第五十二話
「話があるんだろ」
暗い闇の中から、さらに黒いローブ姿のナターシャ。手には網掛けのセーターと凶器に出来そうな編み針を持ち、音もなく近付いてきた。
「わたしの事を知っている?」
また部屋が寒くなるのか? 冷凍マグロは食べる方でいたいんだよ。なる方じゃなくてね。それと編み針の先をこちらに向けるな危ないだろ。今なら命の危機も感じるんだよ。
「知ってる。編み物が好きな魔導師だろ」
無表情な中に少し顔を赤らめるナターシャ。ここは、そんなシーンなのか? 分からん。女心と魔導師心は分からんです。
「……違う」
「違うの? 編み物は嫌い?」
「そうじゃない…… 編み物は好き……」
僕、帰って寝たいんだけど…… お風呂にも入りたいしご飯も食べたい。一緒にご飯を食べる? 一緒にお風呂に入る? 一緒に……
「わたしは、四百年前の魔導大戦を引き起こした七人の魔導師の生き残り……」
……
……
えっ!? 四百年前だって!? ナターシャは四百才なの!? どうみても十代。リリヤちゃんと変わらないくらいかと思っていたのに四百才なの!?
「……驚くのも無理は無い。 大変な事をしたと思ってる……」
それは大変だろ。四百年も生きて来てそのプロポーションを維持してきたんだから。毎日、食事制限や適度な運動をしてきたのかな? 四百年も辛かったろうに。
「……わたしは…… わたしは、一緒に行けない。この城船に縛られているから……」
一緒に来るつもりだったの? 僕としては一人で行くつもりだったし、フィリス達は不可抗力みたいなものだ。
「……わたしは、特別な許可がないと、契約でこの城船を出れない。 ……一緒には行けない」
そんな事はどうでもいい! 四百才ってどうよ。どうすれば年の差を埋められるんだ!? 僕は江戸時代の人と付き合えるのか!?
「ナターシャ……」
何を言えばいいんだろう。「徳川さんは元気ですか?」 とか、聞くのか? いや、僕も錬金術師だ。「平賀源内さんは元気ですか?」と聞くべきか……
「……魔導大戦の時、わたしは力を振るった。それが正しいと思ったから…… でも、間違いだった…… あんなに人が死ぬなんて……」
戦争の話? それなら「大塩平八郎の乱」か? それとも「島原の乱」の話題がいいのか? 魔導大戦て…… なに?
「……今回も多くの人が死んだ…… これからも死んでいく……」
その名簿の中にミカエル・シンがないか調べておいて。有ったら消して構わないからね。僕に死ぬ気はありません。
「……わたしは、行けない…… ……わたしは 、ミカエルを守れない……」
ナターシャはそこまで言うと僕に漆黒のセーターを押し付け走り去って行った。僕を守りたかったのだろう。セーターはお守り代わりかな。
……ナターシャは来ないのは分かった。
……ナターシャは強い魔導師なのは分かった。
……ナターシャは魔導大戦の生き残りなのは分かった。
……ナターシャは四百才だと!?
今度から「さん」付けで呼ばないとダメだな。四百才も年上なら「様」の方がいいのか? それ以上の言葉ってあるのだろうか。「殿」はどうだ?
僕はナターシャの編んだセーターを広げてみた。肩幅は合っているが、急いでいたのだろう。袖の無いセーターはこれから必用になってくる。もうすぐ、季節は秋になる……
「ジョシュア、助かったよ。キャリアと魔石の恩は生きてたら忘れないかも知れない」
「一生、忘れるなよ。デカい貸しだぜ」
「ポーカーの貸しも忘れない」
「生きて帰るな! 死んで来い!」
「嫌だよ。天国は満員だって。 ……じゃ、行ってくるよ」
助手席にフィリスを乗せ、アクセルを踏む足を止めたのは、麗しの副頭ミリアムさんの声だった。もしかして一緒に来るとかじゃないだろうね。ジョシュアは持ち出し許可はもらったと言っていたけど……
「待ちなさいミカエル! 何の許可でキャリアを動かすの!?」
「えっと…… ダリダルア街に魔力の補充に行って来ます」
「そんな許可は出した覚えはないわ。指示書を出しなさい!」
こんな事もあろうかと、指示書も用意してくれたジョシュアに感謝だ。もちろん偽造だが、書式は本物だしサインも…… ラウラ親方かよ! 自分の名前を書いておけよ、ジョシュ!
