ep3<出会い、廻る歯車①>
なんだかんだで更新が遅くなってしまいました。
時間がかかってもなんとか完結できるよう頑張ります。
「ごめんね、ノア」
優しく響く声が聴こえた。
春の陽だまりのように暖かな匂いがあった。
自分を真っ直ぐ見つめるその人が紡ぐ言葉を少女は聴いていた。
「本当はずっと一緒に、そばで貴方を見守っていきたかった。それでも、今の私に出来るのはこんなことしかない」
そう言って女性は、少女の夜空に瞬くの星のような金色の瞳を覗き込む。
その表情からは悲痛さが滲んでいて、少女は彼女のそんな顔を今まで見たことはなかった。
記憶の中にいる彼女はいつも強く笑っていたからだ。
「でもね、これだけは覚えていて。貴方は大切な私の娘。あの人と私の大事な、本当に大事な娘なの。例えこの世界から私が消えても、私はずっと貴方を想ってる」
少女は必死に手を伸ばす。
嫌だ、行かないで。
そんな叫びは届くことなく、最愛の人は少しずつ遠のいていく。
「だからどうか、この世界のどこかで生きて。生き延びて、目一杯幸せになって。ずっと、これからも愛してる」
輪郭が光の中に消えていくなか、そんな言葉が聴こえたような気がした。
*
「.........んっ」
差し込む陽光に照らされ、少女はゆっくりとそのまぶたを開く。
彼女が目覚めたのは広い天幕の中だった。
その身体には柔らかな毛布がかけられていて、少し硬い寝具の感触が背中に伝わってくる。
「...ここ、は?」
「あっ、おいマギサ、目が覚めたみたいだぞ!」
「そう大声で騒ぐんじゃない。この娘を驚かせてしまうだろう」
小さな独り言に、二つの異なる声が続いた。
その声の元に目を向ければ、安堵の表情を浮かべた青年と、彼をたしなめる美しい女性が映る。
青年の方はその若さに相応しくない灰色混じりの白髪が印象的ではあったが、それ以外はどこにでも居そうな素朴な好青年と言った具合だ。
一方の女性は艶やかな金髪と瑞々しい肌を持ち、身体のラインが分かりにくいローブの上からも見てとれる豊満な胸の膨らみや引き締まった腰が並外れた美貌と妖艶さを醸し出していた。
「...あなたたちは、誰、ですか?」
「うちの馬鹿が大声で失礼した。目が覚めたかな、可憐で美しいお嬢さん」
「おい、誰が馬鹿だ。誰が」
僅かに怯えの色が見えるおぼろげな少女の質問に女性は凛とした表情と声で語りかける。
騒ぐ青年を見事なまでにスルーして彼女は続けた。
「おっと、自己紹介がまだだったね。私はマギサ、この大陸を廻るしがない旅人だ。隣の年寄りじみた白髪頭は連れのアラムだ」
「誰が年寄りだ!こっちは正真正銘紛うことなき十八歳だよ」
「全く、十八歳にもなって女の子相手にまともに自己紹介も出来ないのか。育ての親として恥ずかしい」
「いくらなんでも理不尽すぎるだろ...っと、すまん。アラム=ウォルクスだ、よろしくな」
そう言うと青年は目の前の少女に屈託のない笑顔を見せる。
一見めちゃくちゃにも思える二人のやりとりだが、それを聴く少女は二人の間に存在する確かな信頼を感じていた。
青年をからかって満足したのか、マギザと名乗る女性はその視線を少女へと戻した。
「今度は君の名前を教えてくれないか?何を知るにしてもまずは名前からだろう」
「別にそんなに固くならなくていいぞ。マギサは態度が妙に尊大だけど、基本的には年下に優しいから」
「...ノア」
少女の小さな口からそんな二文字が漏れる。
あまりにも消え入りそうな声であるそれを、アラムたちが少女の名前だと理解するまでにはほんの少しの時間が必要だった。
その沈黙に白磁の肌が徐々に赤く染まっていく。
そんな彼女を気遣い、二人は優しい言葉をかける。
「失礼、古い文献で同じ名を見たことがあってね。かつて多くの命を救った方舟、その担い手の名か。実に良い名前だね」
