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6話ーカフェオレの記憶


 雨の日の月曜日。


 私はそれはもう最悪な気分で出勤をした。

 朋美との土曜日の記憶は途中までしか残っておらず、気づけば自宅のベッドで着替えもおろそかにぐーたらと昼間で寝ていたものだから、当然その日だけでは体調は治らず、その気持ち悪さを月曜日にまで持ち越してしまった。

 じめじめとした湿気と蒸し暑さが満員電車の中で混ざり合い、私は思わず吐き気さえ覚えた。


 地獄ともいえる1時間に耐え、私は息も絶え絶えに会社に到着する。

 到着して、仕事を開始してもなお、私の体調は一向に良くなることはなかった。

 午前中の忙しさに忙殺されながらも、私はそれを乗り切り、あまりの体調の悪さにテーブルへと伏してしまった。


 もう午後は仕事をする気にもなれないし、例えできたとしてもまともにこなすことはほぼ出来ないだろう。


 大人になったはずの自分の不甲斐なさに嫌気がさす。

 すると私一人の残した食堂の扉が、がらりと開いた音がした。


 誰かの足音が聞こえ、それはゆっくりと私へと近づいてくる。

 私の後ろにその人影が立つと、コトンと私の側に置いた。


 なんだろうと、私はちらりと腕の隙間から目を向けると、そこには緑色のボトルのようなものが見え、エスプレッソと金の文字で書かれている。


 あぁ、よく飲んでたなこのカフェオレ。ちょっと苦めのやつ。

 ゆっくりと顔を上げ、扉のほうを向く。


「ありが……」

 その言葉は彼に届かなかった。


 お礼を言い切る前に、扉の外へと彼は出て行ってしまった。

 チラリと見えた紺色のスーツの影だけが、優しさの残り香を私へと届けた。

 私は緑色のボトルを手に取る。


 指に何か違和感を覚え、ボトルの裏側に返すと1枚の付箋が貼ってあって、"無理しないでくださいね"と一言だけ書いてあった。


 その言葉は私の胸を少しだけ締め付けた。

 世話焼きの私はどちらかというと後輩の心配ばかりをして、私への心配事などとうにどこかへ置いてけぼりにしていまっていた。


 それが年上の義務とばかり思っていて、いつのまにかそれは私から甘えを奪い取っていた。


「塩浦くん……」

 私は心の中で呟く。


 がらんとした冷えた食堂に、少しだけ温かさが灯ったような気がした。



「上井さん、大丈夫ですか?」

 ふと、後ろから声をかけられた。

 振り向くと、そこには可愛らしい笑顔を浮かべた加藤さんが立っていた。


「あぁ、うん。大丈夫だよ、ごめんね」

 私はどうやら鏡の前で白昼夢を見ていたようで、ひとりぼーっと突っ立っていた。


 結局あの後、私は体調を崩して早退してしまった。

 家に帰ってからは、もうそれこそ足の先まで動かないという感じで、ずっとベッドに突っ伏したまま、いつの間にか眠ってしまっていた。


 その時に見た夢の中の塩浦君のことを、私は未だに忘れることが出来ない。


 私はあの時、初めて彼からカフェオレを貰った。

 彼には『ありがとう』というメッセージを送っておいたが、体調がよくなっても直接お礼を言うことが出来なかった。


 あの出来事から半年の時間が経っているものの、私と彼の距離感というのは一向に縮まることはなく、相変わらずどぎまぎとしている。

 お昼を終えた私は、息つく暇もなく電話対応に追われた。

 忙しさに忙殺されることだけが自分の悩みを霧散させる手立てになってしまっていることが虚しくてしょうがなかった。


 定時が過ぎ、20分ほどの残業を終え、私は大都会の中を一人寂しく、トボトボと帰路についた。

 まだ季節は11月だというのに、この間のハロウィンのお祭り騒ぎはもうすでにほとぼりが冷め、すでにクリスマス商戦の広告が街のモニターに映し出されていた。


