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14話―恋敵

「ただいま」


 誰もいない家の中に、疲れ枯れた声が響く。

 まだ週初めの月曜日だというのに、私の背中にはすで平日でため込むはずの疲れが背中の上に乗っている。


 すぐさま服を着替え、部屋着姿になるとベッドの上にごろんと寝ころんだ。

 いつもならすぐに化粧を落とすのに、今日はなんだかそれすらも億劫に感じる。

 うすいガラスの仮面が顔にべったりと張り付いていて、それは家の空気と混じりあうことなく、まるで水と油のように反発する感触を感じているが、非常に気持ち悪い感触だ。


 スマホを触り、通知されたメッセージを確認する。

 東条さんからのメッセージが1件届いていた。


『仕事お疲れ様です!食事の日程の件ですが……』


 中途半端にもメッセージの表示はそこで見切られている。

 私はそれをタップして開こうと思ったが、その指を止めた。


 指の先が震えている。

 ため息をこぼすと、私はスマホを枕元に置いた。


 私は洗面所へと行き、すぐさま顔にこびりついた化粧を落としていく。

 ポロポロとそれが落ちていくたびに、私の内側の素が露わとなっていった。

 化粧を落とし終わった私は、水色のヘアバンドをしたまま台所へと向かう。


 冷蔵庫を開けると、作り置きされた食材の瓶が並んでおり、その他に使えそうなものといえば、プラスチックのパックにはいったままの卵、明日が消費期限の牛乳、使いかけのベーコンぐらいだろうか。


 野菜室を開けると、半分になって雑にサランラップの巻かれた玉ねぎが目についた。

 この食材であればカルボナーラは作れるだろうと、私は早速調理に取り掛かった。


 卵を割り、その中に牛乳を流し入れると、まるでカスタードクリームのような滑らかなソースが出来上がる。

 少しばかりの黒コショウとバジルを摘まみ入れ、私はフライパンに火をかけた。

 先んじてパスタは茹でており、残り3分でそれが出来上がる。

 フライパンではじゅわりと玉ねぎとベーコンの焼ける匂いが漂い、今か今かと出来上がりを催促しているようであった。


 茹で上がるまで残り1分。

 私はカルボナーラのソース種をフライパンに流し込み、弱火にかける。

 カルボナーラを作るうえでの最も慎重になる箇所であり、ここですべての出来上がりが決まるため、私は細心の注意を払っていた。


 ピピピと茹で上がるタイマーの音がしたと同時に、すぐさまパスタの湯切りをし、ソースの中へと投入する。

 トングでぐるぐるぐるとパスタとソースを絡めていき、程よくなじんだところでそれをパスタ皿へと移した。


 白い湯気が立ち上り、私の食欲をくすぐる。

 リビングのテーブルにお皿を置くと「いただきます」と手を合わせ、フォークでパスタを絡ませた。


 一口頬張ると、その熱さと塩味が私の空きっ腹にしみわたり、私は思わず「おいひい」と呟いた。

「そういえば」と思い出したかのように椅子から立ち上がると、再び冷蔵庫の扉を開け、3パーセントのカクテル缶を取り出すと、ぷしゅっとその場で封を開けた。

 缶に口をつけながらテーブルへと戻り、パスタが冷めぬうち私は胃袋の中へと急ぎ入れた。


 空になったお皿から、まだカルボナーラの残り香が香っている。

 私はその匂いをあてに、カクテルとちびちびと飲んでいった。


 精神的な疲れもあったせいか、なんだか今日はよく酔いが回った。

 手持無沙汰になった私は、ベッドの枕元に置いたままのスマホを手に取り、画面を開いた。


 酔っていなければ、到底平気ではいられなかった。

 私は先ほどの東条さんのメッセージを開き、中身を確認する。


『仕事お疲れ様です!食事の日程の件ですが、今週か来週の土日でどうでしょうか?』


 土日という選択肢に少しばかり躊躇いを覚えた。

 それでも平日の仕事終わりというのも体力が持つかどうかが不安で、私は渋々と『了解です』と返答した。


 酔いが私の感情をかき混ぜる。

 私は誰にも縛られない自由を生きているはずだ。

 指の先、髪の毛の毛先に至るまで、それらすべては誰のものでもない、私だけのもののはずなのだ。


「ハァ……」

 情けないため息が漏れ出す。


 いつから私の心は見えぬ彼を想うようになったのだろうか。


 水色の革の手帳をバッグから取り出し、東条さんの食事の予定を確認していく。

 来週の土曜日である2月14日が、ちょうど空白となっていた。


『2月14日はどうですか?』


 返信を打ち込む。

 閉じようとしたその瞬間、既読が表示される。


『いいですよ!それでは18時頃に恵比寿でどうでしょうか?』


 私はもう何も考えずに、『了解』と吹き出たスタンプで返信した。

 その後もピコンという通知音が聞こえた気もしたが、私はそれを見ることをしなかった。


 私は自分のか細い両手で、顔を覆った。


 暗闇に覆われた私の視界に、塩浦くんの笑顔が浮かぶ。

 クリスマスプレゼントを渡されたあの時の笑顔は格段に可愛かった。


 そんな幸せな思い出でさえも、肥大化した不安がそれを許さないように食べつくしていく。

 加藤さんと話していた私の時には見せない笑顔がどうも未だに私は恨めしく感じてしまっている自分がそこにはいた。


 とっくのとうにわかっているのだ。

 彼が緊張して私の前で口下手になってしまうことなんて。


 私もそこまで鈍感な女じゃない。


 わかっている。

 感情はわかっているのだ。

 わかっているからこそ、悔しくて堪らない。


 だから東条さんと食事に行くのは、一歩踏み出さない塩浦くんへの当てつけだ。


「バカ……私だってそんなに気は長くないのよ……」


 言葉がまるで煙草の煙のように、天井へと揺らめきながら昇っていく。

 たった独りの虚しい吐息が、海月のようにふわふわと漂っては、部屋の中を回遊し私の体をすり抜けていった。


 そのたびに私の心はしみったれてく。

 私の心は自由なはずであった。

 それゆえに、私の心は彼に囚われることを許さなかった。


 丸めた糸くずの絡まりのように、私の頭の中はむしゃくしゃとしがらんでいく。

 缶の底に残った甘ったるいカクテルを飲み干すと、私はその缶をゴミ箱の中へと投げ捨ててやった。


 食べ終わったお皿を水につけ、とっと風呂を沸かしてシャワーを浴びた。

 お風呂に浸かっていると、私にこくりこくりと睡魔が襲ってきた。


 酔いのせいなのか、疲れのせいなのか、それすら考えられないほどに思考が緩やかに闇の中へと落ちていく。

 少しばかり残った最後の気力がそれを一生懸命に抑え、私は湯船の枠をがっちりと掴むと、「いっせーの」で一気に立ち上がった。


 欠伸をしながら髪を乾かし、洗濯機を回すと私はその待ち時間を待つこともできずに、ベッドにゴロリと横になった。


 薄い瞼がだんだんと重たくなっていく。

 ぴくぴくと痙攣しながら睡魔に抗うが、それもほんの数秒しか持たず、私はゆっくりと夢への梯子を降りていった。

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