「難しいことはよくわかんないけど、なんだか綺麗な響きだよな」
ノアの頬の朱色がさらに濃くなる。
少女の緊張をほぐすためなのか、マギサはその空色の髪を優しく撫でた。
初めは驚いたようだったが、ノアも次第に気持ちよさそうに目を細める。
そんな姉妹のようなやり取りを見て、アラムは頬を僅かに緩ませた。
マギサは依然として少女の頭を撫でながら優しい声音のまま続ける。
「さてと、ノア。それじゃあ今度は君の話を聴かせて欲しいな」
*
「名前以外何も思い出せない?」
アラムの困惑を含んだ声が天幕の中に響く。
その原因である少女は申し訳なさそうに目を伏せた。
「ごめんなさい...」
「ああ、いや、すまん。別に責めてるわけじゃなくて、少し驚いちまっただけだよ。あー、もう、だからそんな悲しそうな顔するなって!」
慌てて少女を慰める弟分を他所に、マギザは顎に手を当てながら先程までのノアの話を思い出していた。
彼女の言葉を端的にまとめると、このノアという少女は自分の名前以外のほぼ全ての記憶を失っていた。
自分が何処からやって来たのか。
自分は誰かと暮らしていたのか。
そして、アラムたちの荷車の上で眠っていたのか。
そこに至るまでの全ての記憶が思い出せない。
アルタイ平原という地名もわからない。
ただ一つ朧げに覚えているのは誰かが自分をノアという名で呼んでいたということだけだと、まるでどこか他人事のように少女は口にした。
「...ーい。おい、マギサ」
「ああ、すまない少し考え事をしていた」
青年の呼びかけにマギサは思考を切りやめて目の前の少女に視線を戻す。
ノアの瞳には隠しきれない不安が色濃く表れているた。
自分が何者なのかという記憶もなく、見知らぬ場所に一人で放り出されればばそうなるのも当然と言える。
「それで、これからどうする?」
「この娘の記憶喪失についてはまだまだわからないことが多すぎるな。一応いくつかの仮説は立てられるが、どれも机上の空論でしかない」
「記憶のことも大切だけど、俺が聞いたのは彼女のこれからのことだ。もし記憶がないっていうのが本当なら、この平原で放っておくわけにもいかないだろ」
「ふん、それに関しては愚問というやつだろう?」
マギサはもう一度空色の髪を撫でながら、眼前の少女に語りかける。
「ノア。君さえよければ私たちの旅に付き合ってくれないか?」
「まあ、そうなるよな。それでこそマギサだ」
「...え?」
マギサの言葉が予想外だったのか、少女はその瞳を大きく見開く。
そんな二人の姿にアラムは懐かしい面影を見る。
十年前、一人の少年もこうやってマギサに救われたのだ。
「本当に、ついて行って良いんですか?私たち、出会ったばかりなのに...」
「君が嘘をついていないことくらい、その眼を見ればわかる。それに旅は賑やかな方が面白い。ノアがいればこの愚弟との旅にも華が加わるというものだ」
「はいはい、どうせ俺は華がありませんよ」
マギサとそんな軽口を叩きながら、アラムは改めて少女に向き直り手を差し伸べた。
「俺も同じようにマギサに拾われたようなもんだから、そんなに気負わなくて大丈夫だ。行く当てがないなら一緒に行こう、ノア...さん」
「...はい!」
青年の言葉に押し殺していた不安が溢れたのか、 ノアの大きな瞳から雫が溢れる。
けれど涙を流しながらも、少女は笑顔でアラムの手を強く握った。
こうして青年と少女は出会い、運命は大きく廻り始める。
この出会いの真価を、今はまだ誰も知らない。
「...最後、日和ったな。このヘタレ」
「う...うるさい!」
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