 あぁ、きっと今年の冬は一人なんだろうな。

 そんなことを思うと、ふいに言葉にできないほどの寂しさが込み上げた。

 山手線のつり革にゆらゆらと揺られながら、窓にはぐったりと疲れた自分の姿が映る。


 去年のクリスマスは朋美と2人でスパークリングワイン片手に、私の部屋でフライドチキンを頬張っていたことを思い出した。

 友人と過ごす時間が何よりも楽しくて、かけがえのないものであったことをこの歳になって心の奥をチクリと刺すように痛感した。


 今年は、もうそんな心の知れた友人は隣にはいてくれない。

 ふいに突き付けられた現実に打ちのめされ、私は俯きながら最寄りの駅から自宅までを歩いた。


 クリスマスはどこかに逃避行でもしようかな。そんなことを考えながら、家の錠をガチャリとあげた。

 私はいつものように夕食を取り、シャワーを浴びて、ベッドの上でボーと座り込む。


『やっほー、元気してる?土曜日空いてない?』


 ピコンという聞き慣れた通知音がスマホから聞こえ、画面には1つのメッセージが表示された。

 朋美からだった。


『お昼ぐらいならいいよ』

 午後の5時には埼玉にある実家の手伝いをしなければならないため、せいぜい居れたとしても16時頃までである。


『ありがとう!それじゃ、この目白駅集合でいい?』

 目白……あまり遠くない距離に私はすんなり『おっけー』と返したが、なぜ目白駅なんだと考えこんだ。


 朋美のことだからまたいいお店をっていう魂胆だろうけど、目白駅の周辺にそんなお店があるのだろうかと疑問が浮かんだ。

 私が目白という場所で思い浮かぶのは、会社の新年会で使われることのある椿山荘ぐらいで、他に有名な場所など知らなかった。


 そんなことを考えていると、またピコンという通知音がスマホから鳴った。

 朋美からかなと再度画面を開けると、そこには塩浦くんからのメッセージが入っていた。


『よかったら来週の土曜日、食事に行きませんか?』


 シンプルな言葉だった。

 絵文字も顔文字もスタンプもない、本当にシンプルな言葉。


 そんな言葉に私は戸惑った。

 メッセージを既読にしたまま、私は少し考えこんだ。


 何かあるのではという漠然とした不安を頭の中で掻き立ててしまうのは、私の悪い癖なのかもしれない。

 大人になればなるほど、人の誘いに乗りづらくなったのは確かだ。


 私の指は、メッセージの空欄にカーソルを合わせたまま止まってしまった。

 なぜこのタイミングで食事を誘ってきたのだろうか。

 そればかりが頭の中をぐるぐると堂々巡りし、私はぽてりとベッドに横になる。


『いいよ。いこっか』


 私は15分かけてそのメッセージを打ち込んだ。

 彼が今どういう思いで私を誘っているのか、なんとなく察しはついている。


 思い返してみると、意外にも彼からは些細なアプローチはいくつもあった。

 私はそれを年下の可愛げな行動としか見ておらず、たいして気にも留めていなかったが、それが半年も続けば鈍感な私でもさすがにわかってしまう。


 それでもなぜ彼はそれほどまでに私を選んだのだろうか。

 会社に若くて可愛い子なんていっぱいいるし、ましてや、彼はその女の子たちからの人気が高い。


 私のようなもう若いとも言えず、コミュニケーションもうまく取れない、地味な女のどこを見ているのだろうか。

 彼がもし、私に幻想を抱いているのなら、それはそれで彼のためにもならないし、きちんと正しくみてもらわなきゃいけない。

 そんなことを考えるたびに、口からため息が漏れだした。


「情けないな……私」


 一歩踏み出せない自分の不甲斐なさに、抱き枕をぎゅっと握りしめながら私は少しだけ泣いた。

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