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心を新たに

「はああ、一体いつまでここに閉じ込められていなければならぬのだ」


リューンは部屋に風を通そうとして、窓とは言えないような小さな排気口を開けた。そこには鉄製の格子が張り巡らされており、リューンの行く手を阻む。


諦めの息を吐くと、リューンは忌々しそうに天蓋ベッドに垂らしてある布を引いた。


「ムイは、元気にしているだろうか」


自分の留守をローウェンに託したとはいえ、リンデンバウムの領主がこのように長期にわたって不在にしていると分かれば、不穏な種を持ち込んでくる輩がいるのではないかと心配になる。


リューンは部屋をうろうろと回った。


(ハイドとやらの出方も気になってはいるのだが、)


そして、ベッドへと倒れ込んで、天井を見る。染みひとつない白く高い天井に浮かぶのは、ムイの顔。


「ああ、早くお前に会いたい」


リューンは頭の下に腕を入れて、ムイを思い出した。


ムイとは長い間、離れていた期間があった。ムイが国王陛下の歌姫であった時だ。


(どうしてあの時は、ムイと会えずに過ごすことができていたのだろう)


当時、ひとりの自分がどう過ごしていたのか記憶は曖昧だが、ムイと離れていても、リューンの心の中には常にムイがいた。


(あのまま会えずとも、俺はきっとムイを想い続けていたに違いない)


それほど、愛していた。


忘れられなかった。


何を見ても、何を食べても、ムイを思い出していた。


風の通る白いガゼボ、マニ湖をオレンジに照らす夕日、リューンから貰った髪飾りを探すためにムイが飛び込んだ蓮の畑。


そして、破られた小さなノートの切れ端に書かれた、ムイの辿々しい文字。


(あれが初めて俺が貰った、ムイからの手紙だった)


ムイの歩いた廊下、ムイの匂いのするベッド、ムイが軽い足取りで横切っていたバラ園。


リンデンバウム城のあちこちにムイの足跡を感じていた。


そうやってムイを思い出しては胸を熱くし、そして胸を痛めていた。


ムイが気に入っていた白いガゼボやマニ湖を望むバルコニーで、ぼんやりと過ごしていたのだろうと思う。空っぽの自分を抱えて。


「ムイとはもう離れられない。もう手離すことなんて、できないんだ」


そう決意して、ここ、ブァルトブルグ城の国王の元へと乗り込んだ。


(何としてでも、国王陛下に直訴し、結婚の承認を得なければ。そして、ムイを、)


「諦めてもらわなければ、」


声に出すと、途端にその難しさが浮き彫りになる。


(……けれど、何とかしてやり遂げなければならない)


目を瞑る。


そして、意を固くする。


同時に、力もみなぎってきて、リューンは深く息を吐き出した。


✳︎✳︎✳︎


ベッドの上で少しだけ、うとうととしていると、廊下のドアの前がにわかに騒がしくなり、リューンは目を開けた。


耳をすますと、何やら甲高い声と低い声が交わされている。


ドアの前には衛兵が二人、常時立っていて、リューンを見張っているはず。


その中に混じって、女性の声がしているのを、リューンは耳に入れていた。


(何だ、)


壁にかかっている時計を見る。針は夕方近くを指していた。


「そこを退きなさい」


興奮を含んだ声を聞いて、リューンはドアへと顔を戻した。


(……一体、何を騒いでいるのだ)


ドアにはカギは掛かっていない。無理にも逃げ出そうとはしないリューンに安心したのか、見張りはいるものの、途中からはカギは掛けられなくなったのだ。


すると、バタンっとドアが開いて、衛兵の荒げた声が部屋へと飛び込んできた。


「お待ちください」


「妃殿下っ」


リューンがさっと立ち上がると、一人の女性がゆっくりと入ってきた。


そして、お入りにならないでください、と制しようとする衛兵を追い払うかのように、後ろ手にドアをバタンと閉めた。


「リューン様でいらっしゃいますね。少しだけ失礼致します」


頭を軽く下げる。


肩をさらさらと流れ落ちた長い黒髪は、このように薄暗い部屋の灯りでも、艶を放っている。その黒髪があまりに印象的で、リューンは目を見張った。


薄い水色に染めたドレスの裾が、絨毯の上で擦れる音がする。そんな衣擦れの音がさらりと耳に入ってきて、リューンは思わず片膝を屈した。


「妃殿下、初にお目にかかります」


リューンが深く頭を下げた。そして、そのまま見上げると、ソフィアは手を前に重ねて姿勢良く立っていた。

再度、頭を下げる。


「リューン様、突然のこのような訪問、大変失礼致しました」


リューンが立ち上がって、部屋のソファを勧めると、ソフィアはすっと座り、足を横で揃えた。


ソフィアが手を差し出して、そ、と自分の前に置いてある一人がけのソファを指し示す。


リューンは、促されるまま、そこへ大人しく座った。


「リンデンバウム領領主、リューン様。お噂はかねがねお聞きしております」


「はい、」


「この度は、ムイとのご結婚、心から祝福いたします」


心にじんっときた。国王陛下の近しい人間に、祝福されるとは思わなかったからだ。


リューンが、ソフィアをじっと見る。美しさは気高いものであり、その佇まいには品を感じられる。このような質素な小部屋であっても、高貴な空気は淀まない。


(さすが、国王の奥方だ)