僕は指示書を出す事に戸惑った。これをミリアムさんが見たら、指示を出したのがラウラ親方と思われてしまう。親方に迷惑を掛けたくない。
「早く出しなさい! それとも指示書は無いの?」
指示書はある。今から名前を書き換える時間はない。こんなピンチの時、主人公はどうするんだ? 僕の知ってるアクション映画なら、主人公が書類を見せた隙に撃ったりして難を逃れる…… 撃てるか!
どうしよう…… 書類は手元にあるけど、ラウラ親方に迷惑を掛ける事になる。ましてや確認などされたら烈火の如く親方が現れ、袋叩きで病院送りだ。万事休す…… 巨人を相手に覚悟を決めているのに、その覚悟はここで使いたくない。
僕が手元で握っている指示書をキャリアに乗り込んで奪うミリアムさん。 ……終わった。これでラウラ親方に迷惑を掛ける事になる。その上で鉄拳制裁が待っている。
「ミカエルが行く事はないのよ……」
取り上げた指示書を見ずもせず、僕を見るミリアムさん。あまりにも近く、瞳に映る僕が見えるくらいだ。
「し、仕事ですから……」
「……」
なぁに? 僕を見ないで指示書を見てよ。魔力の補充にダリダルアの街に行ってくるって書いてあるでしょ。僕は目線を指示書の方に向けると谷間が…… 深い深い谷間に引き寄せられ指示書が見れない。
僕は顔を上げると、さっきより近付いているミリアムさん。「ダルマさんが転んだ」って知ってますか? 見られている時は動いちゃダメですよ。
「……ミカエル」
なんだ、この展開は? なぜ近い? もっと離れた方が話がしやすいのに、なぜ近い? パーソナルスペースを有効に活用しようよ。
「行かなくても……」
話す息が唇にかかる。少し揺れただけで触れてしまいそうだ。恋の予感がしてしまいそうだ。このままブレーキを離してキャリアを揺らしたい。
「あっ…… の…… 仕事……」
僕が話せたのは恋の予感から少しだけ覚めてしまったからだ。ミリアムさんの目は何か全てを知ってしまった悲しそうな瞳をしていた。
「いくぞ! おら!」
ブレーキに乗せていた右足を蹴り、横からキャリアのアクセルを踏み抜くフィリスのお陰で僕達は離れた。ただキャリアから落ちそうになったミリアムさんは窓の縁に手を掛け、去り際に口付けをしていった。
「止めるのも「愛」かミリアム……」
「行かせるのも「愛」なの、ラウラ……」
僕はミラーに映る二人を見た。これでラウラ親方に書類の偽造と勝手にキャリアと作業用ウィザードを持ち出した事がバレるだろう。もう後戻りは出来ない。
「どちらが正しいのかしら……」
「わからねぇ…… わからねぇが、あいつ…… キャリアから身を乗り出して手を振ってるぜ。楽しそうに笑ってやがる」
「そうね…… 楽しそう……」
「あ、あの…… 親方、副頭、あれは多分、自分に向かって振っているのかと……」
「ん!? どういう事だ?」
「良く見て下さい。ハンドサインが出てますよ」
「……コ・ン。 ……ゴ・ウ・コ・ン。合コン!?」
「ミカエルらしいッスね」
「帰って来たら死なす!」
珍しく声を荒げたのはミリアムさんだった。僕は生きて帰っても死ぬのかな? どこか格安でお墓を売ってる所を探さないと。