聖女の知らぬところで
血と泥に塗れた聖女アルルがシャワーを浴びに向かい、広々としたリビングには傭兵のカターラとハムスターのザイルだけになる。
「よぉハムちゃん」
料理がひと段落し、カターラはテーブルに皿を並べながら気さくに話しかけた。
「ハムちゃんいうな。俺はサイ……ザイル。正真正銘の人間だ、っておい頭撫でんな」
食器をテーブルに置き、ソファのところまで歩いてザイルを撫でまわすカターラ。
「あー可愛いねぇ。よちよちよちー」
「うぜぇ触んな」
心底迷惑そうに子供っぽい声でそう言いながら、ザイルはカターラの手からするりと抜け出す。
「おいおい。命の恩人にその態度はないんじゃないか?」
「言い方が厚かましいぞ」
「へいへいさーせんしたー」
軽薄な様子で適当に謝りつつ、カターラはテーブルに置いた食器をそれぞれのイスの前に並べていく。
「……」
ふと、ソファの方を見ると、なんだか不安そうな様子の一匹のハムスターが彼女の視界に映った。
「どうした? そんな見つめて」
意味深にアルルの出ていった扉の方を見つめるザイルに、カターラは何気なく問いかける。
今、アルルは向こう側でシャワーを浴びている。
そしてその方向をじっと見つめるザイル。
「あ」
カターラの中で、一つの線が繋がった。
「……いくらアルルが可愛いからって、覗きは見過ごせないなぁ」
微かに笑いを含んだ声でザイルを揶揄うカターラ。
「ばっ! そ、そんなことしねーしっ!」
それを間に受けたのか、ザイルの表情は一瞬にして真っ赤に染まる。
「またまた〜。あんなに熱心に見つめちゃって〜。別に隠さなくてもいいのに〜」
「だから隠してねぇし!」
「いやいや〜。君のような年頃の男の子が、アルルみたいな可愛い子のシャワータイムに興味津々になってしまうのは至極当然。だから別に恥ずかしがらないでいいんだぞっ♪」
「そ、そんなんじゃねぇ!」
「ローブで隠れていて、ぱっと見じゃスタイルなんてわからないだろうけど、森で抱きかかえたときにわかったよ。ありゃぁ脱いだらすごいってね」
「……」
無駄に真剣な表情でアルルについて話すカターラに影響され、ついザイルはよからぬ想像をして息を呑んだ。
「あとあたしと違って胸も結構あるしな」
「……」
「ま、だから君のような純情な男の子が、アルルお姉さんに興味を持ってしまうのは何も問題ないんだぞっ☆」
いい玩具を見つけたと言わんばかりに、カターラは赤面するハムスターの羞恥心をここぞとばかりに逆撫でる。
「っ……」
そしてまんまとカターラの術中に嵌り、ザイルは冷静な思考を失って浮かんだ言葉をそのまま乱暴に子供の声に乗せて吐き出した。
「っだーかーらーっ! 姉さんの覗きなんて興味ねーしっ!」
「……ん?」
「あ」
「姉さん?」
「……」
騒がしかった二人の間に沈黙が流れ、リビングは食材の焼ける香ばしい音だけが微かに響いている。
突然のカミングアウトを受けて不思議そうに小首を傾げるカターラと、小さな手で小さな口を覆ったまま狼狽するザイル。
「え? ザイルは、アルルの弟なの?」
「………………ああ」
「へぇ……」
「……」
「でも見た感じ、アルルはザイルのことを知らないみたいだったけど?」
「わかったわかった……。全部話す……」
観念した、とばかりに小さな両腕を横に広げて、重々しく口を開くザイル。
「あー……。見ての通り、姉さんは聖女なんだが……」
「ぱっと見そんな感じだと思った。白のローブに長い金髪、それからロザリオも持ってたしな」
「聖女は18歳になったら白明聖所をでて勇者に出会うため旅に出る」
これに関しては世界共通、種族共通の常識のため、傭兵のカターラもふんふんと素直に聞いている。
「だが姉さんは、方向音痴で、料理下手で、恥ずかしがりでろくに人と話せないんだ」
「清楚そうに見えて、意外とドジっ子なんだな……」
弟らしいザイルからアルルの実態を聞き、古傷のある頬を指先でかきながら苦笑いを浮かべるカターラ。彼女も彼女なりに、反応に困っている様子。
「血も危ねぇし……」
思わず姉の【禁忌】を吐露しそうになり、なんとかすんでのところで踏みとどまったザイル。
「血? 血がなんだって?」
「忘れろ」
「え?」
「忘れろ。これ以上言わせるな」
かなり強引な物言いで、ザイルはカターラの頭に浮かんだ疑問符をねじ伏せる。あそこまで聞かれた以上はこうするしかないらしい。
