太助
東京駅から京浜東北線に乗って北上すると、都内最後の駅が赤羽である。
赤羽駅を降り、西口広場を抜けると東本通りに出る。その広い通りの向かい側に大きなイチョウの木が見える。その幹は、一人では、とても抱えられないほど太い。その巨木と、競うように塔が建ち、天辺には人々を見下ろすように白い十字架が据えられていた。
その広い教会の敷地の裏庭に小さな納屋があった。その納屋で、今、一人の老人が死の床についていた。
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その老人は「タスケ」と呼ばれていた。漢字では「太助」と書くようである。名字はわからない。そもそも、「タスケ」という名でさえ、本当の名なのか、はっきりしない。
「ほかの人が、『タスケさん』と呼び、老人が返事をするので、自分も『タスケ』さんと呼んでいる」というのが実態らしい。
「タスケ」老人は、教会の雑事、主に庭の掃除をしている。しかし、教会に雇われているわけではないので、お金を貰ってはいない。どうのようにメシを食べているかというと、神父など教会に寝起きしている人々と同じように食事を与えられている。正式の教会職員ではないので、員数外で、余りものみたいな食事を受けているようである。
「タスケ」老人は、初め、教会のイベントなどに来いて、その後、跡かたずけなどを手伝うようになり、その設置も手伝い、日常的な庭の掃除なども手伝うようになり、いつしか、教会にとって重宝な人物となっていた。で、「タスケ」老人は、いちいち家に帰るのが面倒くさくなったのか、庭の片隅にあった納屋に寝泊まりするようになった。もしかしたら、ホームレスだったのかもしれない。
納屋は、人が寝泊まりするようにはできていない。なので、少しずつ改良を加えた。と言っても、たかが知れていた。ビール瓶ケースをいくつか土台にして、その上に、厚めのベニア板をのせベッド代わりにしたぐらいなものだ。
そのように、納屋に寝泊まりするようになっても、誰もなにも言わなかった。また、彼の素性を問うものもいなかった。果たして、「タスケ」老人は、キリスト教徒だったのだろうか。正式に洗礼を受けてキリスト教徒になっているとは、とても思えないが。それに、キリスト教を信じているか、どうかも疑わしい。
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老人は、傍らにいる神父がいった。
「神父、これを見てください」
老人は枕の下から紙片を取り出した。神父は、それを見て眉をひそめた。
「これは?……」
「悪魔との契約書です。
私が若い時、思い通りに善行ができず、時には、いやらしい妄想を抱いてしまうことに悩んでいたとき、メフィストフェレスが私の枕元に現れました。
『なんの用だ。おまえなんかに用はない。消えろ!』
『おまえ、心の醜さに悩んでいるようじゃないか?』
『だから何だ! おまえには関係ないだろう!』
『その悩みを助けてやろう。というのだ。』
『おまえが? 悪魔のおまえが?……。どうせ、正しい心など、きっぱり捨て、悪の心に従えば楽しく暮らせるようになるぞ! というのだろう。』
『いいや、おまえにキリストのような心を持たせてやろうと、いうのだ。』
『キリストの心?』
『そうだ。完璧な心だ。もちろん奇跡をおこなうことはできないが。若い女の裸を見ても、赤ん坊が母親を見るような心しか生まれない。』
『……。なんで悪魔のおまえが、そんなことをするんだ! 信じられるか』
『もちろん、おまえが死ぬときには、おまえの魂をもらい受ける。』
『しかし、……』
『今のまま生きて、死んだあと、おまえは天国に行けると思うのか? 今までを振り返って、また、将来ずっと天国に行けるような清い言動を行える自信があるのか? この誘惑の多い現世で、その誘惑に勝てるのか? 金が欲しくないのか。名声が欲しくないのか。女が欲しくないのか。それらで俺が誘惑したら、おまえは、それを退けることができるのか。どうだ?』
『……』
『今のままなら、おまえは、間違いなく地獄に堕ちるよ。多くの人間は地獄に堕ちるのさ。しかし、多くの人間は神が自分を許してくれて、天国に行けると思っている。そんなわけがない。おれが、そんなことをさせない。
どうせ地獄に堕ちるなら、堕ちるなら生きている間だけでも、キリストのような心を持って生きたらどうだ。損な取引でなないだろう。』
『なんで俺なんだ』
『そんなことは、どうでもいいだろう。嫌なら他の奴のところへ行くだけだ。』
それで私は、メフィストとの間で契約を結んでしまったのです。
それからは電車の中に時々吊るされている男性雑誌などの扇動的な広告写真を見ても性的欲求は全く起きなくなりました。
その契約を結んでから、二、三日して、私は寝床に入った時、激しい痛みに襲われました。まるで、針で体中を突き刺されているような痛みでした。私は、あまりに耐えがたいので救急車を呼ぼうとしたのです。
その時、またメフィストフェレスが現れたのです。
『やめておけ。どうせ、何もわかりはしない。』
『なぜだ!』
『契約書に書かれているように、おまえが善行をしたときは、一人で夜寝るときに千本の針で刺し続けられるからだ。』
『そんな。そんなことを契約した覚えはないぞ!』
『ちゃんと契約書に書かれているじゃないか。』
私は、びっくりして契約書を見たが、そのような文言は見当たらなかった。
『どこに、そんな文言があるのだ!』
『ほら、ここに、ちゃんと書かれているじゃないか』
メフィストが指さしたところには、模様のようなものが並んでいた。
『これは、なんだ!』
『ヘブライ語で、針で刺されると書かれているだろう。』
『ヘブライ語?! そんな言葉、わかるわけないだろう!』
『おまえがヘブライ語を知っているか、知らないかなど関係ない。悪魔との契約なのだから、ヘブライ語が使われると思うのが普通だ。』
『なぜ、書かれていることを説明しなかったのだ。』
『おまえが聞かなかったからだ。おれはてっきり、おまえはヘブライ語を知ってるものと思ったぞ!』
私は頭にきて、『こんなもの!』と、契約書を破ろうとしましたが破くことができないのです。
『無駄だ、それを破くことはできない。……。なんだ、マッチでも、探しているのか? それは燃やすこともできないぞ! 捨てても、また、おまえのもとへ戻ってくるのだ。悪魔との契約は、神との契約と同じで反古にすることはできないのだ。ワハハハ。』
と言って消えてしまいました。
それからの人生は、神父様も知っている老後と同じようなものでした。
ですから……。私には資格が……。
おお、メフィストフェレスめ。ついに迎えに来たな!」
老人は、ある一点をにらみつけて、かすれた大声を出した。神父は老人のにらみつけている一点に目を移した。何も見えなかった。眼を老人に戻した時、老人は目を見張ったまま息をしていなかった。神父は老人の目を閉じてやって十字を切った。
ふと、神父の目にマッチが入った。神父は、何気なくマッチを擦ると、契約書に火をつけた。すると紙は一瞬に燃え上がった。びっくりして、神父は慌てて、それを床に落としてて足で踏み消した。
神父は納屋の外に出た。初夏のすがすがしい青空にツバメが飛び交っていた。