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10話―歩み寄る番


「申し訳ないです。繁忙期で仕事が抜けられそうにありません。もう少しだけ待っててください」


 その一通の連絡に私は落胆した。

 あれから1か月後の12月23日のことであった。


 お互いは日々の多忙に追われながら、なかなか時間を作れずに過ごし、気づけばクリスマス間近になってしまった。

 私は小さな茶色い紙袋を持ちながら、一人でカフェの窓際のテーブル席に座っている。


 食事を取る時間を作れればよかったのだが、年末というのはどうも忙しいようで、そんな時間も作れそうにない。

 結局のところ、塩浦くんとは仕事終わりにカフェで落ち合おうということになっていた。


 かれこれ、私は1時間同じ椅子に座り続けている。

 最初は本が読めるからいいやなんて考えていたけど、どうも目が疲れてきたようで、文字に焦点が合わなくなってきている。


 これはだめだとコーヒーカップに口を付けたが、その中身もすっかり冷めきっていた。

 仕事というのは、なぜこうも間が悪くやってくるのであろうか。

 私はスマホの彼とのやり取りを眺めがら、ただぼーっと指でスクロールしていた。


―――30分が刻々と過ぎてゆく。

 彼の仕事がようやく終わり、こちらへ向かいますという連絡が入った。

私はそっけない振りをして「お疲れさま。待ってるね」とだけ返信を返した。


 本当はああだこうだ言ってやりたい。

 なんでこんなに待たせるんだって言ってやりたい。


 それでもそんな私に潜む子供心を、私が育てた理性が優しく頭を撫でて 「彼も頑張ってるのよ」と諌めた。

 

 それから20分後、彼は慌てた様子で私の前に現れた。


「申し訳ないです。長らくお待たせしてしまって」

「ううん、待ってないから大丈夫」


 私は少しだけ拗ねてみた。

 小さな反抗を大人げなく彼に向けたのだ。

 彼は運ばれてきたアイスコーヒーを飲むと、「ふぅ」と一息ついた。


「上井さん」

「なに?」


 私はぶっきらぼうな口調で答える。


「はい、これ。一日早いですけど、メリークリスマス」

 そういうと彼は小さな紙袋を私に渡した。


「ありがとう」とお礼を言い、私は紙袋の中身を取り出す。

 そこには小さな手のひらサイズの紙包みが2つ入っていて、なんだろうと中身を取り出すとそこには社員証をいれるためのこげ茶の革製のケースが保証書とともに同封されていた。


「わぁ、ありがとう」

 私は思わず声を上げた。

 先ほどまでのぶっきらぼうな私は一体何を期待していたのだろうか。


「少しだけ擦り切れているように見えたので。多分私が入社した当時から同じもの使われてるのかなって思いまして」


 彼はてへへと笑った。

 その笑顔はどこか照れ臭さを隠すような仕草をしていて、それを見た私まで少し照れ臭くなってしまった。

 