その様子を見て察したのか、カターラもいつもの爽やかな表情に戻る。
「まぁいいさ。魅力的な乙女には秘密の一つや二つはつきものだし。これ以上は聞かないのが作法ってもんだろ?」
「……助かる」
「どういたしましてー」
特にそれ以上言及する気もないらしく、カターラは気さくに微笑む。
「まぁ、秘密って言っても『私は神聖な聖女だけど、本当は怖い怖い竜の血が流れてまーす!』くらいのヤバいことじゃなきゃなんでもいいかなー?」
その冗談を聞き、思わずザイルは押し黙る。
「…………ま、まぁ、そんな感じだからとてもじゃないが一人旅なんて無理だ。誰かが一緒にいてやらねーと確実に途中で野垂れ死ぬ」
「で、ザイルくんは大好きなお姉ちゃんが心配でついてきたと?」
揶揄い混じりのその言葉に、ザイルの返事はない。
「おや? 何も言わないということは図星かな?」
「べ、別に……姉さんのことなんて、なんとも思ってねぇし……」
「でも心配なのは否定しないんだ。っていうか超高難易度の魔法である『化身術』を習得してまで追いかけておいてなんとも思ってないは通らないぞ?」
「気づいてたのか……」
「さっきなでなでしたときに、ちょっと魔力の違和感を感じたからねー。多分そうだと思ったんだよ」
辺境の小さな村に住む年若い傭兵の炯眼に、少なからず異船の念を覚えつつ、ザイルはばつが悪そうに視線を宙に泳がせる。
「ってかそもそも、心配なら『化身術』なんて使わずに人間のままついてこればよかったじゃないか。聖女が一人で行かないといけないっていう縛りもないだろ?」
至極真っ当なことを正面から言われ、返す言葉がないザイル。
それでも、少し間を置いてからなんとか声を振り絞って微かに呟いた。
「だ、だって……。心配だからついていくなんて、好きみたいで恥ずかしいだろ……」
部屋の中に消え入るようなか細い男の子の声で、ハムスターのザイルは思いを溢す。
彼の告白を聞き、思わずニヤニヤが止まらなくなるカターラ。彼女の中で何かのスイッチが入り、ズイズイとザイルに詰め寄っていく。
「でもぉー、大好きで大好きで仕方ないお姉ちゃんが危ない目に遭うのは嫌だから、なんとか『化身術』を会得して、わざわざ照れ隠しをしてまで追いかけてきたと。健気だねぇ。美しい家族愛だねぇ。あたしそういうの好き」
カターラの饒舌な語りを聞いても、ザイルは可愛らしいハムスターとなったその体をプルプルと羞恥に奮わせるばかりで、何も言い返さない。
12歳という年頃の彼にとっては『好き』という感情を弄ばれることが何よりも恥ずかしいらしい。
「え、ちなみになんだけど……。なんでハムスターにしたの?」
「それは……」
「犬とか鳥とか馬とかさ、もっとお姉さんの役に立ちそうな動物っていっぱいいるじゃん? なんでハムスターなの?」
カターラの疑問の後に、少しの沈黙が流れる。
「あ、ちなみに言わないとあんたの朝飯なしな」
悪魔のような一言が放たれ、ザイルは退路を断たれる。
そしてついに、体をプルプル震わせながら羞恥に塗れたか細い声を絞り出した。
「姉さんの一番好きな動物が……ハムスター、だったから、だ……」
「わぉ」
「なんだよなんか文句あんのかっ⁉︎」
「別にー。姉弟揃って可愛いなって思っただけだよー?」
「俺は可愛くないっ!」
そう言いながらも、ザイルはハムスターの小さな両手を可愛らしくバタバタさせて、せめてもの反逆の意思を見せている。カターラにはなんの危害も及ばず、ただ可愛いだけなのだが、今のザイルはこうするしかない。
「じゃあ聞くけどさ、お姉さんのどこが好きなの?」
「だから好きじゃねぇ!」
一応ザイルは否定のために顔を真っ赤にして叫ぶ。
が、すぐに顔を俯かせて、覇気のない子供の声で語り始めた。
「……姉さんは、この世界に産まれた時から、ずっと酷い目に遭ってきたんだ。詳しいことは言えないが、父親からは暴言、暴力、育児放棄とかの虐待を受けて、学校では登校初日から卒業までずっといじめられてて、白明聖所では他の奴らから迫害、脅迫、誹謗中傷の嵐……。果てには村ぐるみで【処刑】までされそうになったこともある……」
「……」
「まぁ、流石に聖女を殺すのは女神の天罰が怖いってことで、処刑はされずに済んだ……。はっ、あいつらも意外と根性ねーんだな」
乾いた笑いを含んだザイルの言葉が消えて、リビングは静寂と共に重苦しい雰囲気に満たされる。カターラも、今はそれを静かに受け入れている。
