Culaccino
culaccinoという言葉がある。イタリア語で「グラスについた水滴がテーブルに描く円状の水の跡」のことだ。読み方はクラッチーノ、他言語に訳すことは出来ない。初めてこの言葉に出会った時、粋な名前だなあと驚いたものだ。
それから私は面白くなって、そんな言葉を片っ端に調べた。例えば日本語の木漏れ日とか、英語の"gasp" だとか。とりわけキリグというタガログ語は気に入った。「お腹の中に蝶が舞っているような素敵な気分」のことだそうだ。たしかにそんな気分の時がある気がする。訳せない言葉は私が想像していた以上に存
在していた。
話は変わるが、人間にはクオリアというものがある。簡単に言えばリンゴを赤いと感じたり、パンを良い香りだと思う個人の感覚のことで、他人と共有するこ
とは出来ない。友人の「赤」はくすんでいるかもしれないし、あるいは青色かもしれない。そんな自分の感覚にさえ確証をもてない世界では、言葉なんて無力じ
ゃないか、と考えたこともある。
それでも私達は、翻訳できない言葉を理解しようと、近しい意味を宛てがう。
他人の気持ちに寄り添うために言葉をかける。ハッキリとした形骸をもたない水滴に名前を付ける。なんてもどかしく人間らしいことだろう。
私は言葉が好きだ。でもそれ自体は単語の集まりでしかない。言葉が言葉たる所以は、訳せない言葉にこそある気がする。 culaccino、私のお気に入りの単語だ。