5話ーカフェオレの記憶
『あと5分で着くから待ってて!』
私は新宿駅の南口で、そわそわとしながら朋美を待っていた。
土曜日の17時となると、改札口を行き交う人が増えはじめ、だんだんと居心地が悪くなってくる。
人ごみはそんなに得意ではない私は、まだかなまだかなとスマホをぎゅっと握りしめていた。
「ごめん!待った?」
朋美が朗らかな表情で私に謝った。
「そんなことないよ。今日はどこ行くの?」
「ふふーん。よくぞ聞いてくれた!ついてきて!」
朋美は鼻を鳴らし、高らかに私の袖を引っ張った。
彼女のこういう側面は嫌いではなかった。
私にも行ってみたいお店とかはあるけれども、あまり友人を誘うことはなく、一人で行ってしまうことの方が多い。
朋美は私とは真逆で、自分がいいと思ったお店はサプライズするように連れて行ってくれるから、私はなんだかんだで彼女と行くお店がすごく楽しみでもあった。
南口から西新宿へと下っていき、そのまま大通りから外れると閑静な住宅街の中へと入っていった。
大通りを走る車たちのライトが煌々と照らし出す喧噪はそこには微塵も感じられないほどに、住宅街の中は静けさが佇んでいて、たまに散歩をする人とすれ違うぐらいであった。
10分ほど歩いただろうか。
「ここだよ」
朋美が指さす先には、住宅街の風景に馴染むようにポツポツと光の灯るお店が忽然と現れた。
坂の途中にあるお店の入り口には数段の階段が設置されており、私と朋美はコツコツとその階段を上った。
店内には、透明なガラス越しに大きな銀色をした醸造器がいくつも置かれている。
「これね、ビールの醸造器なんだよ」
朋美が髭の生えた店主に手を振ると、店主は笑顔で手を振り返した。
私の中のビールの概念は、有名なビールメーカーが大きな工場で大量生産している光景しかなかったなが、まさか大都会新宿の住宅街の中でビールが醸造されているなんて、私にとっては大きな驚きであった。
「すごい……」
その一言だけに尽きる。
「ここのビール美味しいからさ、間違いないよ」
そういうと朋美は店内を抜け、併設する雑居ビルのエレベーター前に立ち、ボタンを押した。
「ここじゃないの?」
私はさきほどの醸造器のある店内のカウンター席を指さした。
「ふふーん。実はここ上の階にレストランがあるんだよね。ほら乗って」
チンという音がし、エレベーターが開く。
私は朋美と共に搭乗し、そのビルの7階にまで上がった。
エレベーターが開き、目の前に出てきた扉を抜けると、そこは雑居ビルの中とは思えないほどに、小洒落たレストランが私の目に飛び込んだ。
陽気なジャズの音楽が流れ、まだ17時30分だというのに店内は満席で、ビール片手にがやがやと盛り上がっている。
「2名で予約していた旗野です」と朋美は店員に伝えると、すぐさま席へと通された。
私は通された席のソファーに腰掛け、「ふぅ」と一息ついた。
テーブルに置かれたメニュー表を見ると、お洒落な名前ばかりが並んでいて、到底私には想像がつかないようなものばかりであった。
「適当に頼んでいい?」
私は朋美の言葉に、小さく頷いた。
朋美は笑顔を私に返すと店員を呼び、慣れた手つきでメニューを指さしながら、次々と食べ物とお酒を注文した。
「こちら、新宿ペールエールになります」
真っ先にテーブルに置かれたのは、琥珀色に輝く透き通ったビールであった。
芳醇なホップの香りがグラスからすでに漂っていて、私を誘惑する。
いまかいまかと、私の喉は渇きを潤すようにそのビールを求めていた。
「それじゃ、乾杯しよっか」
私と朋美はグラスを持ち、「乾杯」と言葉を合わせ、カチンとグラスを当て鳴らした。
ごくりと呑んだその一口は、とても芳醇なホップの香りと独特な苦みが口の中で混じり合い、スッと体の中へと馴染んでいく。
「突然呼び出してごめんね」
朋美はグラスをテーブルの上に置いた。