「確かに姉さんはドジで間抜けで恥ずかしがりで、どうしようもない部分もある」
「酷い言われようだ……」
「でも……姉さんは、何もしてない。誰も傷つけたりしてない。誰も殺してないし、誰の血も流してない。ただ静かに生きてただけだ」
「……」
「なのに、周りは姉さんを攻撃してくる。排除しようとしてくる。こんなこと……絶対に間違ってる……」
小さなハムスターの姿をしたザイルが、その体を震わせている。
彼の放つ憤怒は、次第に悲しみへと変わり、そして慈しみとなって言葉に現れる。
「だから、せめて家族の俺くらいは、姉さんを……一人の女の子として、大切にしてやりてぇんだ……」
邪なものを一切含まない。
そんな、純粋なザイルの言葉。
「っ……」
彼の思いを聞き、平生を装っていたカターラの口から、驚愕を伴った吐息が微かに溢れた。
しかし、それすらも気づかずに、ザイルは言葉を続ける。
「俺は、姉さんの希望になりたい」
「……」
「姉さんが、このゴミみてーな世界で生きていくための、理由になりたい」
「……」
「姉さんが笑って生きられるのなら、俺はいつまでも側にいたい」
「……」
「姉さんがこの世界に消されそうになっても、俺だけは、ずっと姉さんを守っていたい」
「……」
「……」
「……」
「……」
静寂が訪れる。
家の外を吹く冷たい風の音だけが聞こえる。
「ま、まぁ、俺が姉さんに対して考えてることなんて、こんなくだらないことだ。忘れてくれ」
静けさにあてられて冷静さを取り戻したザイルが、照れ隠しのように早口で自分を卑下する。
しかし、ついさっき自分が言ったことを思い出してしまったのか、そっぽを向いていた顔はみるみるうちに赤くなっていく。
「希望とか理由とか何偉そうなこと言ってんだ俺はっ……⁉︎」
羞恥に耐えられなくなったザイルは、小声でボソボソ呟きながら居た堪れなくなってわたわたと慌てるばかり。
よっぽど恥ずかしいのか、カターラの目線に気づかないままずっとソファの上で悶えている。
「……大丈夫?」
「え? な、なにが?」
「すっごいバタバタしてたけど」
心配するようなカターラの言葉を聞き、ザイルはひとまず正気に戻る。
「も、問題ない……」
「そう」
「……」
「……」
二人の間に沈黙が流れ、再びリビングは静寂に包まれる。
「……」
「……」
「……」
「……」
するとそこで、徐にカターラが口を開いた。
「姉さんを……一人の女の子として……大切にしてやりてぇんだ……」
「っ……⁉︎」
不意に、自分の心にできた羞恥の傷口を抉られ、ザイルの顔は一瞬にして真っ赤になった。
「俺は……姉さんの希望になりたい……」
無駄に心のこもったしみじみとした言い方が癪に触り、ザイルは途端に機嫌を悪くする。
それでも、愉快犯カターラは面白がって続けようとする。
「姉さんが、この」
「う、う、うるせぇ! それ以上喋んな!」
「いや〜、かっこよかったなぁ……。ねぇもう一回言ってよ〜」
「こ、断る……」
「え〜、もう一回言ってってば〜。ねぇ〜え〜。さっきのかっこよかったからもう一回言ってよぉ〜。ねぇ〜」
「う、うるせぇしばくぞこの性悪傭兵がっ!」
だる絡みしてくる少女に嫌気がさし、ついにザイルが爆発する。
しかし、傭兵カターラはハムスター如きの愛玩動物には微塵も怯まず、ソファの上に立つ彼を悠々と上から見下ろす。
そして素肌を晒したままの腰に両手を当て、口を尖らせながら小悪魔のように囁いた。
「乱暴するならお姉ちゃんにぜ〜んぶバラしちゃうけどいいのかなぁ〜?」
「え」
カターラから、まるで死の宣告のような無慈悲な言葉を聞き、ザイルの体は一瞬でピタッと止まる。
「あなたの可愛い可愛い弟さんが、大好きで大好きでもうたまらなく愛しているお姉さんを心配して、わざわざ難しい魔法を習得して、わざわざ素性を偽ってまで健気についてきてましたよ、ってね」
「そ、それは……」
「あ、あとさっき言ってたことも全部言ってやろ」
小悪魔のような純粋な悪意に満ちた表情のカターラ。彼女は心底楽しそうにそう言った。
しかし、密かに秘めている思いを明かされてしまうというのは、12歳のザイル少年にとってなんとしてでも避けたいことだった。
「た、頼むから……。姉さんには言わないでくれ……」
「えー、どぉしよっかなぁ?」
ゆらゆらと挑発するように体を揺らして、カターラは傷のある頬にあざとく人差し指を当てる。それだけ見ればただただ可愛らしい少女がルンルンしているだけだが、ザイルにとっては違った。
