消えた犬
あれは、僕が小学生の頃だった。家のある方向も手伝って、一人で学校から帰ることが多いのだが、それも「今日はこの道から帰ろうか」なんて自由がきくから気楽でよかった。田舎と呼ぶには抵抗がある程には家々が立ち並び、かと言って都会と呼ぶには無理がある程には人々が少ない町で、人とすれ違うことは滅多にない。その日は、やや遠まわりになるルートを選んだ。多分、採用率五パーセント以下の道だ。いつもの道とは一本違うだけで雰囲気がまったく違って感じられ、敬遠していたのかもしれない。実際は、同じような田舎の住宅街の似たような道なのだが。
その日はいつもと違って四、五人が人だかりを作っていた。そこには駄菓子屋があるため、店の前に置かれたソファーを中心として小学生が屯っていることが多い。しかし、人だかりには何か険しい雰囲気があったし、彼らは道のど真ん中に輪を作っていた(車一台は余裕で通れる道幅だが、無論滅多に車が通ることはない)。
何事かと興味本位で輪の中を覗いてみると、男の子がわんわん喚いていた。その右手は真っ赤な絵の具に手を浸してしまったかのようだった。とてもそれが血だということに、現実味が持てなくなる程に綺麗な赤色だった。
「もうすぐ救急車が来るからね。大丈夫だからね」
なんとか男の子をなだめようとしているのは、駄菓子屋のおばちゃんだった。既に当座でできる処置はしている所を見るとそれなりに時間が経過しているのだろう。しかし、救急車のサイレンはまだ聞こえてきていない。
「そこの家の犬にちょっかい出して噛まれたんだって」
訊くまでもなく、周りの子たちは現状を囁きあっていた。どの子たちも顔は知らないので同級生ではない。「そこの家」とは、駄菓子屋と道路を一本隔てた向かい側にある家で、確かにこの家には犬がいたことをおぼろげながら覚えている。しかし、敷地のかなり奥まったところにいて、道を普通に歩いていて襲われるなんてことはないはずだ。それがこの子たちの言う「ちょっかい」なのだろう。
事態の全容が把握できたところで、これ以上ここに居るのもいたたまれなくなった。噛まれた男の子と面識があるわけでもないし、これ以上野次馬をしているのも気が引けたのだ。単純に興味がなくなったというのもある。静かに輪を抜け、いつも通りの帰り道を歩き始めた。
翌日、先生から「他人の敷地に勝手に入って、犬に悪戯をして怪我をするという事件がありました」という連絡と、同じようなことをしないようにという注意があった。クラスメイトには「尻を噛まれたんだろう」なんて茶化す奴もいたが、先生の言う「怪我」と、昨日見た真っ赤な手とは別のように感じられた。
野次馬根性が沸き上がり、昨日と同じ道を帰った。しかしあの犬はいなかった。人に危害を加えた犬は保健所に連れていかれるのだと、何かで知識としては知っていたが、それなのだろうと勝手に解釈した。仮に殺されていたとしても、あの犬が狂暴だったのか、あるいはおとなしかったのか僕は知らないくらいなのだし、何の感情も湧かなかった。
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それから月日が経ち、僕は中学生になった。中学校では必ず部活に入らなければならないので、消去法的に美術部に入った。つまり、運動は苦手だったし、絵が上手いわけでも関心があるわけでもなかった。大方の部員も、程度の差はあれ同じようで、作品は作れど僕が見ても凄いと思う作品はなかった。そういったぬるま湯的な部であったわけだ。
部活によって、それまで同学年が主であったコミュニケーションの範囲が、ぐっと広まることになった。先輩後輩の関係が出来上がり、親しくなった先輩から「家、同じ方向なんだ、じゃあ一緒に帰ろうよ」と誘われれば断ることなどできないのである。それが女子との二人きりだったとしてもだ。
それだけ言うと、羨望の眼差しを向けられたり、そういう魂胆で入部したのではないかと勘繰る輩がいる。確かに美術部は男女比で言えば女子の方が多いが、女子が多いから入部したわけではないし、石を投げれば美少女に当たるほど、美少女率が高いわけでもない。田舎の中学校に、美少女がごろごろいるわけがない。事実、この先輩とも恋愛というよりも友達という感覚で接していた。帰り道、色々話しながら歩いていると、
「あ、私の家ここなんだ。じゃあ、また明日」
と言って唐突に僕から離れていった。そこは、僕が毎日のように通る道の途中で、何度も目にしたことがある家だった。そして、手を真っ赤に染めた男の子を見かけた場所でもあった。
「先輩は、あの犬の――」飼い主だったのか。目で追う先輩は、玄関を開ける。その脇には、使われなくなって放置された犬小屋がある。うちの中学は小学校からの持ち上がりで、だからあの事件は同じ小学校の児童の犬が、他の児童を噛んだというのが今更になって明らかになった事実だった。
結局、卒業するまで先輩にあの犬について訊くことはなかった。卒業後は連絡をすることがなくなったので、どうしているかは知らない。