をとった。彼は、暁斗は息をのんで、ぎゅっと強く、私の手を握り返してきた。
「今更でごめん、気づくの遅くてごめん、伝えてあげられなくてごめん」
息を吸う間も無しに、まくし立てるようにそう言って、涙で滲む視界の中に、彼だけを捉えた。
「暁斗が好き、暁斗だけが好きなの」
泣きすぎたのか膝の力が抜けてしまって、彼にすがるようにして立つ。付き合ったあの日と同じように、彼は私を抱きしめてくれる。壊れ物を扱うように、おずおずと、あたたかく、包み込むように。もう遅い、そんなのはわかってるけど。それでも初めてできた、好きという気持ち。今言わないと後悔する、そう思うから。
「最初は確かに、あなたの絵が好きだった。初めて何かを好きだと思った。好きという言葉では表せないくらい、心惹かれて仕方がなかった。あなたの告白を受け入れたのも、あなたの絵をそばで見ていたい、そんな浅ましい理由だった」
しゃくりあげる私を宥めるかのように、彼は私の背中をさすり続けてくれる。
「でも今は違うの。一緒にいるうちに、あなたのことを知るうちに、あなたのこと、好きだなあって思うようになって。でも私、今まで人でも物でも、好きとか、そういう強い気持ちを抱いたことがなくて、だから、」
彼は何も言わず、私を抱きしめてくれる。強く、強く、離さない、とでも言うように。
「好きっていう気持ちに、なかなか気づけなかった。心の奥底では、あなたが好きってわかってたはずなのに。というより、多分、自分の気持ちに気づくのが怖かった。何かに固執したことがないから、新しく生まれた自分の気持ちが怖くてたまらなかった。こんなの、あなたに見放されたって文句言えないわ」
「伊織」
彼が一言、私の名前を呼んだ。顔を上げる力も残ってなくて、ただ黙って彼にすがったままでいる。彼は構わず、そのまま続ける。
「あの絵は君にあげたくて描いてたんだ」
びっくりしたけど、声を上げることができない。彼の手はいつの間にか私の頭の上にいて、小さな子にするようにぽんぽんと頭を撫でてくれていた。
「あの絵を描き終えた後のこととか、いろいろ考えたけどさ、それでもあの絵を描いて、君に贈りたいと思った。君が、好きだと言ってくれたから」
うんうんと彼の腕の中で頷くことしかできずにいると、彼は少し私から離れて、私の目を覗きこんできた。外はもうすっかり暗くなっていた。明かりも何も付けていない部屋の中で、彼の目はいつもより少し暗く、不思議に輝いて見える。
「あの絵は描きあげちゃったけど、まだそばにいてくれる?」
「あ、暁斗がそれでいいなら」
「俺このまま画家になっても絵が売れないかもしれないけど?」
「そんなことない、と思うけど、そうなったらふたりで色々考えようよ」
ふっと笑って、彼は私の頬の涙を拭った。
「どれだけ生活に困ってもあの絵は売りたくないんだけど、それでもいい?」
「当たり前でしょ」
同じように、ふっと笑ってみせて、彼の目尻に浮かんだ涙をそっと拭う。
「頼まれたって誰にも売ってやらないから」
彼の首に腕をまわして、ゆっくりとその唇に自分の唇を重ねる。彼は安心したように、少し笑った。涙に濡れてきらきらとしたその目も、好きだな、とか思う。
「そういえば伊織さ、」
夕食を済ませ、ふたり並んでソファに座っていると、不意にそう呼びかけられる。
「ん、どした?」
えっと、と少し言いづらそうにして彼は切り出した。
「俺さっき初めて伊織に名前呼ばれた気がする」
「…うそ」
あながち間違ってない気がするのがまた恐ろしいところ。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
恋を知らない少女、という主人公は、実は私の経験から来ています。
少しずつ恋を知って変わっていく様子を描きたいと思い、執筆に至りました。
絵が好きなので美大生という設定で書きましたが、通ったことなどもちろんないので想像力を働かせました…
現実と違うところがあったらごめんなさい。
繰り返しになりますが、ここまで読んでくださりありがとうございました!