思いながら、慇懃に礼を言う。


「ありがとうございます」


「それはそうと、」


急いでいる、というように慌てて話を進めながら、ソフィアが眉を歪ませた。みるみる悲哀の表情に変わっていく。


「このような場所にこのように閉じ込めるとは……」


「そのことですが、なぜここが?」


リューンが尋ねて、ソフィアが答えた。


「わたくしの側近は、城一番の情報通ですの」


歪ませた表情のまま、口角を上げた。


「捕らえられており、身動きが取れません」


「わたくしからリアン宰相にご説明をさせていただきます。ですから、リューン様はわたくしと一緒においでになってください」


「貴方にご迷惑をお掛けすることにはなりませんか?」


ソフィアが立ち上がり、ドアへと歩み寄り、そして手招きをする。


「お荷物があればお持ちください」


ドアを開けると、待ちかねたように衛兵が二人、声を掛けてきた。


「妃殿下、このように勝手をなさっては、」


「大丈夫よ、リアン宰相にもお話しします。リューン様は、リンデンバウムの領主にして、わたくしの大切な家族であるムイの旦那様ですよ。わたくしの家族も同然なのです。それを、このように足止めをなさるなどとは、一体どのようなご了見なのでしょうか」


「ですが、」


「わたくしが話します」


「妃殿下、」


「リューン様をお送りしたら、直ぐに伺います。そのようにリアン宰相にお伝え願いますか?」


ピシャッと言い放って、ソフィアは廊下を歩き出した。その後ろ姿にも威厳があり、リューンは心底感心した。


衛兵も二の句が告げずに、後退した。


その頼もしい後ろ姿についていく。斜め後ろに並ぶと、リューンはソフィアに声を掛けた。


「ムイを家族と言ってくださり、ありがとうございま、す、」


胸が熱くなり、言葉が先を進まない。ソフィアがリューンに顔を向けて言った。


「わたくしの病を治してくれたのです」


眉をハの字にして、さらに続けた。


「それだけではありません。ようやく授かった御子に、よく歌を歌ってくれました」


「御子?」


奥方が懐妊したという話は、一度も耳に届いていない。ローウェンでさえ知らないはずだと思った。なぜなら、ローウェンが耳に入れたことは、まずは領主である自分に通すはずだった。


怪訝な目で見ていると、ソフィアがくすっと笑った。


「女の子だったのです」


「それでも、王女ならそのように発表を……」


「宰相たちに反対されたのです。王女なら伏せた方が良いと。なぜならそれは国民が今、大変疲弊しているからです」


「それであるならば、余計に明るい話題となり、」


「いけません、祝福という名前にすり替えられて、国民に余計な負担を掛けることになるからです」


「暴動の懸念を?」


確かに今、国民は前代未聞なほどに貧しかった。貧困率は徐々に上がり、民の不平不満は自分の領地ばかりでなく、各地で耳にしていた。遠征に出かけ地方の飲み屋に入れば、国王や貧困への愚痴のオンパレードだ。リューンは身に染みて、それを肌に感じ取っていた。


「そうです」


そして、ソフィアの頬が緩む。


「ミナというの。まだ三歳よ」


「それは可愛い盛りだ」


「ムイが、よく歌を歌ってくれて。ミナにムイが歌を聴かせると、とてもよく眠るの。それはそれは、安らいだ顔をしてね」


廊下を曲がると、階段を上がる。上へ上へと向かうと、突き当たりに部屋がある。そこへリューンを案内すると、ソフィアは振り返って言った。


「ムイには幸せになってもらいたい。わたくしをこんなにも幸福にしてくれた。感謝しても感謝しきれないほど。後ほど、陛下への謁見を申し上げてみます。リューン様はそれまでここでお待ち願いますか」


ドアを開けると、今までいた部屋とは打って変わって、日の光が入る心地よい空間がそこにはあった。


「ありがとう、感謝を申し上げる」


ソフィアはドアを閉めようとして、その手を止めた。


「ムイが、」


リューンが身体を正面に向ける。


「笑ったところを見たことがないのです。ここにいる間、ムイはいつも薄く微笑むだけでした。それも、とても寂しそうに。けれど時々、ほんのり慈愛の表情を浮かべる時がありました。あれはきっと、リューン様のことを思い出していたのだと思います」


そして、ソフィアは去っていった。


リューンの心は温かく、そして満ち足りていた。


離れていた時。自分のことを考えていてくれたのだ、そう思うだけで胸が熱くなってくる。


「ムイ、お前に会いたい。けれど、その前に国王陛下にお会いしなければ」


心を新たにした。

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