「どうしたの?そんな神妙な顔して」
私は頭を傾げた。
「空季には先に伝えなきゃなって思っててさ」
そして、数秒の沈黙が続いた。
「私、結婚することになったの」
「……え?」
私はあまりにも驚きすぎたのか、一瞬頭が真っ白になった。
「突然でごめんね。ちょっと両親のことも絡んでてさ」
「そんな突然決まったことなの?」
「うん。2週間前のことだったかな。両親のつてでお見合いしたの」
「お見合い?」
「うん。古めかしいでしょ?でもマッチングアプリとかよりも信頼できるし、それに両親がせっかく持ってきてくれた縁談だったから無下にできなくてね」
「どうだったの?」
「それがね、意外にも良かったの。最初、相手の写真見たときにずいぶんと堅苦しそうな人だなって思ったんだけど、実際話してみるとすごく面白い人でね。歳は私よりも5歳上なんだけど、上場企業に勤めてて、趣味が料理っていうからさ、とても興味出てきちゃって」
そういうと、朋美はそのお見合い相手の作った料理の写真を見せてくれた。
黒い皿に乗ったカルボナーラが、とても美しく映っている。
その腕前はもはや趣味の領域を逸脱した、プロ顔負けの実力にまで至っているのだという。
「その人でいいの?」
「うん。私もそろそろ30になるから結婚どうしようかなって思ってた頃だし。私って別にこれといって美人でもないし、何か取り柄があるわけでもないじゃん?もう彼氏なんて出来ないのかなって思ってたぐらいだっから、多分これが最後のチャンスなんだって思ってね。決めちゃった」
へへへとにやけながら朋美がビールに口をつけた。
「そっか、おめでとう。今度きちんとお祝いしなきゃね。お祝いの品、考えておくよ」
「あ、それならさ!何か、絵描いて欲しいな。空季前から上手かったじゃん」
「あぁ……うん、いいよ。どんなのがいい?」
「そうだなぁ。結婚式あげるときに入り口に小さく飾る似顔絵みたいのがあると嬉しいな」
「考えておくよ。あとで写真ちょうだい?」
「おっけー」
朋美の先ほどまでの神妙な顔つきが優しい笑顔へと戻った。
高校時代からの友人がついに結婚するという事実に、未だ実感が湧かない。
ずっと一緒のペースで人生を歩むと思っていたのだから、ふいに歩いている道にぼっかりと真っ黒な穴が現れたような感覚に陥り、虚無感が私を覆った。
そんなお互いの温度を巻き込むように、テーブルの上には出来立ての料理がたちまちに並ぶ。
海老の入ったシーザーサラダに、ソーセージの盛り合わせ、いい小麦の香りが立つピザが、私の食欲をくすぐった。
「食べよっか」
「うん」
私と朋美は、お酒を片手に食事を楽しんだ。
友人がこんなにも幸せな顔をしているのを初めて見た。
それは喜ばしいことだし、盛大に祝福をしてあげたいとさえ本気で思っている。
だが、この底知れない虚無感は一体どこからきているのだろうか。
2年前に結婚を約束していた彼氏には振られ、あの時から私は恋を捨てた。
人というものに対して大した期待など寄せず、冷たくあしらっていた気になっていた。
でも、彼女の幸福そうな顔を見ると、私はそんなことをしていて彼女のような幸せを手に入れることが出来るのだろうかと悔しさが込み上げてきては、私の喉元を締めていく。
「そういえば空季は彼氏作らないの?」
「あ、あぁ……うーん。今はいいかな」
「ふーん。そっか」
意外にも朋美はあっけらかんとした回答を返した。
あれだけ男のくだらなさで盛り上がっていた私と朋美はもはや別世界に生きる人間となっていた。
私はソーセージを一本、一口サイズをナイフで刻み、フォークで刺す。
それを口に頬張ると、肉汁とハーブの香りが一気に口内で広がり、すぐに私の体はビールを求めた。
「飲みすぎ注意ね」
「わかってるよ。もう私もいい大人だよ」
私はそういうと、煩雑とした思考を洗い流すかのように、もう一杯ビールを注文した。