「なんでもするっ! だから姉さんには言わないでくれっ!」
ソファの背もたれから勢いよく飛び降り、本来人が座る部分に着地をして、全身全霊の土下座をするザイル。
「頼むっ! こんなの姉さんにバレたら恥ずくて死ぬっ! だからだのむっ!」
もはや彼にプライドというものはないらしく、本心がバレないのならなんでもいいらしい。
「お、おう……」
そしてついにザイルの全力に気圧されたのか、カターラが少しだけその場から後ずさった。
「わかったわかった言わないよ」
「ほ、本当か⁉︎」
「ああ。私は人の純情をペラペラ簡単に喋るほど不躾な軽い女じゃないからな。あと死なれたら困る」
その言葉をカターラの口から聞き、ようやくザイルは一息つく。
「まぁ、この仲睦まじい姉弟の行く末を見守るのも、それはそれで楽しそうだし?」
「……絶対に変なことすんなよ? いいか絶対だぞ?」
含みのある言い方をするカターラに対して、ソファ上に立つザイルは鋭い目つきで睨みながら入念に釘を刺す。
「あ、あと、今の俺は魔族に姿を変えられてしまった人間になってる。だから『化身術』のことも黙ってて欲しい」
「はいはい。りょーかい」
適当に軽く返事をして、カターラは再びキッチンで作業を開始する。
「でも、アルルが恥ずかしがりっつっても、それってどんくらいなんだ?」
「本気を出してなんとか買い物ができるくらいで、イケメンと目があったら卒倒するな。あ、あと『二人一組を作ってくださいって言う先生はぶっころです!』って言ってたな」
「あらま」
弟から聞かされたアルルの相当の照れ度合いに、カターラは思わず苦笑する。世の穢れを知らなさそうな柔和で清純な少女が『ぶっころ』などと物騒なことを言うのだから、これは相当なのだろうと察しがつく。
「本当に、姉さんは極度の恥ずかしがりだからなぁ……。ちょっとは治してくれないと困るんだがな」
「でも、そんなお姉さんが大切で大好きなんだろ?」
キッチンからリビングのテーブルに料理を運ぶカターラに揶揄われ、ザイルはソファの上でぽっと顔を赤くする。
その様子を見て、カターラは思わず微笑んだ。
「ほんと、姉弟揃って可愛いねぇ。まぁ、あんなピュアで綺麗なお姉さんがいたら、好きになってしまうのも仕方ないよねぇ」
「う、うるせぇな……」
「血の繋がった姉と弟の禁断の恋。燃えるじゃないか。私は応援するよ」
「べ、べ、別に……恋とかじゃねーし……」
プイッとそっぽを向くザイル。その顔にはツンツンと棘のある不機嫌な表情が浮かんでいるものの、奥底にある温かい思いはカターラにもわかるほど滲み出ていた。
「家族って、いいな……」
不意に、カターラがそんなことを呟く。今の彼女は空虚な笑みをその顔に貼り付けたまま、少しだけ憂いを帯びたまま俯いている。
「何か言ったか?」
「ううん。なんでもないよ〜」
さっきまでの様子が嘘のようにして、カターラは上機嫌に応えた。
その妙な振る舞いが歪だと思ったものの、ザイルは気のせいだと考えて、今いる立派な木の家の中をなんとなく眺める。
一人で暮らすにしては広すぎるこの家をなんとなく眺め、なんとなく聞いてみる。
「そういえば、カターラの家族って……」
「ただいま戻りました〜」
するとそこへ、シャワーを浴び終えたアルルが扉を開けて戻ってくる。身体中についていた血も泥も綺麗に洗い流されており、煌びやかな長い金髪はちょっとだけ濡れていることもあって、なんとも言えない妖艶さを放っていた。
そして今は、汚れて破れてしまった白いローブに変わって、落ち着いたベージュのチュニックをその身に纏っていた。カターラが着るにしては少し大きいサイズのそのチュニックも、アルルにはぴったりのサイズだった。
「あ、えっと……」
ザイルとカターラの視線を受けて、アルルはしどろもどろになる。
「も、もしかして……。なにか大事なお話の途中でしたか?」
「いや別に? そんなことないよ」
申し訳なさそうにするアルルを見かねて、カターラが気さくに答える。
「そ、そうでしたか……。あ、あと……シャワーと着替え、ありがとうございます……」
「あーいいって別に。じゃあ、ご飯にしようか」
アルルが帰ってきてちょうど朝ごはんができたらしく、カターラは客人の二人を食卓に招く。
「……」
その間も、どこか上機嫌なカターラを、ザイルは訝しげに見つめていた。