 彼はいったい、いつから私の社員証のことなど気にしていたのだろうか。


 私はカバンから今使っている名札ケースを取り出し、中にある社員証を抜くと彼からもらった革のケースの中へと入れた。

 空になった水色の名札ケースをよく見ると、その角は擦り切れていて、ところどころ黒く汚れている。


「あぁ、もう7年も経つんだな」と私は入社時に買ったこの名札ケースを見て当時のことを少しだけ思い出した。


「適当に雑貨屋で買ったものだったけど、7年も使ってたみたい」

 私は使い古した名札ケースを紙袋の中へと入れる。

 小さく「ありがとう」と心の中で呟いた。


「きっと上井さんに似合うと思って選んできました」

「よく名札ケースなんて見てたね。普通見ないよ、そんなとこ」

「私もすごく悩みましたよ。喜んでもらえて嬉しいです」


 彼は安心したせいか、顔の表情筋が綻び、柔らかな笑顔を作った。

 私は彼の笑顔にどこかホッとしたが、それと同時に緊張が襲ってきた。

 私が買ったプレゼントが彼に合うものなのだろうかと不安になったのだ。


「はいこれ」


 私の手が少しだけ緊張し、硬直する。

 小さな青い紙袋を彼の前に差し出した。


 彼は優しく私の手から紙袋を受け取った。

 その紙袋から小さな包み紙を取り出し、ゆっくりと開封する。


「すごく触り心地いいね。こんなにいいものありがとう」


 彼は思った以上に喜んでくれた。

 その様子に私はホッと胸をなでおろす。


 私が彼にプレゼントしたものは、水玉の細かなストライプが入った一枚のハンカチであった。

 右端には小さく「Paul Smith」と白く印字されている。


「買いにくかったんじゃないですか?」

「あぁ……うん、少し入りづらいね。紳士コーナーって」

「わかりますよ。私も女性ブランドのお店入りにくいですから」


 お互いがふふふと小さく笑いあっていると、ふいに彼の空腹が胃の中で騒ぎ立て、彼は慌ててお腹を押さえた。


 「お腹減りましたね。上井さん何か食べました?」

 「食べちゃったよ。あ、でもデザートは食べてないかも。ティラミスが食べたいな」

「ティラミスですか?」

「うん。塩浦くん遅れてきたんだし、罰としてご馳走してくれる?」

「それ言われちゃうと何も言い返せないです」


 彼はそういうと、メニュー表を見ながらどれですかと私に尋ねる。

 私が最後のデザートの載っているメニュー表を開き、「これ食べたいな」と指をさした。


 そこには「至極のティラミスパンケーキ」という随分と小洒落た名前がついていたが、価格は1000円と全くと言っていいほど可愛げのない金額が記載されていた。


 彼はそれを見て一瞬フリーズするも、諦めたようにため息を出し、「一口くださいね」と私に告げると、例のティラミスと自身の食事を注文した。

 それから他愛のない会社の愚痴を言いあっていると、先ほど塩浦くんが注文したカルボナーラとティラミスが目の前に運ばれた。


「ありがとう、美味しくいただくね」

「私にも一口くださいね」


 パンケーキにはふんだんにココアパウダーがパン生地の上に覆いかぶさり、その間を埋めるように白いマスカルポーネクリームがキャメル色のエスプレッソソースを染み込ませている。


 その芸術的な一皿に、私は思わず見とれてしまった。

 思わず私はスマホを構え、写真をパシャリと撮る。


 両手にナイフとフォークを持ち、いざ実食と私はパンケーキにナイフを差し入れようとしたが、どうも私は無意識に躊躇いを覚えた。


 綺麗に完成された品を崩してしまうのは、昔から苦手なのだ。


 食べ物というのは、食べてこそ価値が生まれるのは知っている。

 だがまるで一つの絵画のような芸術品にナイフを差し込むというのは、どこか踏み絵にも似た気分にさえさせられてしまう。


 私はカタカタと小さく震えながら、ゆっくりと雲のようなその生地にナイフを刺し入れた。

 小さく切り取った一口を頬張ると、先ほどの苦悩が吹き飛んでしまうほどに、ほろ苦い甘さがつむじ風のように駆け巡り、エスプレッソの香りが私の鼻腔を通り抜けていく。


 そのあまりの美味しさに、私の顔はつい綻びだし、蕩けたような声で「美味しいよこれやばいよ」なんて彼に言ってしまった。


「そんな声、初めて聴きましたよ。相当美味しいんですね」


 私は思わず口を噤んだ。

 自分でも抑えられないほどの旨味が、私に張り付いた薄皮の仮面を溶かしていたことに私は抗うことが出来なかった。


「聞かなかったことにしてください。恥ずかしいんで」

私はすぐさま仮面をはめなおす。


「そんなこと言わないでくださいよ。可愛かったですよ、上井さん」

「ありがとう」


 私は澄ました顔でお礼を言ったが、内心は今にもここから逃げ出したいぐらいに恥ずかしさというものが湧きあがってくる。

 その恥ずかしさを隠すように、私はひたすらにパンケーキをつつく。


 あっという間に半分以上を食べたところで、私はふと手を止めた。

 小さなお皿にパンケーキを切り分け、彼の前に差しだす。


「美味しくて全部食べちゃいそうだから、はいこれ」

「ありがとう。全部食べちゃうのかと思ってた」


 彼はくすくすと笑った。

 それほどまでにこのパンケーキは美味しかったのだ。


「じゃあ、パンケーキくれたお礼に……」

 彼はごそごそとバグをあさり、一枚の白い封筒を取り出した。


「これ、受け取ってもらっていいですか?」

 目の前に差し出された封筒を、私は両手で受け取る。

 封筒の中身を見ると、そこにはチケットが2枚入っていた。


「これ……」

 私は呆気にとられた。あまりにも予想外で驚いたのだ。


「上井さん、興味あるかなって思ったんです」

 彼は少し照れながら笑った。


 チケットにはフェルメールの"ヴァージナルの前に座る若い女"が印刷されている。

 そしてその横には大きな文字で"ロンドンナショナルギャラリー展"と書かれていた。


「上井さん、絵描くって言ってたじゃないですか。来年の3月になってしまうんですけど、一緒に行きませんか?」


 私はほんの数秒、目を閉じた。

 あぁ、私、アプローチされてるんだな。


 嬉しいような、悲しいような、混色のグレーがかった感情が絵の具のように溶けては染み出していく。

 もう、こんなことで悩んでバカみたい。


「いいよ、行こっか」

 私の言葉が先走る。

 丁寧に封筒をバッグの中へとしまい、手帳を取り出した。


「ありがとう、上井さん」

 彼は一言、お礼を言った。


「私のほうこそ」と、心の中で呟いた。

 空白だったはずの3月14日に、私は『デート』と書き込んだ。


 窓の外を見ると、私たちの夜を飾るように、ちらちらと淡い粉雪が降りはじめていた。

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